5 | リリース
「ここだよ」
葉佩は静寂に向けて、そう言った。腰のループにぶら下げている鈴に手を掛けて音を鳴らす。静けさを割る音は高く鳴り、余韻をいつまでも残した。それは音の道であり、辿っていけば葉佩の元にたどりつく。そのための音だった。
葉佩は相変わらず、目をレジの付近に向けている。警戒や緊張感をゆるめないが、険はなかった。彼の斜め後ろに、皆守は立つ。かつて、短い期間でありながら常に存在を許されていた場所だった。見える景色は、あのときとは違う。ここは地上で、月の光が透明のドアから、シェード越しに差し込んでいた。空からの光は足元を薄く照らした。
鈴がまた鳴り、余韻を残す。音が葉佩への道を作る。
皆守には何も見えない。店内はただ荒れていて、夜のかすかな寝息が吹き込んでくるだけの場所だった。
物音はなく、しんとしている。葉佩はなおも、言葉を重ねた。
「さっきはごめん。驚かせた。もう平気だよ」
店の中でどこかが軋む音が聞こえた。それがただの家鳴りなのか、葉佩が対話しようとしている相手の何らかの返答なのか、分からなかった。
「ゆっくり整理しよう。どうすればいいのか、もう分かるだろ。前が見える?」
葉佩は問いかけ、わずかの間をあけ、頷いてみせた。
「ここだよ」
葉佩の鈴が鳴った。
そのあと、皆守にも感じた。冷風が吹いた。そういえば、この部屋に入ったときから冷たかった、と思い出す。冬になろうとしているから、空調も切れた夜にはこれほど冷えるのだろうと納得していたのだが、この冷風は違う。冷たさは霜が降るようで、皆守は思わず息を止めた。
死はこんなにも寒いところにあるのか。
葉佩が身じろぎ、鈴が鳴った。彼は片腕で身体を支える先を求めるように、皆守の腕を掴んだ。霊を受け入れるときには衝撃があるのか。皆守は彼が掴みやすいように腕を浮かせ、差し出した。その腕を、葉佩が締め付けるように握る。彼の内側で魂ごと掻き毟る霊の衝撃が、皆守の腕にまで伝わった。
まだ、その内側への憧憬はわずかにある。目の前で見ると、なおさらだった。だが、皆守は飲み込んだ。
葉佩という男にある魂のゆりかごは、今もなお甘い芳香を漂わせた。だからこそ、彼はこうして身のうちに霊をかくまっていける。
力を込めすぎたのか、霊を憑けるときの反動なのか、皆守の腕を掴む葉佩の手が痙攣した。はっとして、皆守は彼の顔を見る。頬は白く、闇夜にまぶしかった。
「座るか?」
話していいのか分からなかった。囁き声で言った皆守を、葉佩は横目で見てほほえんだ。
「皆守」
「あァ。おい、顔色悪いぞ」
「皆守、ありがとう」
「は、何がだよ」
「皆守。いてくれてありがとう。皆守。おれさ、本当に嬉しいよ。おれ、所属してた協会抜けたんだ。天香學園にトレジャーハンターとして行ったのは、所属してた《宝探し屋》専門の、ロゼッタ協会ってところに所属していたからなんだよ。そこの斡旋で、本当に仕事だった。それを抜けたんだ」
葉佩の上半身がぐらつき、皆守の腕をつかむ手とは反対の手を展示台についた。座るか、と皆守は再び言ったが、葉佩はそれに返事をしなかった。
「そしたら、当然だけど貸与されていたものは全部返却だ。その中に、あの端末もあった。内部のデータを転送できないようになってて……皆守のメール、持ってこられなかった。アドレスをメモしただけだ。そういえば、電話番号も知らなかったよな。おれ、携帯電話を持ってなかったから。そうしたら、気づいたんだ。おまえはもう、おれに連絡できなくなっちまったんだよな。おまえが知ってるアドレスは、おれの、あの端末のアドレスだったからさ。おれがそれに気づいて、おまえのアドレスにメールを送ったころには、おまえはアドレスを変えてた。そうだよな。キャリアメールなんて、もう今時、保持してないよ」
皆守はメールアドレスをフリーメールに変更する連絡を、アドレス帳に登録されている全アドレス宛に送信した。その中でいくつも宛先不明で返ってきたものがあったが、その中に葉佩のアドレスもあった。
皆守はその日、その淡々とした事象だけが書かれた英文のエラーメールを見て、それでももう一度そのアドレス宛にメールを送った。同じエラーメッセージが間をあけずに自動返信として届き、もう一度メールを送り、また届いたエラーメッセージを見た。
自分よりもよほどメールを交換していそうな八千穂に連絡をしようかと思ったが、結局しなかった。八つ当たりでも恨み言でもなく、ただシンプルに、卒業式に来なかった男をどこまで追いかけていいのか、距離感が分からなかった。
「おまえ、辞めたのか」
「正式な所属では、もうない。でも、人間の足跡を追うって仕事自体は好きだ。今も変わらず好奇心があるし、委託として呼ばれたらすぐに行く。でも、それだけじゃないことだってあるからな。委託のほうが気楽なんだよ、おれの名前で論文は出ないけど……それ目当てでやってるわけじゃないしな、いいんだそんなこと」
皆守、ともう一度呼ばれた。魂を呼ばれた気がした。
「いてくれてありがとう。皆守」
「……そんなの、わざわざ言うことじゃないだろ」
「卒業式、行けなくてごめん。おまえにまた会っていいのか、分からなかった」
「おまえは正しいよ。俺はまだ、あのときは駄々をこねる隙を探していたかもしれないからな」
「はは。最後に屋上で会ったとき、そんなそぶりしなかったくせに」
「俺は、引き摺るほうだからな」
葉佩は、また笑った。
「ここに来たら、おまえがいて安心した。この地上には、まだ皆守甲太郎がいるんだと思って、この地上はまだそれだけの価値があるんだと思ってさ、正直、感激だった」
「俺だってそうだよ」
「目の前に、死んでしまった自分を扱いきれなくて苦しい人がいたのに、おれは生きているおまえのことばっか考えてた。死んでしまっている彼がもう手に入れることができない《生》で頭がいっぱいだったんだよ。そうしたら、怒らせてしまった。当たり前だよ」
まだまだだよな、と彼は言った。皆守は、息をもらすように相槌を打った。
「おまえが俺のこと覚えてたの、ビビったけどな、俺は。あんなガキのころの俺のこと……もう随分と昔だろ。おまえはあれから、いろんなやつに出会ったはずだ。いろんな場所に行って、いろんな知識を得ただろ。それでも、覚えてたのか」
「忘れるなっておまえが言ったんだろ。おまえさ、おれのこと舐めるなよ。おまえが思うより、おれは引き摺るよ。なくしたものをずっと覚えてるし、もうここにいないものをずっと惜しんでるから、霊媒なんてことができてるんだ。今ここにないものを捨てられないから、おれは霊媒なんだ」
「……そうか」
皆守も、葉佩の手を握りたかった。けれども、葉佩はいま皆守の二の腕を掴んでいて、もう片方では身体を支えているからできなかった。だから代わりに、肩をぶつけた。葉佩の顔が近づき、ぶつかった肩の震えが移った。
「俺もだ。おまえだって、俺を舐めるなよ。俺は昔のことをうじうじうじうじ、いつまでだって引き摺るからな。おれはふっきれるまでに何年もかかるし、おまえみたいに馬鹿力で踏み込んでくるようなきっかけがなけりゃあ、それこそ永遠に引き摺る方なんだぜ。おまけに、いつまででもうじうじしていることが誠意なんだと思ってる、見当違いの自己憐憫にひたるタイプだからな。他の余計なことを考えないように、自分で自分に目くらましだってするんだぜ」
「アロマ、吸ってる?」
「吸わない。アロマはな」
そうか、というつぶやきが落ちた。
「皆守」
呼ばれた。
「どうした」
答えた。それ以降は続かなかった。
皆守は葉佩に存在こと差し出し、葉佩も皆守に存在ごと差し出す。存在は、生者の特権だった。
じゃあな、と言い放った直後、葉佩の顔が凍った。その顔はすぐに鋭さを増し、痛々しいほどの光で、皆守を射貫いた。
――おまえ、どういうつもりだ。
――悪く思うなよ、初めからこうするつもりだった。
阿門は黙っている。自分が何かを言うべき立場にないと、阿門は強く律していた。それは皆守にとってありがたかった。自分のわがままとしてこの場を通したかった。せめてそれくらいの誠意をみせなければ、葉佩は自分に失望するだろう。もう一時間もない仲に違いなかったが、葉佩には失望されたくなかった。
大地の腹の中にあるこの墓地は、絶え間なく揺れている。名残惜しいと思ったが、長く話してはいられなかった。葉佩の命が失われるところを見たくない。その瞬間を見なければならない立場はもう手放したのだ。悪夢は気配すら残っていてほしくなかった。
――よくも、おれの前で死をにおわせることができるな。
――ここまでが、俺の仕事だ。九ちゃん、おまえは早く行け。
――死を知らないくせに、何に夢を見てるんだ。
――長話はできない。行け。ここを出て行った後で、俺のことを思い出したらここに来てくれよ。そして、俺の魂をおまえに入れてくれ。俺は、簡単に成仏させてもらえないだろうからな。
葉佩が息を呑む気配がした。その眼差しに、葉佩の体温がにじんだ。ぬるく溶けて、やわらかく広がった。
だったそれだけの熱の動きだけで、皆守は察した。葉佩が皆守の願いを察したことを、その熱ひとつで察した。皆守が一人で勝手に味わっていた甘い夢を知られることは、はらわたを暴かれるほどの恥だと知った。
――皆守。おまえ……。
――いいから、行け。
――皆守ッ。
――行けッて言ってんだろッ。
――できない、皆守。おれは、それはできないんだ。
――……は。
できない、ともう一度葉佩が繰り返した。大きく首を振り、肩であえぐ。
土の天井から砂が落ち、皆守と葉佩のあいだに落ちた。
――おれは、それはできない。知っている人間は、入れない。おれが耐えられないんだ。
――……耐えられない?
――おれの知る人間が死んで、その魂がまたおれの中でゆっくり小さくなっていって、やがていなくなる。いなくなる瞬間をおれは気づけないことのほうが多い。おれの中でおまえが、他の誰よりもおれが近いところにいるのに、皆守、おまえがこの大地を離れる瞬間に気づけなかったら、おれはもうこの世が信じられなくなる。
おれは、その喪失には耐えられない。だからできない。
葉佩は淡々と、そう言った。その間にも、崩壊は続いている。上の階で大きな岩が落ちる音がした。この遺跡は、意図こそ醜悪ではあったが、意匠のひとつひとつは美しかった。それらが失われる。思うと、アルバムが燃え落ちるような感覚に陥った。
それが喪失の感覚なのだ。自分の外側で、こうして失われていく過程すべてを知っていてもなお、喪失は惜しい。だとするなら、
葉佩の感覚を追うまでもなく、痛みが走る。深く切り裂かれ、そこを抉られるような喪失が分かる。
皆守は口をつぐんだ。次に何を言うべきか分からなくなった。
甘い夢は溶けて消え、渋さのある甘さの名残が歯に挟まる。舌の表面が、酸味を感じた。恥が背中を駆け上がった。自分が葉佩に何を願ったか、彼に何を強いようとしていたかを目がくらむほどに理解した。
早く行けと葉佩を急かすことも、皆守にはできなかった。行くなと思った。もう前後が分からなかった。上も下も狂って、どこに手をつけばいいのか見えなくなった。足元が溶けたと思った。強くサイレンのような耳鳴りがし、目を閉じても開けても暗闇で、自分の鼓動が遺跡を壊しているのではないかと思った。
悪い。悪い、九ちゃん、悪かった。
もう聞こえないか? 悪い、おまえに願ったこと、全部忘れてくれ。頼む、悪い。おまえに何かを願ってばかりだ。おまえほど、俺はちゃんとしてなかった。おまえは全部分かってたのか。どこまで分かっていたんだろう。そんなこと、今はどうでもいいよな。でも言わせててくれないか。悪い。おまえに全部、勝手な夢を見てたよ。おまえがあんまりまぶしいから、期待しちまったんだ。
言い訳だよな、おまえにとっては、全部重荷だったかもしれない。それも全部分かっていたんだろうか。おまえはそれでも、俺のかたわらに立っていてくれたんだろうか。立っていてくれたんだろう。きっと、いてくれたんだろう。
どうしておまえみたいなやつが、いてくれるんだろう。どうしておまえのような存在が、俺と同じ大地に立っているんだろうな。そう思えば、この数年を俺が土の底で暮らしていたのは相応だったんだろうな。
――皆守。
銀色の帯が、大地の中心から立ちのぼる。その光のまぶしさに、皆守は目を閉じていた。砂の流れる音も、閉じた空間での埃の匂いも、火が燃える音、籠もった熱気、それらが肌から引き剥がされ、冷たい風が頬を撫でていった。
雪が降っている。もう砂ではなく、火花ではなく、血ではなく、雪が降っている。白くちらつく灯火が、皆守の頬に落ちて溶けた。そしてまた、雪が散って額に溶けた。
――皆守。
ようやく、呼ぶ先が見えた。膝をついていた皆守の前に、葉佩が膝をついていた。その頬に泥がついている。よく見れば、擦り傷もあった。制服の袖はすり切れ、肘は破れていた。あの三連戦の傷跡を残した男が生きたまま、その身体に二人の死人を宿してその魂の喪失を覚悟しながら、そこにいる。
――葉佩。
――その呼び方、懐かし。
葉佩はそう言って笑い、そして次には、耐えきれない痛みに顔を歪ませた。自分がこの顔をさせていると、すぐに分かった。
両腕を差し出した。どうとでもしてほしかった。
葉佩はその腕のあいだに身をすべりこませ、皆守の肩に顎を乗せた。葉佩の腕が、背中を締め付ける。彼に何度も射られたところが痛んだが、その痛みは幸福だった。
呼び方ひとつに懐かしさがあるほど、共にいたのだ。