3 | エラー


 は、と目を開けた。うたた寝していたらしい。何か予定があるわけでもないのに、大学院で生活しているといつも時間が足りないような錯覚に陥るのだ。初めて乗る車のシートだというのに寝てしまうほど疲労していたつもりはなかったが、体はしっかり疲弊していたらしい。いまは待ち時間とはいえ仕事中だった。しっかりしていなければならない。
 皆守は首を回し、携帯電話で時間を確かめた。葉佩は十二時半までひとまず調査をすると言っていた。それまで、皆守はここから動かないほうがいいだろう。現在時刻は十二時二十分だった。約束の時間まであと一〇分ということになる。あと一〇分しかない、と思うと、今まで寝ていたくせに不安になった。このまま、ここで一〇分を待っていいのだろうか。他に皆守にできることなどないのに、そう考えた。

 皆守が成長したのと同じように、葉佩も成長しているはずだ。数ヶ月同じ学び舎にいただけの人間が、こんなにあれこれ考える必要はないだろう。
 それくらいのことは、皆守も分かっている。だというのに、いま皆守だけ安全な車の中にいて、葉佩の動きがまったく分からないというのは気が急いた。
 数年間、葉佩の動きはまったく分からなかったことは今と同じだ。今は、それがただ、距離が近づいただけにすぎない。今までと同じだろう、と言い聞かせても、納得できなかった。

 思いがけず出会ったのが葉佩だったということがあまりに劇薬で、自分の頭は麻痺してしまっている。葉佩に会ったら、言いたいことややりたいことがたくさんあった。最後に会ったときから、日が経つごとに増えていった。おまえと会う日を待っていた。だというのに、今日この日、なにも準備してこなかった。おまえに会ったら、これを言おうあれを話そうと思っていたはずなのに、咄嗟に何も出てこない。ため込むだけため込んで、取り出すための練習を何もしてこなかったから錆び付いている。

 今のうちに何かを考えておこうかとも思う。十二時半になって、葉佩がこの駐車場に戻ってきたらまず何と言ったらいいんだ。けれど、彼は仕事で来ているのだから、あまりに私的な話をするのも無礼だった。ちゃんとした大人としてのふるまいを考えれば、元気だったか、今さらのようにそう問いかけるのが関の山なんだろう。仕事の依頼人代理として、彼から報告を受け、それを店長に伝える。本来ならそれが皆守の役目だ。久しぶりに会った葉佩と旧交にあたためることは、皆守の仕事の範囲外になる。
 でも、そんなふうに冷静ぶった行動をするのが、葉佩と相対する場合に正しいとは思えなかった。

 かつての自分は、冷静ぶって何にも思っていないふりをしていたから、何もかも中途半端だったのだ。本当は山ほど、彼に伝えるべきことがあったはずなのだ。あのときも今も、道理をなんにも分かりたくないくせをして、訳知り顔でいるのは皆守のほうだ。
 それに、天香學園にいた葉佩も、本来は仕事で来ていたのだ。同じことじゃないか。

 時計を見た。十二時半を、五分過ぎている。
 あいつは、時間にルーズなほうだっただろうか。思い出そうとしてみたが、天香學園にいたころはあまりにも同じ時間を過ごしすぎていて、時間を決めて待ち合わせなどしたことがない。

 あと少し待ってみるべきなのか、あと少しっていうのはどれぐらいがちょうどいいもんなんだ。どうするのが正しいのか、見当もつかない。
 高校時代のほとんどを人間と関わらずに過ごしてきたつけが今になって皆守を振り回している。
 時間を一度気にしてしまうと、もう頭から離れなかった。十二時四十分になったところで、皆守は車を降りた。ロックをして、葉佩をひとり残してきた職場へ向かう。だんだんと早足になった。深夜の商業ビル街はしんとして、飲み屋街にあるにぎわいが遠くに聞こえる。にぎわいが遠くに聞こえるということが、この場所の静けさを思い知らせる。静寂が皆守を追い立てた。

 表から店内を窺ったが、グレイのシェードを下げているせいで、中の様子は分からなかった。葉佩を案内した裏の事務室に回る。
 そうして移動しているあいだ、店内からの音が聞こえないということが恐ろしい。葉佩は中にいるはずだ。そこに自分が入っていっていいのか、迷うタイミングはもう過ぎた。ここまで来たあいだにまた五分ほどが経過している。
 皆守が依頼人代理であるのと同様に、葉佩も仕事だ。約束した時間を十五分超過するというのは、長すぎる。時間がかかりそうだと思ったら、最初からもっと時間に余裕をみておけばよかったのだ。

「おい、大丈夫か」

 皆守は、ドアを強く叩いた。返事を待たずに開けようとしたが、鍵がかかっている。わざわざ鍵を掛けたのか。そう思うと入らないほうがいいのかとも思えたが、返事がない。皆守はドアに片耳をつけて、室内の音を聞こうとした。耳がふさがれたときの、ぼうという音がするばかりで、室内の様子は何も伝わってこない。

「時間、過ぎてんぞ!」

 強い声で、また叫んだ。ドアに耳をあてる。何も聞こえない。
 これだけ騒いでいるのだから、もし葉佩がこの場を離れていたのだとしても、聞こえるはずだ。だというのに、足音すらなかった。
 何も音がない。はっとした。空調の音すら聞こえなくなっていた。

 おかしい。この場は、もう何かがおかしいのだ。

「九ちゃん、おいッ」

 そう呼ぶ。こんな静かな室内で声をたてたら、反響するはずだ。だというのに残響も聞こえない。皆守はドアを蹴りつけた。ドアというのは、これほど硬いだろうか。ドアノブを両手で掴んで、無理矢理開こうとした。だが、ドアノブの中から皆守の力を押しとどめる何かがいるかのように、びくともしなかった。

 ドアの蝶番ごと外すしかない。

 店に簡易的な工具はあるが、それはこのドアの向こうだ。コンビニに走るか、という考えが頭をよぎるが、いや、と思い直した。
 車内にある。葉佩なら置いている。

 皆守はすばやくきびすを返した。一歩の幅が広いことをこれほどありがたく思ったことは、なかなかない。




 閉めきられた學園の休日、受験勉強にいそしむつもりもなければ部活動もない身では、どうやって時間をつぶせばいいのか迷う。葉佩に電話を掛けたが、出ないので探しに出た。自室だろうか。
 冬が間近に迫る學園は至るところが乾いていた。枯れ葉は風が吹くたびに枝から離れ、角に山を作る。事務員がぐうたらと掃除をしているところに出くわすこともあったが、この広い敷地では追いつくはずもなかった。
 寮の廊下にぽつぽつとある窓は閉め切られていて、空気がこもっている。だが、窓を開けていこうとは思わなかった。

 皆守は窓から外の景色を見ながら、葉佩の部屋までゆっくりと歩いた。急ぐようなことは何もない。まだ陽は高くにある。秋の雨は長く、今朝までしとしと降っていた。そのおかげで土はしっとりと湿って、萩は枝から雫を落とした。寮の窓から見える範囲に、プランターの寄せ植えがある。この季節、夏に咲く花はもう冬に備えて土の中に潜り込んでしまっていて、彩りが少ない。白い産毛が隙間なく生えたシロタエギクの葉が、その隙間を埋めていた。冬の寒いあいだも、あのやわらかい葉はすこやかに茂っている。その始まりの季節だった。

 葉佩の部屋の前に立ち、念のためにノックをする。律儀に返事を待った。室内で葉佩が何を広げているか分からないので、皆守はこれらのマナーを欠かさないようにしている。

――待って、開ける。

 ドア越しに、そう聞こえた。開ける、と言われたことが引っかかった。葉佩は在室しているときに鍵を掛けていることが稀だったし、皆守が訪ねてきたときの返答は決まって、どうぞ、だった。
 葉佩が開けると言うのに逆らうつもりはなかった。待って、と言われたとおりに待つ。待っていたのは一分足らずだった。

――入れる?

 ドアが開いて顔を出した葉佩は、皆守にそう言った。部屋が散らかっているのかと思えば、そんなことはない。片付いているとはいえないが、部屋に入れるかどうかを気にするほどではない。

――なんかあるのか。
――あ、いや、大丈夫そうだったらいいんだ。

 どういう意味なんだ、と思いながら、開いたドアから室内に入ろうとする。敷居を超えようとしたとき、葉佩の言葉の意味に気づいた。妙な感覚があった。大きなシャボン玉のような膜、が感覚にもっとも近い。力を込めれば超えることはできるが、弱々しいながらも抵抗がある。
 皆守は室内の廊下に立つ葉佩の顔を見た。葉佩はその視線ひとつで皆守の状況を察した。

――あ、無理そう? 加減が難しいな。
――これは、なんだ? 入ってもいいのか?
――入れそうなら大丈夫だよ。一度入れたら、もう変な感じはないと思うけど。

 どういう意味なんだ、と再び考えた。だが、葉佩がいいと言うので、ひとまず敷居を超える。シャボン玉の中に入ったかのような感覚が、鼻先から目を通り、耳を過ぎて髪を覆って、部屋に全身が入りきった。入ってしまうと、もう何も違和感がない。まばたきをした。高いところへ登ったときのような耳詰まりがあったが、それは泡がはじけるようにすぐに消えてなくなった。

――近ごろ、墓地のほう……あそこにいた霊たちが墓地から離れはじめてんだ。ちょっと数が多くて、厳しい。から、まあ、なんていうのかな。ここをめちゃくちゃにきれいに、神社みたいにしてる。それで、他人が入りにくくなってるかもしれなくってさ。

 事情を聞く前に、葉佩がそう話した。皆守が入ってきたドアの上を指さすので見上げると、そこに簡易的な鳥居が貼り付けられてあった。ドアの裏には正月飾りのように榊が下がっている。それらは分かりやすい部分の話であって、実際には多くの積み重ねがあるのだろう。
 皆守は、黙って聞いた。
 墓の蓋がゆるみはじめている。それは、墓守も同様に肌で感じる危機感だった。

――厳しいっていうのは別に、彼らに悪さされてるわけじゃない。なんだかんだ、おれはこういう状況に慣れてるからいいんだ。
――……そうか。
――まあ、座れよ。別に、緊急の話っていうんじゃない。

 葉佩の部屋は相変わらず荷物が多い。それぞれ丁寧に整理はされているようなのだが、所持品の多さが追いついていない。足の踏み場を考えなければ進んでいかなければならないくらいなので、床には座るような場所がない。それはいつものことだった。皆守は床に積み上げられた本や石、くすねてきた薬品や束になっている紙や布、こまごましたものを入れている標本箱やレターケースを避けて進み、ベッドに腰掛けた。ベッドの上だけは、いつも整っている。寝ぼけた顔つきのぬいぐるみは、ベッドのすみで転がっていて邪魔にはならない。

――なんか飲む? てか、なんか用事だった?
――時間をもてあましてただけだ。
――ああ、分かるわ。土日ってヒマだよな。
――……それで?
――なに?
――話の続きだっただろ。

 からかうような口調で、優し、と言われた。

――うるせえな。
――皆守は元気そうだな。
――なんだよ、馬鹿にしてんのか。
――本気本気。これだけ霊が多いと、体調悪くする生徒もいるだろうなと思って。

 葉佩はキッチンに立ったまま、皆守に出すつもりなのだろうマグカップを片手にあれこれと缶をまさぐっていた。インスタントコーヒーの缶や茶筒があると思うのが通常の生徒だが、葉佩は通常の生徒ではない。何が出てくるか分からない笑いを含んだ焦りがあって、水でいい、と皆守は言った。

――お前はいいのか。
――体調? うん、おれはね、彼らの存在が分かるし、何が起きてるか分かるから大丈夫。

 彼ら、と、葉佩は霊のことをそう呼んだ。霊というものを『遺された情報』だと解説した人間と同じ口から出てきた言葉だとは思えなかった。この呼び方は、霊のことをただの『情報』とは思っていない、意思のある存在として扱う態度のように感じた。
 目の前に立つ葉佩から、さざ波のように打ち寄せてくるものがあった。その波は皆守を絶え間なく濡らし、雫をしたたらせた。
 葉佩は、水の入ったカップをデスクの上に置いた。

――さっき、霊が多くて厳しいって言ったのは、体調がどうって話じゃなくてさ。前にも話したことある気するけど、おれはここにいる霊の言ってることが分からなかった。でも最近、墓から出てきた霊は、違うんだよな。
――……違う?
――言っていることが分かる。おれが向こうに慣れて、聞き取れるようになったってわけでもない。どっちかといえば、変わったのは彼らなんだ。まるで向こうが……通訳を得た感じで。

 皆守は窓を見た。カーテンは開け放たれていて、薄い雲越しの午後の光がなだらかに差し込んでいる。窓は内側に濡れていた。水で拭き清めたのだ、ということが説明されなくても頭の中に浮かんだ。この一室の中は神社のように、文字通り清廉なのだ。

――そんで、いまは彼らの言っていることは分かるけど、内容は要領を得ない。あんまり複雑なことを知らないんじゃないか、と思う。彼らを束ねてる誰かが、たぶん……いるんだろうな。その誰かから指示か、命令くらいキツいやつなのか、それともただ切羽詰まってるのか……それで、伝えたいことがよく分からない。でも、おれが分からないよって言っても向こうは、それがまた分からないんだよな。それがしんどいわ、わりと。
――子ども相手にしてるようなもんか。
――イメージはそんな感じだね。何かを主張してはくれるけど、おれはそれが分からないから叶えてやれない。向こうは、おれじゃ手助けできないってことが分かんないから、ずっと主張しつづける。……おれに憑いてくれたら落ち着いてもらえんかなと思ったけど、そのつもりはないみたいで全然だめだ。それが、わりとしんどい。墓地の遺跡くらいしんどいから、ずっと続いたら無理だと思って、この部屋には入れないようにさせてもらった。ってところ。
――なるほどな。

 皆守は、霊と出くわしたことはない。墓が緩んでいるということは神鳳や阿門から情報共有を受けてはいたが、当事者になったことはなかった。いまの葉佩の話と合わせて考えるなら、墓守の中でも深層に近い者である皆守には近寄りがたいのだろう。
 葉佩は皆守を避けて、ベッドに寝転がった。ライオンのあくびのような息を吐く。

――疲れた。今日ずっと試行錯誤してたからさあ。
――そんなところに押しかけて悪かったな。
――それはいいよ。
――……九ちゃん、墓地に行くの嫌なのか。

 墓地の遺跡くらいしんどい、と彼は言った。皆守の問いかけに、葉佩は薄く目を開けた。

――居心地はよくない。
――なのに、それでも行くのか。
――一番は、それが仕事だからだけど。まあ、あとは、彼らの側に立てるトレジャーハンターっておれくらいだよなという、自惚れもある。

 そうか、と皆守は言った。

――悪い、皆守。遊びに来たとこ悪いけど、おれ寝ていい?
――ああ、そうしろよ。

 皆守が腰を浮かしかけると、葉佩が皆守、と呼び止めた。

――いていいよ、別に。アロマ吸ってて。
――匂いつくぞ。こういうの……香も焚いてあれこれしてんじゃないのか。
――あー……それで遠慮してくれてたんだ? ありがとう。でも、いいよ、ラベンダーなら。
――言ったな?
――うん。

 葉佩が笑って、ベッドが揺れる。皆守はアロマパイプをくわえた。金属製でありながら、パイプにはラベンダーの香りがしみついている。火をつけた。ジッポのオイルの甘い香りが一瞬で火の熱い香りに覆われた。温度にも香りというものがある、と感じる。
 ラベンダーの呼吸を重ねて、目を伏せる。
 艶のある葉を茂らせる榊は、ドアだけでなく部屋の四隅にもあった。ここは、葉佩の手で外界から区切られている。子どものように頑是ない墓地の霊を排除している形ではあるが、その冷たさは感じなかった。鬱陶しいわけではない。ただ、頼みを把握できない自分自身が息苦しいのだ。
 榊が青々と、部屋の中で輝いている。瑞々しく厚い葉は、どこから調達してきたのだろう。苦心したに違いないのだが、それでもわざわざ調達したのだ。

 葉佩のことを、今までの皆守は偽善のように感じていたかもしれない。結果を伴った上での、なりふりかまわない手助けが本来の善のように思っていた。
 結果が伴わないことが分かっているなら、手助けははなから不要のはずだ。それでも行使しようというなら、それはそいつが善人ぶりたいだけの偽善だ。
 感謝されないならやめるというなら、それは不純な善なのだ。手助けで対価を得ようというのは、利益に目がくらんだ偽善者だ。
 そうやって人々の手助けというものを、寒々しく思っていた。

 顔を上げると、葉佩がいつも遺跡に持ち込む弓矢があった。矢筒には『天香學園弓道部』という書き込みがあり、皆守は笑った。
 あの矢は矢尻が抜かれて、代わりに木が埋め込まれている。木では金属の代わりになるのか、皆守には分からない。軽くしているから、葉佩は十メートルまでしか当てられないと言うのかもしれなかった。

 横で葉佩が眠っている。その体の中には、三人の霊も共に眠っている。皆守には葉佩の存在しか見えない。
 その葉佩から、今もなお、さざ波のようなものが打ち寄せていた。錯覚だと分かっているのに、その感覚が止まらない。ベッドに手をついた皆守の指の間に満ちては引き、引いては満ちる。繰り返していくと、皆守の手の甲までが浸かった。よどみなく流れていく。
 これは情だ。
 葉佩から流れ出す水は、ベッドからさらさらと床に垂れる。床の上に広がり、積み上げられた多くのものを浸していく。かつて斃すべき相手として向き合った生徒から贈られた雑貨や、譲られた教科書や標本、石は沈んで全体を流水にひたされている。矢筒ごと、矢を揺らしているように錯覚した。
 矢尻のない矢は、攻撃力が劣る。殺すことを第一義としていない弓矢だった。
 それでいいのか、と皆守は葉佩に尋ねたことがある。ポケットコンロで矢をあたため、ペンチで矢尻を引き抜いているのを横から眺めていたときだった。
 それでいいのか、それで斃せるのか、と尋ねた。

――それは大事じゃないんだ。おれ、トレジャーハンターってことで雇われてるからさ。

 当時の皆守は、それをどう捉えていいか分からずに、そうかとだけ答えた。
 葉佩は死を知っている。葉佩の中には、三人分の死がすでに収まっている。彼の目は、死んだものを見る。今はもうここにない情報を追う。遺された情報にどれほど心を動かされても、もう戻してやれない。
 霊の願うことを叶えてやれないとき、どう感じるのだろう。
 もう守ってやれない、情報になりはててしまったものたちを、どう思っているのか。
 それらが埋め尽くしている今の學園は、葉佩にとってどんな場所であるのか。
 皆守は想像しようとして、やめた。自分がそれを思いやるのは、怯懦のあらわれのような気がした。自分の役割は、強固に定められている。そのはずだ。役割に正しさも誤りもなく、緩みなどあってはならない。
 だが、葉佩のこれは緩みだろうか。葉佩から流れ出て、今も皆守を浸しているこの揺らぎ、この情の芯は緩みといえるほど軟弱だろうか。葉佩はいつも、張り詰めている。
 緩みなんかじゃない。甘さなんかじゃない。許しなんかじゃない。怯えなんかじゃない。弱さなんかでは、到底ない。
 これは硬く、葉佩が立っている大地だ。葉佩の血肉が通った目線であり、心であり、意地である。

 俺は、何をしてるんだろうな。
 ここで俺は、何をしてるんだろう。

 喉の付け根が、絞められたように痛い。葉佩を見た。彼は、まさか隣にいる皆守が自分の命をねらっているとは、まったく思っていないだろう。今も皆守が、彼をここで殺すべきなのか思案していることなど、考えたこともないはずだ。

 アロマの火が消えた。

 皆守は、唇からパイプを離した。空気をあたためるように、淡い煙を吐く。パイプをポケットにしまいこみ、ベッドの上に足をもちあげて、仰向けでまどろんだ。横の葉佩の眠気がのりうつったように、皆守は眠った。
 透明な湖に葉佩と二人で小舟に乗る夢を見た。湖は絶え間なく、星のような水しぶきを散らした。葉佩は目を細めて遠くを見ていた。皆守は視線の先を追い、そこに朝焼けが広がるのを知った。




 空気が乾いていて、皆守は咳をした。風は吹けば強風といったところで、皆守は寮に戻るために風を避けながら行くのを選んだ。
 阿門は警戒に警戒を重ねた心労で、何を話すにもずっとしかめ面だった。あの阿門の前に出ると、皆守は内心、うなだれるほかない。彼にそれだけの心労をかけている男の片棒をかついでいる、という意識がとぐろを巻いていた。阿門に対して、そんな顔をするなと言ってやる立場にいない。皆守は阿門のため息を数回、黙って聞く。
 皆守を慮っているのか、阿門が皆守を呼びつけるのは放課後から夕食までのあいだだった。授業に差し障りがなく、《転校生》に不在を見咎められない時間帯だ。その気遣いも、また一枚の針のむしろだった。
 校舎はすっかりと暗くなり、後ろから皆守を追い立てる。一歩行くごとに、その後ろが闇に飲み込まれていくような気がした。

 広い道は、強風が容赦なく吹き付ける。建物のあいだを縫うように行くと、自然と陰を歩くことになる。薄暗い場所にはヤツデが大きな手の形をした葉で手招いていた。白く小さな花は、固まって咲くので鞠のような形になっている。掌の葉に守られるように咲く花の鞠は緑がわずかに透けていて、晩秋から初冬にかけて見られる花のうちでも目立たない部類だ。けれどもふと気がついたとき、日陰に力強く伸びる植物として、季節の移ろいを感じさせる。日陰には、他の植物がなかなか居着かない。その日陰でおおぶりに育つヤツデは、しゃんとして見える。
 ヤツデの横を通り過ぎると、墓地の入り口が見えた。墓守小屋が寂れた気配を漂わせている。墓守小屋の主は、今夜はまだ自室で休んでいるだろう。小屋を過ぎた先を曲がると墓地となる。

 誰かに出くわすだろうか、いや、この時間はまだあいつだって夕食をとっている時間のはずだ。

 引き返そうとしても、皆守が来た道はもう闇に食われているから引き返したくなかった。そのまま前へ歩いて行く。墓地の入り口にさしかかって、墓地に目を向けた。
 すっかり日の落ちた、不気味ささえある墓地の中に、二人の影が見えた。墓石の前にしゃがみこむ人間と、そのかたわらに立つ人間がいる。立っているほうの人影が顔を上げ、皆守を見た。髪が長く、強い風にあおられている。白い顔が、夜に浮かんだ。その顔は、皆守の知る顔だった。思わず立ち止まる。
 しゃがみこんでいた人間も立ち上がって、こちらを見た。その背筋とまなざしに、皆守は焼かれたような心地がした。

――皆守。

 呼ばれてしまうと、逆らえなかった。皆守は墓地に足を踏み入れ、彼の、葉佩のそばに立つ。
 葉佩の傍らにいた男とは、目線のみで挨拶を交わした。目線だけで充分で、それ以上は不必要だった。

――何してんだ、こんなとこで。冷えるだろ。
――ちょっと神鳳に付き合ってもらってた。
――何をだよ。
――墓地に一つ、墓石を加えることはできないかと言われまして。

 かたわらに立つ男が、淡々と答えた。

――墓石を加える?

 皆守は神鳳の言葉を繰り返して、葉佩の顔に疑問形でぶつけた。葉佩は眉尻を下げて、うん、と言う。その顔に夜の青白い暗がりが影を落としていた。乾燥でひび割れた唇を、彼が舐めた。

――おれに憑依してたうちの一人が、今日の昼くらいにいなくなったんだよ。たぶん、成仏したんだ。
――……そいつの墓を? ここに?
――墓っていうか、遺体があるわけじゃないからまた話は別かもな。でも、高校生くらいだったんだ。若かったのに、自分がどうなってるかよく分かってた。幽霊になっている自分のことが怖いって言ってて、だからおれが引き受けたんだ。ここなら、同い年くらいのみんながいるし、怖いことないだろ。
――言うほど、この墓地は安全な場所じゃないと思うがな。
――まあね。でも、もう成仏自体はできてるから。気持ちだよ、気持ち。

 皆守は葉佩の顔を見て、神鳳の顔を見た。葉佩の言っていることはめちゃくちゃだ、と思った。彼はこの墓地がどれだけ危険な場所かよく分かっているだろう。つい最近まで、この墓地からあふれる霊たちに悩まされていた本人ではなかったのだろうか。だが、その一方で天香學園で成仏した高校生ほどの年齢だったという霊を、ここで弔いたいという気持ちは想像できる。

――で?

 神鳳に話をうながすと、彼は涼しい顔で頷いた。

――埋葬のまねごとは無理ですが、墓石を加えるくらいなら……と。
――それで、こいつがその墓石か。

 墓石、というには粗末すぎる。廃屋外から大きい岩を見繕ってきたのだろう、と思われるほどラフな表面をしていた。だが、重要なのは材質ではない。充分に理解したので、皆守は評価を口に出さなかった。

――そいつ、幽霊が怖かったんじゃないのか? いいのか、こんなとこで。弔うんなら、温室の中のいちスペースくらい、ちょっと使ってもバレやしないぜ。
――うん?
――さっき、幽霊が怖いやつだったって、そう言っただろ。
――あ、それか。ちょっとニュアンス違うな。幽霊が怖いんじゃなくて、自分が幽霊になったってことが怖かったんだ、彼は。

 葉佩は、彼が運んできたのであろう石の表面を撫でた。大きな砂利まじりの石は、葉佩の手のひらを引っかいていく。

――日本じゃ、一般的に幽霊ってのは……恨みとか憎しみとか、そういう執着心があるから成仏できなかった魂、みたいに思われてるだろ。恨めしや、だもんな。でも、幽霊になった彼はそんな憎しみの原因なんて思い至らなかったんだってさ。自分がどうして霊になって居残っているのか分からない、もしかして自分は知らないうちに、成仏できないほど誰かを恨んでいたんだろうか、誰かを呪い殺そうとしてこの世に留まっているんだろうか、それが怖いんだ。

 ふとしたときに、誰かを呪い殺してしまう存在なのだろうか。それが怖い。

――だから、おれの中にいたら、って言った。おれに憑いている限り、誰かを呪い殺すことなんてできないし、おれだって自分の体を明け渡すようなこともしない。おれの中でじっくり考えて、成仏できそうになったらしたらいい、って言ったら、そうしたいって言うから。
――……そうか。
――霊は、『遺された情報』だ。生前に憎んでるやつがいたら、そりゃ憎しみが遺されるかもしれないが、そうじゃない場合だってあるだろ。憎しみが遺るんなら、あこがれだって、悲しみだって、愛だって遺る。

 葉佩は照れもなく、愛と言った。そのたった二音が、皆守に『それ』を気づかせた。皆守は自分の中に『それ』が沸いたのを感じたが、表に出さないまま口を開いた。

――そいつは、行く前になんか言ってたのか?
――いや? 気がついたらいなくなってた。今までもそういうこと、よくあるから。もちろん、なにか言ってくれる人もいる。おれも、おれが会う霊たちも、当たり前だけど成仏ってしたことないから何が起きるのかよく分からないんだよね。人によって、もう成仏できるな、って分かる人と、いつの間にかできちゃった人とがいる感じなんかな。いなくなった人とは話せないから、想像だよ、これは。……そういや、そのへん、口寄せ師としてはどうなの?
――そうですね……おそらく、そう考えていいのではないかと思います。成仏するときの話を聞いてみようとしたことがありませんから、これも僕の感覚にすぎませんが。
――まあ、そうだよなァ。

 二人がぼんやりとした話をするのを、皆守は斜め後ろから聞いていた。
 三人で、新しく墓地に並ぶようになった墓石を思うようなふりをしながら、皆守はまったく別のことを考えていた。皆守にとっては一等星そのもので、直視するのも難しいほどの輝きだった。輝きは甘美であり、気づいたとたんに皆守を魅了した。

 自分が終わったら、自分というものを終わらせることができたら、葉佩の中にいたい。
 いつ自分が消えたのか分からないくらいのぎりぎりの瀬戸際まで、葉佩の中にいたい。
 葉佩が過ごす時間、見ている景色、交わす言葉のひとつひとつを、葉佩の中で感じていたい。

 おまえの中で、おまえの内臓に身体を預けて、おまえの体温にまどろんでいたい。

 それ以上に甘い夢を、皆守は今までに見たことがなかった。