2 | 充溢
高校生から幾年か経ったいま、葉佩の横顔は当時と変わらず清廉だった。背筋は真夏のタチアオイのように伸びていて、ふるまいに緩みがなかった。当時はそれが、常に気を張った緊張感のように見えていたのだが、いまはそれが葉佩自身のあり方として魂に染みついているのを感じた。葉佩の厳格さは、淀みも穢れも知らないかのようだった。実際に知らないわけでは、決してない。知っているからこそ、淀みや穢れに足を取られないように、たゆんでしまわないようにしている。それが、彼の清廉さの正体なのだった。
葉佩はまた、腕時計を見た。彼の腕時計は磁場の影響を受けにくい素材で出来ている。皆守は自分がそれらのことを覚えているのだと、今日になって知った。
「いろんなことが起きているの、時間は分かっているんでしたっけ」
葉佩は、敬語で皆守に尋ねた。仕事のつもりでいるから、自然とそのような話し方になるのだろう。
「俺は現場に居合わせたことがなくて、居合わせてる人間からも聞いてないな。時間が何か関係あるのか」
「記録がないなら、ないで大丈夫です。見てみますから。中、入ってもよろしいですか?」
「そのつもりだった。鍵は開いてる。俺は、いない方がいいよな?」
「そうですね、危ない……ですから」
危ない、と言った後に考えるような間が空いた。天香學園で数ヶ月のあいだ、皆守と連れたってどんな場所に降り立っていたかを思い出したらしい。しかし結局、葉佩は「危ない」という理由を撤回しなかった。
皆守も、もともと首を突っ込むつもりはなかった。店長の話を鵜呑みにするなら、店での事件事故はかなりの件数に上るにもかかわらず、自分は現場に居合わせたことが一度もないのだ。自分に理由があるのか、それともたまたまなのかは分からない。
皆守は当たり前のように、葉佩に対して馴れ馴れしい口調で話した。敬語を遣う葉佩に合わせて話すことはできたが、そうしてしまうと、もうずっとその話し方をしなければならないような気がする。
秋の夜が、肌の下まで沁みた。突然、いまの季節は葉佩と初めて会った季節と同じだと気づいた。気づいてしまったら、塵を含んだ風に触れたかのような感覚が首筋に走るのを感じる。ざらつきが、息切れを起こす。
葉佩は腰に手を回して、何かを取り付けるような素振りをした。つられて目を遣ると、そこに鈴の根付がぶらさがっていた。今までポケットの中に入れていたのを、スラックスのベルトループに結びつけたのだろう。鈴は大ぶりで、りんと鳴る音に目が覚めるようだ。
「その鈴」
皆守がそう言うと、葉佩は小さく「そうだよ」と言った。
その鈴は、遺跡に潜るときの葉佩がいつも腰から下げていたものと同じだった。取手を追うように遺跡に降りた最初の晩、化人に気圧されて敗走した葉佩が、一度上に戻ると言って、皆守と八千穂はそれに従った。自室に戻った葉佩が次に降りてきたとき、彼はこの鈴とボウガンを携えてきた。
ボウガンはともかく、鈴というのが当時の皆守には意外だった。音を鳴らしては、自分から居場所を敵に知らせるようなものではないのか。
当時そう問いかけた皆守に、葉佩は、それでいいんだ、と答えた。
――見つけてもらうために音を鳴らす。
――見つかったら、まずいだろ。
――いいんだ。おれは平気だから。それに、はぐれちゃったらこの音を目印にみんな集まれるだろ?
あの日々と同じように、鈴が鳴る。大きいので、わずかに動くだけでは金属が擦れる程度の音でしかない。走ったり、跳んだりするとはっきりと鳴る。
鈴の音が、皆守を喉の奥を絞り上げ、息苦しいような郷愁をもたらした。この音を日常的に聞いていたあのときは、五、六年前のことにすぎない。高校生のときなんて「懐かしい」というほど過去の話ではないはずだ。だというのに、いま思い出してこんなにも懐かしい。
皆守が店の裏口を指さした。表は自動ドアになっていて、いまは電源が落ちている。スタッフ用のドアなら、夜でも通行ができた。
「ありがとうございます。申し訳ないですが、しばらく……ここから離れていてください。あ、でも、いるところがないか」
「かまうなよ。時間つぶしくらいできる」
「外、ちょっと蒸し暑いから。……あ、そうだ。車にいる? 鍵、渡すから」
「車?」
「おれがここまで乗ってきた車。狭くはないし、あ、アイドリングまずいかな。でもおれがずっと乗ってきたから、まだ車内涼しいと思う」
「いいのか?」
「いいよ。必要経費」
「じゃあ、俺は事務室の鍵、渡しとく」
葉佩と鍵を交換する。葉佩が渡してきた車の鍵は簡素で、革のキーケースに一本だけさがっているだけだった。皆守はそれに対して、店舗ロゴのキーホルダーがぶらさがった鍵を渡した。
「駐車場に停まってるの、おれが乗ってきた車とあと軽トラだけだったから、すぐ分かるよ」
「ああ」
「長引きそうになったら、連絡に戻ります。ひとまず……十二時半くらいまでお時間ください。いいかな」
「明日は予定がないんだ、俺のことは気にしなくていい」
「ありがとう」
葉佩はそう言って、皆守が渡した鍵をポケットの中に入れた。鈴が鳴る。
「なあ」
「はい」
「いいのか、手ぶらで」
彼の仕事に口を挟むまいと思っていたのに、皆守は結局、口を挟んだ。葉佩が手ぶらのままで現場に入ろうとしていることがどうしても気になった。彼自身にとっては手ぶらは身軽さであるかもしれないと分かっていたが、何も言わずに見過ごすことは皆守にとっては難しかった。葉佩はそれを分かっているとでもいうように笑って、「大丈夫」と言う。彼自身が大丈夫だと言うなら、それ以上言いつのるのはそれこそ皆守の範疇外だ。
皆守は葉佩に後でなとだけ言い残し、自らの職場から離れた。
駐車場に停まっている車は、葉佩が言ったとおり二台しかない。受け取った車の鍵にあるボタンを押すと、グレイの車のヘッドライトがコンマ数秒点滅した。近寄ってドアを開ける。自分の車さえ持っていないので、ひとの車に乗るのは緊張した。
助手席に乗り込んで、ドアを閉める。念のためロックをかけて、背もたれに身を預けた。そして息を吐く。
こうなるなんて、ぜんぜん思っていなかった。向こうだって、予想していないらしかった。
最後に会ってから幾年も経つ。それが、何の前触れもなしにこうもたやすく、再会できてしまうものなのか。
よくよく考えれば、その可能性はあった。心霊現象を生業とする胡散臭い連中のうち、《本物》は数少ないに違いない。その小さな集団の中には、彼がいる。小さい集団であればあるほど、彼と出会う可能性は高まる。
本当は、気づいていたんだろう。
俺は自分本位で、すぐ相手に期待する。そのくせ、自分はなにも知らなかったというふりをしているのが上手いんだ。期待していたならそうと、はっきり言えばいいのに、白けた顔ばかりする。何のためにそんなふりをするんだ。本当は期待していたくせに。ずっと期待していたくせに。この日を心待ちにしていたくせに。自分からは何も動かなかったくせに。外側が《彼》をまた自分にもたらしてくれることを期待しているばかりのくせに。俺はいつだってそうだったよな、外側から壊してくれる何かを待っているだけだ。自分じゃ何もしない。そうやって自分の不運や恵まれなさや孤独ややりきれなさを煮詰めて飲み干し、また煮詰めて飲み干しては、すぐに渇いた。そうやってずっと喉の渇きを嘆いている。本当は嘆いているくせに自分はなんにも嘆いていないふりをして、自分の渇きに気づいていながら手を差し伸べないものたちを逆恨みする。期待も渇きも嘆きも恨みも、全部俺の内臓にあると、俺自身は分かっているはずだ。
そうだよ、俺はずっと期待していた。今日だけじゃなくて、今夜のこのときだけじゃなくて、いつも期待していた。もっともっとずっと前から、幾年も待っていた。あの天香學園の屋上から、おまえの背中を見つめたあのときから、ずっと期待していた。
でも俺は、何かを待っていたつもりはもうとうない。天香學園の中にいたころの俺は、それこそ期待と渇きと嘆きと恨みを喉に流し続けながら、《何か》を待っていたかもしれない。だが、今は違う。ただいっしんの期待と希望で、《何か》じゃない、おまえを待っていた。
待っていた。ずっと前からだ。
目を閉じると、シートから懐かしい香りがした。乾いた粉と水、そして火と灰の香りがもったりとうずくまっている。線香の匂いと言ってしまうと、この香りがもつやわらかな手のひらを忌避しているような気がする。天に昇る煙は、たくさんのものを巻き込んでそれでもなお空を目指す軽やかさがあった。
これは、あのころの葉佩も漂わせている香りだった。線香の手のひらの香りだ。
寮の一室で時間が過ぎ去るのをじっと耐え忍んでいたところに神鳳から着信が入った。携帯電話の画面を見て、皆守はうっと思った。説教の内容の想像がついたからだった。神鳳の淡々とした話し方で、一手一手詰められるのは決して楽しい時間ではない。しかし、かといって無視していればなかったことになる、という甘さはない。長期休暇の課題を集める教師と違って、神鳳は最後の一ページまで徴収していく質だ。
――はい。
――ずいぶん素直に出ましたね。もう一回、後でかけ直さなければならないかと思っていました。
――そうさせてやってもいいぜ。
――いえ、このままで結構。お互い、じっくり話したいわけでもありませんから。
神鳳は仕事に対して怠惰な皆守のことを半ば呆れ、半ば放っているようなところがあった。皆守に対して、彼は突き放すような物言いをする。それに気がついていたが、わざわざ殊勝ぶってやる必要もない。皆守も神鳳と同じくらい、突き放すような声色で、何の用だ、と返した。
――分かっているんでしょう。あの《転校生》のことです。随分と親しくしていると聞いていますよ。
――向こうがついてくるだけだ。
――あなたがたの親交が真実かどうかは今、問題ではない。あの《転校生》、普通じゃありませんよ。
――まァな、墓守を四人下してきてるのは……初めてだろ。
――それもありますが。
――それも?
――あなた、阿門様ではなく僕が連絡しているという事実を考慮して、何か知っていることはありませんか?
――はァ?
皆守は携帯電話を耳から離し、相手が神鳳であることを確かめた。そう言われれば確かに、神鳳が個人的に電話を掛けてきたことはほとんどない。メールがせいぜいで、《生徒会》に関係する連絡は双樹を含めて一斉送信される。皆守は、考える間を空けた。
――思い当たる節がない。
考えなくても、答えはこれだった。
トレジャーハンターだということは八千穂から聞き出して知っている。《生徒会》に言わせれば、彼が何を目的としていたところで侵入者であることに変わりはなく、たいして意味のあることとは思えない。第一、そういうことなら阿門でも双樹でも、皆守から聴取するなら担当者は問わないはずだ。だというのに、神鳳が連絡してきた事実を考慮して、と条件をつけられてしまうと、皆守に答えられるものは何もない。
――そうですか。ということは、彼は個人的に動いているんでしょうね。警戒心からか、彼の中だけで処理しているからかは、現段階では分かりませんが。
――おい、勝手に納得するな。情報共有くらいしてけ。
――あの《転校生》は何かを憑けています。
――は? つけている?
――彼は、霊を憑依させていると言っているんです。遠くから見ただけで分かるのは、同年代の少年の霊。でも、はっきりとしていません。もしかしたら、何か隠している可能性が……。
――はっきりとしてない、ってのは何だ。
――そのままの意味です。遠くにある字を読もうとしたとき、簡単なひらがなであれば何と書いてあるか読めるでしょうが、複雑な漢字だったら一部か、およその形しか分からない。それと同じです。同年代の少年の霊を憑けていることは確かです。ですが、それだけではないようだ。だから、あなたに連絡しました。
――悪いな、俺は知らない。
――分かりました。こちらで気をつけておきます。あなたも……くれぐれも、自分の立場を見失わないでくださいよ。
お前に言われるまでもない、と答えてすぐ向こうから電話を切った。皆守はため息をつき、ベッドの上で肩を落とした。どいつもこいつも、自分に都合のいいことばかり押しつけてきやがって。
足の上で波を作る布団を見つめながら、片手でアロマをたぐりよせた。どこも見ていない目で空中の塵を数えながら火を付ける。まだ眠るつもりにはなれないから、このままベッドの上で吸い続けてもいい。
今しがたの会話が、影を落とす。葉佩は何かを憑けている。彼は霊的な存在との対話が可能なのか。
そう考えたところで、アロマを支える指先が震えた。唇をつけて、強く煙を吸った。ラベンダーの香りに染まった部屋の空気ごと、なおも空気を吸い込む。ラベンダーの香りが鼻に抜け、肺を満たした。
アロマの火が布団に触れてしまわないようにわずかに手を持ち上げて、動きを止める。息も止めた。考えることも止める。そのままじっとしていると、息が苦しくなる。そこからまた五を数えて、ようやく息を吐いて、また呼吸した。
霊を憑けていることは確かだと、いま神鳳が言っていた。憑依させている。それが真実かどうかは皆守には分からない。そもそも、霊を憑依させるという現象そのものについて半信半疑だ。どういう状態を指しているのか、見当もつかない。
同年代の少年の霊を憑けていると言っていた。高校生か。葉佩はこの天香學園の墓地に眠る誰かの彷徨う霊を憑けているのだろうか。だとするなら、彼は今まで皆守が眠らせてきた誰かの霊とも対話できるのか。皆守の今まで掘り続けていた墓土の匂いを、あいつは知っているのか。皆守が見る世界の速さを葉佩が見ることができないように、あいつも皆守の見えない世界を見ているのかもしれない。
蜂の羽が描く軌跡も見える皆守にとっては、それは真実なのだろうと信じられた。
かつての俺が埋めたものが恨みの霊として、おまえの前に現れる世界があるんだろう。いま俺の周りを恨み言も高らかに呪うものもあるんだろう。
あの澄ました顔であいつは、全部知っているのかもしれない。俺が何をしてきたか知っていながら、澄ました顔であいつは今日も、俺と授業に出た。今日も横に並んでマミーズへ行き、体育でペアを組み、共に寮へ戻った。
どういう神経なんだ、それは。
暗い夜の縁にたたずむ皆守を、葉佩はどういう目で見ているのか、彼にはっきりと聞いてみたかった。
お前、俺を信じているのか?
アロマを支える手に灰が落ちた。汚れなんてどうでもよかった。持ち上げて、一口吸う。
すると、部屋のドアを叩く音がした。誰かがぶつかったようなあいまいな音ではなく、はっきりとしたノックだった。この音を聞くたびに皆守は、そのノックで自分の鼓動が出来ているような心地になる。
――開いてる。
ボールを投げるように、皆守はそう言った。皆守の部屋にノックをしてくるやつなど、一人しかいない。
声が届くと、すぐにドアが開いた。そこから先は遠慮がない。短い廊下を歩いてきて、葉佩が顔を出した。ベッドの上でアロマをくゆらせる皆守を見て、目尻を緩めて笑う。それが挨拶だった。日に何度も会うから、目が合ったときに表情をわずかに緩めることが挨拶なのだった。
――皆守、夕飯どうした?
――もう食ったよ。
――早。
――お前食ってないのか。
――や、おれも済ませたけど。
――ならいいだろ。
話が噛み合わなくて、皆守も目尻を緩ませた。短くなったアロマを、ベッド脇の皿に押しつけて火を消した。
――今日の夜遊びはやめとけ。夜に降るらしいぞ。
――雨? らしいね。
――止める気はないってのか?
――ううん、今日はよす。さすがに寝不足。
――じゃあ寝とけよ。
葉佩は鼻で笑った。
――そうやって追い出そうったって、そうはいかないからな。
――出てけとは言ってない。
わざわざ引き留めたかったわけではないのに、そんな格好になってしまった。不本意だが、追い出したいわけでは決してなかったので訂正もできない。
ともかく葉佩は雑魚寝する気で来たのかと思って、皆守はベッドの上で腰を持ち上げ、奥に動いた。悪いな、と言って葉佩が潜り込んでくる。自分の部屋で寝ろと言おうとしたが、そういえば今朝、ベッドの上に盛大に薬品をこぼしたとぼやいていた。朝だったので、皆守はそりゃ災難だったななどと言って流していたのだが、こいつが言う「薬品」となると、ベッドは果たして無事なのか不安だ。気づいてしまうと、ベッドから蹴落とすこともできなくなった。
葉佩は皆守の横で同じようにベッドのヘッドボードに背を預ける形で座った。横顔がすぐ脇にあった。その目を見る。白と黒がはっきりと分かれ、世界を映している。そこに見えるものは、皆守の部屋以外ではないように思えた。
葉佩はいたく満足そうな顔をして、息をついた。
――ベッドってのはこういうのだよな。
――なんだよ。
――や、なんも。
葉佩はさっき皆守が置いたアロマを持ち上げて、観察を始めた。もう何度も見ているだろうに、彫り込まれた意匠を指先でたどっている。
その横顔に、神鳳から聞いたことをぶつけてみたかった。または、皆守が感じたことを尋ねてみたかった。
なあ、お前、俺が見た墓の下を知ってるのか?
だが、口は動かなかった。
天香學園は全寮制で、生徒たちは同じ寮で寝起きし、授業に出て、また寮に戻ってくる。皆守と葉佩は、彼が転校してきた日からずっと同じ建物の下にいた。その事実が、いま皆守の口を重くさせる。転校してきて一週間以内であれば、尋ねるくらいできたかもしれない。葉佩の正体がトレジャーハンターなのかと尋ねたときと同じように、彼を査定する気持ちで聞くことができた。
でも、今はできない。
葉佩の返答が、ただたんに葉佩の査定に関わるだけではなくなったから、何も聞けない。
もう皆守は、葉佩の返答ひとつに影響されるようになってしまった。
いや、影響されるということだけなら、皆守は最初からそうだったのかもしれない。
甘えているだけだ、と皆守は自分に言い聞かせた。
葉佩がふと顔を上げ、カーテンがかかった窓を見上げた。そして、つぶやくように言う。
――なんか、ないてるな。
――え?
――外さ。虫かな? もう寒いのに。
――あァ……やつらも必死なんだろ。もう冬になるしな。
この部屋に娯楽はない。食事以外は、外から聞こえてくる生徒の喧噪と木々の枝がふれあう音、虫の声ばかりだ。本もろくに置いていないし、コンポもない。
葉佩の耳には聞こえているらしい虫の声が、皆守にはよく聞こえなかった。
葉佩は遺跡の中で弓を射る。初めのころは持ち運びが容易なボウガンを使用していたが、いつからか弓になった。どこからかくすねてきたのだろうか。どこからか、といってもこの學園で弓があるところなんて一カ所しかない。どこで神鳳が葉佩のことを見かけたのだろうと思っていたが、葉佩のほうから神鳳のテリトリーに入り込んだことは確実だった。
ボウガンは一度に矢を一本しか装填できない。弦を引いて固定するのも一苦労だ。そう思えば、弓は持ち運びこそ手が掛かるものの、武器としての取り回しのしやすさは雲泥の差だった。皆守は矢をつがえて引く葉佩のことを、いつも斜め後ろから見る。弓の弦の堅さは、矢が放たれたあとの風で感じ取っていた。だから、皆守は葉佩が弓を引くときいつも緊張する。
もし、このときに横から化人が襲ってきたとしたら、葉佩の腕を引くか前に押し出すか等するしかない。だが、その拍子に矢を放ってしまって、事故を起こしそうに思える。ただでさえ、弦は堅い。初心者は弓を引いて放ったあとの弦のしなりで頬に擦り傷を作るらしいのだ。
だが、擦り傷と致命傷なら、擦り傷を負わせてでもいいから致命傷を回避させる。
皆守は弓を射る葉佩を見つめた。風を切る音がし、矢がまっすぐに飛んでいく。外すこともあるが、十メートル範囲であれば、彼はまず外すことはなかった。
――元からやってたのか?
――ああ、弓? まあまあだな。専門じゃないから、競技は無理だよ。
――競技だと何か変わるのか?
――的の距離がね。詳しくないけど……三十メートルくらいあるんじゃない? おれは五回に一回くらいしか当たらないと思うな。
――そんなもんか。競技をやるわけじゃないなら、なんで弓なんだ? 銃のほうが、ラクだろ。持ち運びとか。
――銃は、すさまじく法律違反だろ。
――墓の侵入はそうじゃないみたいな言い方だな。
皆守が呆れた顔で言うと、葉佩は笑った。はは、という声だけで返答し、それ以降黙った。
今しがた射ったものに向かって歩いていき、地面に伏したコウモリ型の化人をそっと持ち上げて小部屋の壁際に寄せた。猫を引いた自動車の運転手のように、葉佩はいつもそうする。大きい化人になると彼も動かせないので、ただ手を合わせる。蜘蛛のような格好の化人も、葉佩は同じように扱った。蜘蛛の足が気味悪くねじ切れても、体液がしたたっていても、彼は同じようにする。
皆守はそれに対して、なんのためにそうするのか等と不躾に質問するようなことはしていない。どんな返事だとしても、皆守はそれ以後にどう振る舞えばいいか分からなくなるに決まっていた。
葉佩の矢には、金属の矢尻がない。射った先に突き刺さる鋭さのものがないのだ。弓ではなくボウガンを携えていたときから、これは変わらない。通販で矢を取り寄せてから、一本一本、矢尻を熱して引き抜いている。その様子を横から見ていたこともある。
矢尻はたいてい金属でできているから、抜いただけで代わりのものを取り付けないままだと重心が変わってしまう。それを防ぐためにか、葉佩は別の材料を取り付けていた。それはなんだ、とその場しのぎに尋ねた皆守に、葉佩は短く、木だよ、とだけ答えた。だから皆守は、それ以上のことを知らない。
葉佩は霊を憑依させている。
それを知ってから、皆守は彼の動きを逐一、細かいところまで見ているようになった。どこを見て、何を狙って、どう動いているかを観察する。葉佩の動きに、無駄は山ほどある。
――トレジャーハンター、新米なんだよ、おれ。
会ってまもないころ、葉佩はそう言っていた。皆守はトレジャーハンターとしての仕事ぶりに精通していないので謙遜かと思っていたのだが、謙遜でもなんでもなく真実だったらしい。
――トレジャーハンターに新米も何もあんのか。
――そりゃあ、ある。
この会話も、真実だったようだ。
葉佩の斜め後ろに立ち、葉佩ではなく周囲に気を配っていたころには気づかなかったが、葉佩は矢をつがえるとき、視線がぶれる。射る相手を見つめているときも、重心がぶれる。弓を射ることだけではなく、別のことに気を取られているように感じた。かまえているとき、葉佩は息を止めている。つられて、皆守も息を止めてしまう。矢が放たれて、ようやく息を吐き、浅い呼吸をする。このとき、二人は同じリズムで呼吸していた。
化人を小部屋の壁際に寄せきった葉佩が、皆守に顔を向けた。
――行こう。
――……あァ。
皆守は葉佩の後を追った。葉佩が射貫いた化人が、壁によりかかって並ぶ真ん中を、生きた自分が歩く。その一歩一歩を行くごとに、それらを踏み潰しているような気がした。命を潰している。
葉佩の横に立ったとき、彼の横顔を見た。その眼差しに、死の気配があった。今の彼も、今の皆守が感じていることを感じているのだということがありありと伝わった。葉佩は死を抱えている。それがいま、皆守に実感として理解できた。この男は、死を知っている。身近に、肌で感じる感覚として、死を知っている。喪失を抱えている。その中に存在しているもの全てを、この男は把握した上でそれを飲み下している。
皆守は、呼吸が自然と浅くなった。
――皆守? どうした、顔色悪い。
葉佩は、皆守の変化にいち早く気がついて、声を掛けた。皆守はその思いやりに、首を振って応じた。
――暗いからだろ。おまえは気にするな。
俺もおまえも、命を潰している。皆守の肩に、葉佩の手が触れた。グローブ越しでも分かる。熱がめぐる、体温の高い手だった。
俺とおまえは、いまここで生きている。皆守は目が回りそうだった。
俺はいつか、おまえの命も踏み潰す。
皆守がカレーが好きだと言う前から、葉佩はマミーズでカレーを食べていた。皆守と違って、それは「カレーは外れが少ない」からという理由だったが、嫌いであればそもそも注文しないだろう。
気が塞いだ皆守が久しぶりに昼まで寮で寝過ごし、空腹に耐えかねてマミーズに出てきたら葉佩が一人でカレーを食べていた。四人掛けのテーブルに一人で座って、食事をとっている。もう昼休み明けの五時間目の授業が始まっている時間だったので、彼は授業をサボってここにいるということになる。何をやってるんだ、といつもの皆守なら呆れて笑い、葉佩の前に座るはずだったが、今日はうまくできなかった。マミーズの入り口に立ち尽くして、一人で座る葉佩を見つめた。皆守の目は、神鳳の目とは違う。神鳳が見ることができ、感じることができるものと同じものを見ることはできなかった。
――いらっしゃいませェ、マミーズへようこそッ。
皆守が何をためらったところで、客の来店に気がついた舞草が明るく声を掛けてきた。彼女は皆守の顔を見るなり合点した表情で、
――お席ご案内しまァす。
と言った。この言い方で案内される席というのがどこにあたるか、予想できないほど皆守は馬鹿ではない。
――おい、待て。
――こちらのお席どうぞーォ。
舞草を止めようとしたが、寝起きの皆守の一言で止まるほど、彼女は意志が弱くない。葉佩の向かいの席に案内され、彼と目が合った。葉佩はいつものすっきりとした顔で皆守を見上げ、おはよう、と言った。その清廉さは陰りと表裏一体だ。皆守はもう後にひけなくなり、あァ、と答えて葉佩の向かいに座った。彼はカレーライスを食べていたが、定食らしい器が盆に一揃い、すべて空になっていた。
――お済みのお皿、お下げしまァす。
――ありがとうございます。
――ご注文はお決まりでしょうかァ。
――あ、俺はカレーライス。
――かしこまりましたァ。
定食の盆を舞草が持って行ったので、テーブルの上が涼しくなった。葉佩はスプーンでカレーライスをすくい、一口一口食べ進める。
――一人か?
――そうだよ。なんで?
――定食の皿があったろ。
――ああ。あれ、おれの。
――……そのカレーライス、大盛りじゃないのか?
――よく分かるな。そう。
――相変わらず、よく食うな。
――はは。定食の前にカレーラーメン食べてるよ。
なんだ、案外ふつうに話せる、と皆守は思った。昨夜、墓地から帰るときは会話が途切れ途切れになってしまったような気がしていた。それは皆守の心持ちによるものだったらしい。葉佩はいつもと変わらず話し、皆守に向けて笑った。葉佩のほうでも、昨夜の反応が悪かった皆守について思うところがないわけがないだろうが、彼は言及しないことにしたようだった。
葉佩が食べているカレーライスの香りが鮮やかに皆守の元まで届いた。注文を受けてからカレーを作るなんてことはありえないからまもなく来るに違いないが、もともと寝坊の空腹に耐えかねて出てきた身だ。皆守はアロマパイプをくわえて、別の香りを喉に流し込んで空腹をまぎらわせた。
――九ちゃん、お前、そんなに食ってよく身軽でいられるな。食ったもんはどこに消えてんだ。
雑談のつもりで、皆守はそう言った。葉佩は口にいれたカレーをよく噛みながら、うーん、とうなった。
――男子学生なんて食ってなんぼだと思うけど、まあおれは……確かに量を食うほうかも。
――昼に三人前は食うほうなんてもんじゃないぜ。
――おれ、食べないともたないんだよな。
――……お前の仕事は肉体労働みたいなもんだよな、確かに。
――あ、いや、違くてさ。
葉佩は水の入ったグラスを一口飲み、また、うーん、とうなった。その歯切れの悪さに、皆守はこの話題はまずかったか、と思った。
――ただの雑談だよ。そんな気にするな。
そう言って話を畳もうとした。だが、葉佩のほうから、そうじゃなくて、と口を挟んでくる。皆守はいやな汗が背中を流れるのを感じた。
これは、果たしていい流れなのだろうか。葉佩は明らかに何かを明かそうとしていた。そしてそれは、昨夜の皆守が見せた反応の悪さや憂いとまるきり無関係とは言い切れない。葉佩は皆守に気を遣って、自分をつまびらかにしようとしていた。それを察することができないほど、皆守は葉佩のことを他人とは思っていない。
このまま聞いていていいのか、耳を塞ぐべきなんじゃないか。ラベンダーの香りが皆守の体の中に沈み、高い音で耳鳴りがする。
――まあ、なんていったら伝わるか分からないけど。おれ、いわゆる霊媒なんだよ。
――……は?
――心霊現象みたいな話は、皆守は大丈夫なんだよな? そういうやつ……上手く説明できるかな。つまり、幽霊を、おれの体に憑依させるんだ。有名どころだと、恐山のイタコとか。訓練が必要な場合もあるんだろうけど、おれの場合は生まれつきのだ。
――……それとこれと、どう関係するんだ?
鼓動が地震のように、皆守の身体中に響いた。口の中が乾いている気がするのに、唾液が喉にからむ。
――いま、おれは三人の霊を……なんていうんだ? 憑依させてるんだ。
――は? 三人?
――そう。そいつらに食事が必要ってんじゃないけど、維持するのにふつうより体力使うんだよな。それで、ひとより多めに食うようにしてる。昔、自覚症状もなしにぶっ倒れたときあってさ、それ以来、気をつけてるんだよね。……信じる?
――いやお前……そんな。
葉佩は言葉に窮した皆守の顔をちらと見て笑い、また目線をカレーライスに戻した。
――お待たせいたしました、カレーライスでございまァす。ごゆっくりお過ごしください~。
舞草が手際よく皆守の横からカレーライスの皿を並べ、にこにこ笑って歩いていった。そのきびきびした後ろ姿が、今日はやけにまぶしい。
霊媒だって? つまり、神鳳が連絡してきたことは全て正しかったということか?
だが、神鳳は同学年ほどの少年の存在しか分からないと言っていた。あとは遠くにある複雑な漢字のようにはっきりと見えないという話だった。その複雑な漢字の部分が、葉佩が憑依させている他の二人の霊なのではないか。
――カレー、冷えるよ。
――あ、あァ。
スプーンを手に取ってカレーをすくい、口に運んだ。待ち望んでいた食事のはずだが、もはやただの作業になりはてていた。
――いきなりこんな話してごめん。でも、そろそろ言っておこうかと思ってさ。
――いや、それはいい。……そうじゃなくてな、九ちゃん、その、憑依させてるってのは、何なんだ。つまり今のお前は、お前じゃないってことか?
――あ。そうか、憑依っていうとそう思うよな。違うよ。おれは葉佩九龍。それは変わらない。ただ、おれの中に霊を入れてるんだ。
――入れてる、ってのは何だよ。
――うーん。ちょっと話変わるけど。皆守、幽霊ってなんだと思う?
――なんだと思う、って……。
――正解がどうってんじゃないよ。イメージ。
葉佩はカレーライスの半分以上を食べていて、あとは少しだった。皆守の口の中でも、おそらく同じ鍋から作られたカレーライスが同じ香りを漂わせている。
皆守は少しのあいだ、考えた後に答えた。
――魂、ってやつなんじゃないのか。生きてた人間が死んで……恨みなんかがあると肉体じゃない部分が残る、っていうだろ。
――じゃあ、皆守。幽霊ってどんな姿をしてると思う?
――はあ? 足がないとか、頭にこう……三角の布つけて? 死に装束着て……。
――なんで、服着てるんだと思う? 幽霊っていうのは、生きてた人間が死んだ後の魂なんだっていうだろ。でも、服には魂なんてないよな? まあ、死人が執着してたものに魂が乗り移って、とかいうけど、死に装束に執着するやつなんてそうそういないよ。じゃあなんで、幽霊は服を着てるんだ? 全裸の幽霊なんて、聞いたことないよな?
――……ないな。
そう言われてみれば、確かに妙な話だ。幽霊ってやつは恨みを遺して死んだやつが魂だけこの世に留まって、その恨みを晴らすために矢も盾もなく呪ったり襲ったりするというのが怪談話の定番だ。だが、ではなぜ服を着ている? 恨みの一念で留まっているような霊が、服を着たいという凡人の習慣を踏襲しつづけるだろうか。
――つまり、幽霊というのは『遺された情報』なんだ、と主張する人がいる。おれもそう思う。
――おい、話が飛んでる。
――ごめん。おれたちは目でものを見て耳で音を聞くけど、それは人間の肉体の中では電気信号という情報になってる。快不快も、おなかすいたと思うのも、全部同じだ。脳が処理する情報。これはいいよな。皆守、生物の成績いいだろ?
――……それで?
――人が死んだとき……人じゃなくてもいい。動物でもなんでもいいんだけど、そこにあったものがなくなったとき、死んだとき、まれに電気信号だけが、情報だけが場に残る。それが幽霊なんだ。だから幽霊は服を着ている。服もまた情報だからだ。その遺された情報は非常にささいなもの、または通常の人間が使用していない情報だから、幽霊を感じるやつと感じないやつがいる。どっちが優れているとかじゃなくて、視力が二.〇ある人間と眼鏡がなければ〇.五もない人間がいるのと同じ。たまたまだ。
――それで、『遺された情報』か。
――そう。それで、おれはその情報を保存できる。フロッピーみたいなもんだよ。今、おれは三人分の情報をおれの中に保存してるんだ。だから、おれはおれ自身のまま。
納得するしかしないとかの次元を超えている。皆守が今まで触れたこともない世界の話は、葉佩の話を丸ごと飲み込むほかなかった。でも、彼の話は矛盾していない。
――保存してるって言っちゃうと、なんだか人間味がないけど……同居してるって感じだよ。山田さんちに高橋さんが居候してても、表札は山田さんだろ。
――山田を呼んだら高橋が玄関から出てくるってことはないのか。
――それはしないでって言ってあるから。お互い人間なんだし。
――……そうかよ。
うんうん、と葉佩は言った。彼の表情が、先ほどよりも明るくなっているような気がした。彼にとって、これを隠していたことは悪いことだと思っていたのだろうか。
こんなこと。ずっと隠していたって何の裏切りにもならないだろうに、と皆守は思う。
――で、なんでお前はその三人を同居させてんだ。
その質問をするまでに、カレーを三分の一食べた。三人の内訳を聞くだけの力はなかった。
葉佩は困ったように眉尻を下げた。
――なんでと言われてもな。
――そんなホイホイ入れてんのかよ。
――ホイホイというわけでもないけど……いちおう、成仏というのはあるんだよ。それがどういうものか、どういう条件で起きるのか、はっきりしないけど、でもある。『遺された情報』がふと消えてしまうときがある。そうなりたい霊もいるし、なりたくない霊もいる。理由はさまざまでね。で、その中でも、消えてしまいたくない霊を憑依させてる。今は。
――お前に憑依してると、成仏しないわけか。
――いや、する。何しろ、条件が分かんないからさ。でも、一人で消えるってことはなくなるよね。おれがいるからさ。でも……もしかしたら、憑依していないときよりは長く現世にいられてんのかな? 三人いるけど、みんな一年とか半年とか経ってる……。
皆守の中をきりきりと締め上げていた糸が、一本切れた。一年とか半年、ということは同年代の少年というのは天香學園の生徒ではないということだ。
カレーの辛さが、皆守の舌の上に戻ってくる。皆守は目を閉じ、また開いた。
――天香に来てからは、どうなんだよ。
――ここ、初めて来たとき、実は面食らった。
はは、と葉佩が笑う。その笑顔を見て、皆守に緊張感が戻った。
こいつは、知ってるのか?
――みんな、何言ってるかぜんぜん分からないんだ。
――……は?
――霊は、まあ……正直、いるよ。でも、言っていることが分からない。情報の存在は感じるんだけど、おれの脳がその情報を処理できないんだ。何かがズレてるのかもね。そのうちおれの頭のほうでチューニングできたらいいけど、二ヶ月経っててまだできてないし、難しいのかもな。
葉佩はカレーライスを食べ終えていた。皆守のカレー皿には、あと三分の一が残っている。
――……そうか。
安心したような気がする。でも、安心してはいけないような気もする。
もしここで、葉佩が全部知っていると言ったなら、皆守は絶望ながらに希望を見出すことができたかもしれない。葉佩はすべて知っていながら、皆守と共にいることを選んでいるのだという夢を見ることができた。
だが、葉佩は何も知らない。憑けている霊は天香學園とは関係のない霊だった。
つまり、皆守はまだ葉佩を騙している最中なのだ。
皆守はカレーを食べた。いま、自分にできるもっとも重要なことがそれだった。
カレーを食べ終えた葉佩は、テーブル横に立てかけてあるメニューを引っ張り出し、デザートのページを眺めていた。まだ食べる気かよ、とからかうことは簡単なはずだったが、今の皆守には難しかった。
今の話は、葉佩にとっては信頼の証なのではないか、という考えが皆守の中に生まれている。ただの雑談というにはプライベートすぎるし、話の内容も危うい。人と人は自分の情報を切り売りして開示することで仲を深めることがあることは、皆守も理解していた。ふつう、それは好きな芸能人であったり、親との喧嘩の愚痴であったり、嫌いな教師であったり、恋人とののろけ話であったりする。親しさによって、どのラインまで相手に話すかという線引きが異なるはずだ。初対面の人間に対して、恋人とののろけ話をするやつはなかなかいないが、好きな芸能人の話はできるだろう。
葉佩の今の話が、初対面の人間にも話すことであるとは思えなかった。
葉佩は、皆守だから話したのだ。
皆守は、葉佩に話せないことがまだある。
今日の話が葉佩のもつ話のすべてだとは思っていない。皆守はもう葉佩のもつエピソードのすべてを聞いていると思うほど、自惚れているわけではない。
でも少なくとも、今日の話は、皆守に向けて話したのだ。皆守だから。
俺は、おまえだから言えないことがいっぱいあるよ。
――なあ、九ちゃん。
――ん?
――……。いや、授業、出る気か?
――さては出たくないんだな?
――もういいだろ。もう一時間しかないんだし。
一時間しかないから、出たところですぐに今日は終わりだよ、と葉佩が言う。皆守はため息をついてみせたが、嫌なのは授業ではなかった。