0 | 暁天
割れてしまった蛍光灯と、ガラス片が混入している可能性がある範囲は全て弁償する、と葉佩に言われた。室内に残していたのは、もともと動かせないような什器だけで、商品は下げていた、サシェのバスケットや造花の飾りなどは面倒がってそのままにしておいたので、交換が必要なのはそれだけだろう。足りないものは、皆守が開店までの時間に走り回って準備しておくほかなかった。
ガラス片をそのままにしておくと、万が一、早めに様子を窺いに来た店長や社員があったときに怪我をしかねない。皆守は事務室から装具用具を出してきて、葉佩と一通り掃除を済ませた。葉佩にはしばらく座っておけと皆守は強く言ったのだが、もういいからと立って当たり前に動いている。この仕事をしているのは葉佩のほうで、身体の調子と付き合っているのも彼のほうだから、彼の大丈夫だという言葉を信じた。
掃除用具を片付け、ガラス片に巻き込まれていそうなものをまとめてゴミ袋に入れた。
「問題はドアだな」
「それも一緒に請求して」
「壊したのは俺だぞ」
「壊すような事態にさせたのはおれだよ。いいから」
「……分かった」
壊れたもの、交換が必要なものを、皆守は社内端末にメモしていく。そのメモが完了すると、自分のプライベートの携帯電話に転送した。ドアはこのままにしておくとこの場から離れることもできないので、原状復帰にいそしんだところ、蝶番を戻せばまあまあ見られるようにはなった。ロックの部分を壊したわけではないので、鍵もかかる。店内には物らしい物も残っていないし、今のところはこの状態にするしかなかった。
皆守は工具セットを持ち、葉佩は弁償箇所を写真に収めて、現場を後にした。二人で黙って駐車場に戻り、葉佩がトランクを開けて、工具をしまう。トランクを閉めて、皆守の顔を見た。
「……乗る?」
「乗る」
「何時に戻ればいい?」
「八時だな」
「分かった。乗って」
葉佩は運転席に行き、皆守は助手席のドアを開けた。乾いた線香の香りが、心を慰める。
運転席に腰を落ち着けた彼は、黙ってエンジンを掛けた。車体が揺れ、ガスを吹く。タイヤがコンクリートを踏み、駐車場を出た。
街はまだ暗く、道にはトラックが多い。時折、厚手のジャンパーを着た若い男が自転車を漕いでいた。前かごに新聞紙が入っている。同じような装備のスクーターとは、信号待ちで並んだ。
まだ夜明けではないが、目覚める準備をしている。街は毎日眠り、毎日目覚めている。
葉佩がハンドルを切った。交差点の信号上に交通案内が出ていたはずだが、皆守は窓ガラスばかりを見ていた。磨かれたガラスに、自分のしみったれた顔が映っている。眠っておらず、長く緊張感にあてられてひどい有様だったが、悪くはない気分だった。
車は皆守の知らない道に入った。もともと、都内を車で移動する習慣がない皆守には幹線道路の地図は頭に入っていなかった。常用している駅とは反対方向に来ている、とだけ思った。
葉佩の横顔は、重荷を取り払ったようだった。その体には一人分の魂が増えただろうに、その負担を匂わせもしない。
やがて、車は広い駐車場に入った。白線を二つはさんだ向こうは大きなトラックで、皆守も知る運送会社の名前が印刷されていた。
「喉渇いちゃった」
葉佩がそう言って、車を停める。エンジンを切って、振動が止まった。
彼と一緒に車を降りる。大きな幹線道路沿いのコンビニだった。駅の中に敷地を争うように建っているコンビニよりも看板が広く、トレードマークの色を光らせている。
二人で入り、飲み物を探した。レジに並ぶとき、皆守が持っていた缶コーヒーを葉佩が奪い取った。おい、と言ったら、前に奢ってもらったから、と言われた。前って何年前だよ、と言ったが、葉佩は笑うだけで答えた。
コンビニを出て車に戻り、エンジンをつけないままコーヒーを飲んだ。熱いものを選んだので、指先の血管が熱く燃えているような気がする。
「夜明けだ」
葉佩が言った。彼が指さしたのはビル群とは反対側の住宅街で、屋根が白く光るのが見えた。日が昇るのだ。朝が来る。
「これ」
運転席に座る葉佩が、携帯電話を皆守に渡した。何かと思って見下ろすと、電話番号が表示されていた。
「おまえの?」
「そう。掛けて。今」
皆守は自分の携帯電話を取りだして、画面の中の数字をひとつひとつ確認しながらプッシュした。そして、発信する。
皆守の手元にある電話が着信に反応して震えた。葉佩が横から手を伸ばして電話を取り、耳に当てる。
「はい、葉佩です」
「……もしもし」
「皆守?」
「……あァ」
「そうか。……なァ、皆守」
「なんだよ」
「ありがとう」
横から、生の声と、電話口からの加工された波長の声と、両方で聞いた。
「……俺の台詞だ、それは」
同じ大地に、いま存在している。互いの存在を互いに明け渡して、二人とも存在している。
だから言葉を交わせるし、目線が通じるし、話すことができる。
「今度、ふたりで遠くに行こうぜ」
同じ大地にいるから、次の約束だってできる。
「あァ、行こう」
暁の空は青い夜を白く覆い、すべてを祝福した。夜は銀の粉を残して去って行く。この大地はめぐり、また夜が来るだろう。