4 | 天地

 工具は確かに、車にあった。
 前のシートにはそれらしいものはなかった、という記憶から、まずトランクを開けた。この車が葉佩の所有なのか、斡旋されたという別会社からの借り物なのか、そのどちらかによって結果は違っただろう。今回は、葉佩の車だった。
 鈴や線香の入った紙袋、割れにくいプラスチックの壺に入った塩、丁寧に横たえられた榊や紙垂、藁がケースに収まっていた。閉鎖的な車のトランクは匂いが籠もっていたが、それは線香の芳香だったので悪くなかった。それらのケースは透明で、中身が外からも分かる。それに助けられて、皆守は葉佩が事務用品をまとめている衣装ケースを見つけられた。
 ケースごと引き寄せて蓋を開ける。ボールペンや紙束、ワイヤーやガムテープなどを避けると、工具セットが見つかった。セットごと掴んで、走って駐車場を出る。走りながら工具セットを開いた。プラスドライバーは二本ある。大きな釘抜きがあるのが心強い。

 事務室の扉にたどり着き、もう一度ドアノブをひねり、開かないことを確認した。拳でドア板を叩きつけ、叫ぶように室内へ向けて呼びかける。

「おい、聞こえるか!」

 返事はない。この空間の外側には反響すら届いていないかのような、シャボン玉に閉じ込められている心地だった。不安感が募る。プライドライバーを持つ手が震えた。

 こんな場に居合わせるのは、天香の遺跡ぶりだった。あの時間だけが皆守にとって特異なときだった。遺跡に棲む化人たちは侵入者に反応して、信じがたい力で命ごと追い出そうとしていた。特殊な部屋に入れば、退路を封じられた上での謎解きを強いられる。罠の矢は正確に人間の胸部を狙っていた。ただでさえ死が間近にある葉佩にとって、自らの死があれほど長期間にわたって脅かされ続けていたのは、初めてのことだったのではないだろうか。
 だというのに、葉佩は武器として取り回していた弓矢から、矢尻を引き抜いていた。例え相手が化け物であっても、殺生をできるだけ避けようとしているのかと思いはしたが、日常生活では虫を殺したし、豚も牛も関係なく肉を食べた。

 次が天香學園の墓地の最終層だというとき、身支度をととのえてきた葉佩が相変わらず矢尻のない矢を担いでいるのを見て、皆守は口を挟んだ。
 そんな軽装でいいのか。ここから先は今まで以上に何が起きるか分からないぜ。
 葉佩は目を細めて答えた。

――彼ら、人間だよ。本来なら、おれを殺そうとも思わない。ふつうの人間だよ。

 彼は最初から気づいていた。おそらく、最初にこの遺跡に入って化人に会ったときから、彼は分かっていた。
 あの墓地で襲ってくるものは全て人間だった。墓守は人間であり、化人も人間だった。化人が人間であることを皆守は知らなかったが、葉佩はずっと知っていた。だから、きっと彼は自らの命が長く脅かされていながらも進むことができた。本来なら誰をも殺そうとも思わないふつうの人間が、コウモリや蜘蛛や植物に縛り付けられ、剣を抱えさせられ、腕を肥大させられて長く墓地の底に押し込められていることに、何度現実を疑っただろう。高校生という年齢でありながらも喪失を見て、死を見て、恨みや憎しみを他の生徒よりもよく知っていた彼にとって、天香學園の墓地はどれほど深かっただろう。
 その情は、甘さでは到底ない。皆守は、かたわらにいた。ずっと感じていた。

 ドライバーで蝶番を緩める。わずかな隙間に釘抜きを差し込んで、力任せに押し広げる。二度、三度繰り返すと、ドア板が枠から外れた。室内が見える隙間が指一本ほど開いたとき、耳の奥を塞いでいた膜がはじけるかのような感覚があった。
 何かが割れた。シャボン玉のように錯覚していた、この場を外側と区切っていた何かが破れた。

「九ちゃん、いるかッ」

 声が室内まで響く、静かなビル内のこだまがあった。空調のファンが回る音がし、遠くで警報器が定期的な電子音をたてている。ビルがビルとして息を吹き返した。

 終いには、ドアの隙間につま先を突き立てて、板を背後に向けて蹴り倒した。ドアを止めているねじが折れ曲がり、足元に落ちた。

 室内は薄暗いが、ビル通路の非常口が緑の光源となっていた。夜の青い闇に混じり、海の底のように見えた。慣れているはずの職場にしては、広々と感じたのはそのせいだ。
 何のアロマも焚いていないおかげで、もっとも強く感じるのは葉佩が携えていた線香の香りだった。
 葉佩は、中央に立っていた。身体を支えるように、片手を展示台に乗せている。彼は駆け寄ってくる皆守のことを見て、目を細めて笑った。

「ごめん。ヘマして」

 その笑い方はなじみ深かった。

「いい。で、どうした。平気なのか」
「おれは平気だけど、ちょっと待って」

 葉佩の視線の先を追った。レジ周りを、彼は見つめている。レジのそばには小さなサシェ類がバスケットに入れられて並んでいる。またはメンバーズカードの案内、クレジットカードの認証機材、こまごましたものが多いエリアだった。だが、人通りが多い場所でもあるので、割れ物はほとんどない。
 皆守が身じろぎすると、足元で砂利を踏むような音がした。反射的に、足元を見る。透明なかけらがちらちらと青白い光を反射している。かけらの鋭さに、ガラスだ、と気づいた。
 商品が割れたのか。だが、割れるものは今回の調査前に倉庫へ避難させたはずだった。

 皆守は、視覚にこそ自信があるが、聴覚には自信がない。あまり耳がよくないと思っているし、ふだんの音と異音とを区別する能力に欠けている。だが、そのときの皆守は何かの異様さを音として聞き取り、正確なタイミングで天井を見上げた。

 葉佩は全身をレーダーのようにして、周囲を見つめている。彼は、意思ある《人》を探していた。一方の皆守は、《悪意》を嗅ぎ取った。皆守のほうが反応範囲を狭めていただけ、反応が早かった。

 一歩を踏み出し、葉佩の前に立った。背中で彼を後方に押しだしながら、らんぼうに頭をつかんで展示台の下に潜り込ませた。皆守はその首に覆い被さるようにして、自分の頭を守る。

 直後、天井の蛍光灯がはじけた。細かなガラス片が、雨のような音をたてて店の床に飛び散る。
 止んだ、と判断してから、皆守は葉佩の上半身を解放した。

「いきなり悪かった。何か言えばよかった」
「や、ぜんぜん……こっちこそ、ぼうっとしていてごめん。ありがとう」

 皆守は上半身にニットを着ていたので、ガラス片が食い込みやすい。安全のために脱ぐ。葉佩はその後ろで、息を吐く。

「なんか、まずいのか」

 皆守は、葉佩にそう尋ねた。彼は言いよどんだが、結局、口を開いた。

「おれが悪い。こうなってるのの大半はおれの責任だから、彼は悪くない」
「……分かった。それで?」
「彼は怒ってる。おれと会話ができるほど、自分と他人の区別もついてないんだ。怒っているけど、なにがあれば怒らないで済むのか、何に対して怒っているのか、何があれば許せるのか、彼自身も分かってない。だからずっと怒ってる」
「それは、どうしたらいいんだ?」
「怒ってるとこうして被害が出るから出て行ってもらう……いわゆる、除霊をするのが安全ではある。気の毒だけど、生きて生活している者こそが現実に関係している以上、生きているほうが優先されるものだし、ずっと怒ってるほうだってしんどいだろ。双方に優しい対応だと思うよ」

 そう言って、葉佩はレジのあたりに目を向けた。皆守には視認できないが、そこに《いる》のだろう。レジの囲いの中に隠れているのかもしれなかった。

「でも、今はここにおれと……皆守しかいないし、ちょっと物は壊しちゃうかもしれないけど……」
「ああ」
「おれの役割は、霊媒だからな。できる限り、入れてやりたい」
「攻撃的な霊を憑けても大丈夫なのか」
「そう。それなんだけどね、さっきそれでミスした。で、却って怒らせちゃって、店ごと閉じ込められた。本当にごめん」
「それはもういい。俺は、ここにいていいか」

 皆守を見る彼の目尻はやわらかに下がった。瞳に、夜の光が浮いている。多くの死人を見た男の目が、いまこの場にいる唯一の生きている他人を見据えた。
 死者と意思を交わすことができる葉佩にとって、命があることとないことのあいだに、どんな違いがあるのだろう。皆守には、今もなお想像することしかできない。きっと、皆守の中に生者と死者のあいだの違いがあるのと同じように、葉佩にもある。そしてそれは、かなり繊細に存在している。葉佩はその差を幾度も思い、幾度も掻き毟ってきたに違いなかった。

 生きることと死ぬことは、近いところにある。だが、決して同じにはならない。生きることの力にはあらがえない。
 皆守はいま、生きているから、葉佩と目を合わせることができている。葉佩の言葉を待つことができるのも、すべて、生きているからだった。

 彼は言った。

「ここにいてくれ」
「分かった」

 存在ごと、おまえに差し出す。




 甘美な夢を手に入れた当時の皆守にとって、自分が葉佩の光を吹き消さなければならないことが強大な恐れと言ってよかった。自分の役割と夢が完全に対立している現状は、幾重にも彼を責め苛んだ。《生徒会》の役員としての役割は彼にとってこれ以上なく、自己の存在を確立する。役割があるからこそ立っていられる大地というのは、皆守にとって信頼できる。自分が手放したものがあるから、役割が意味を持つ。役割に背かない以上、皆守はこの大地への存在を許容される。けれども、皆守は役割と真っ向から条件が対立する夢を得た。

 将来の夢を聞かれた子どもたちのような、はっきりとした言葉としての夢ではない。
 もっとあいまいな、意思のようなものではあった。自分がそれに向かっていくのだろうと思う、光の意思だった。自分は所詮、虫に過ぎない。自分が光を感じた方向、甘い水があると感じた方向に誘われるばかりだ。

 ヘリコプターの音を聞いたとき、ジッポを一つ盾にしたとき、皆守は自分の夢の居場所ばかりが気がかりだった。
 葉佩にメールをしてもなかなか返ってこなかったし、彼はあのノートパソコン型の端末以外、通信機器を持っていなかったから電話も通じなかった。あらゆる場所に喧噪があり、声は意味の分からない怒号か悲鳴が多く、ここがどこであるのか疑った。
 日本の高校にあってはならない砂埃と硝煙の匂いを嗅ぎながら、あいつは人を殺すことなんてできないだろうと思って気が急いた。

 葉佩は人を殺せない。というのは正確ではない。殺す意思を持てない、というのが近い。殺そうとすることすら、彼は封じている。
 死人を自らの肉体の殻にかくまっていながら、彼はすべての人間から死を遠ざけようとする。それは彼の美徳ではあるが、この場では脆弱さそのものだった。
 だとすれば、この天香學園の現状は彼にとって地獄だろうと思われた。皆守は、自分のその考えが杞憂だとは考えなかった。

 夕方をいくぶんも過ぎて、至る所で元墓守たちの逆襲が滞りなく進み、校内に不審な音が聞こえなくなったころ、葉佩からメールがあった。墓地で会おう、というだけの簡素なメールだったが、皆守はそれだけで充分だった。生きていることが分かるだけで、悪夢は皆守の元から去る。
 生きているということは、他者の胸に巣くう悪夢を取り払うことができる。生きるということには、それだけの力がある。葉佩がもしこのときの皆守の内情を理解していたなら、そう話したに違いなかった。だが、実際は葉佩は無言だった。このとき、彼にはそこまでの余裕がなかった。

――……無事だったか。

 皆守の安堵の声に、葉佩は頷いた。彼は防弾チョッキを着て、片手に金属バットを提げていた。バットには、明らかに生きている者を殴った跡があった。拳銃を携えている相手に、彼は金属バットで殴りつけていたようだった。彼は銃を持たない。殴られた者は、命までは取られていないだろう。葉佩の防弾チョッキには、しぶき程度の血痕しかなかった。

――……皆守も、無事でよかった。返信、遅れてごめん。
――あの状況で、なんでもかんでもすぐ返信しろって言うほど、せっかちじゃない。
――無事でよかったって言っちゃったけど、本当に無事? 怪我してないか?
――してない。そっちは?
――こっちもしてない。皆守、どこにいた?
――講堂。
――講堂?

 葉佩の声が高く跳ね上がった。彼が今までどこにいたにせよ、學園中に響いた校内放送は聞いていたに違いない。

――講堂って……皆守、なんもなかったか?
――何もない。来たのが双樹だったからな。あいつなら、遠くからでも相手を戦闘不能にできるだろ。

 何もない、というのは厳密には嘘だ。いずれ講堂で起きた子細を彼が知るようなことがあれば、ショックを受けるかもしれない。だが、その瞬間を先延ばしにするために今ここで嘘をついた。
 来たのが双樹だった、と聞いた葉佩は安心のためか肩がゆるんだ。

――双樹さんか。よかった。

 彼女の《力》なら、相手を漏らさなかっただろう。そして、誰も死なない。
 双樹の入念さを身をもって知っているから、彼は安心できた。その唇の端にうかんだほほえみを見ながら、皆守は責められるような気がする。
 自分が、墓に人を葬ったことがあると知ったら、こいつは絶望するだろうか。
 葉佩が皆守に何を見出しているのか、皆守には未だに分からないところがある。
 人が人と共にいるとき、そこには何かしらの期待がつきものだ、というのが皆守の考えだったが、葉佩からは期待じみた重みを感じたことがなかった。期待の内容というのは関係性によってさまざまだ。意見が合う間柄では、自分の話への同意が期待できる。もしくは、自分の興味が引かれる話題が提供されることもあるだろう。議論で仲を深める間柄なら、互いに他人からの新たな視点を期待しているはずだった。そのようにして、人と人の関係というのはなんらかの相互扶助によって成り立つ。
 皆守が葉佩に手渡せる唯一のものは、自分の存在だけだ。知識も武力も、手助けできない。ただ、かたわらに立っていることだけだ。皆守がただアロマを吸いながら立っていることに、葉佩が何を見出しているのか、尋ねたこともない。

――おれは、いったん寮に戻るよ。バットじゃ心許ない。
――分かった。墓地へ行くか?
――そのつもりだけど、皆守は気になることあるか? どこか寄る? どこか行くなら、おれも行く。

 皆守は息を漏らして笑った。笑いたかったのではなく、葉佩を安心させたかった。
 人を殴るのも本来ならやりたくないくせに、皆守がどこかへ駆けつけようとしているなら加勢するつもりであるらしい。その勇ましさに、肩を叩いてやりたかった。

――いや。待ってる。
――じゃあ、一緒に戻ろう。ここで放り出して、何かあると困る。
――いいぜ、行くか。

 二人で肩を並べて、寮までの道を無言で歩いた。葉佩の全身は、強張ったままだった。警戒が全身に張り巡らされ、わずかの敵意にも俊敏に反応するだろうと思われた。
 寮に入ると、各個室からの暖房のあたたかさが漏れ出て、じんわりとあたたかかった。緊張と風の冷たさで凍えていた指先に体温が戻ってくる。皆守は横にいる葉佩に腕を回し、強張って山を作っている肩を二、三回叩いた。葉佩はその動作に笑い、皆守の顔を見て、

――ありがとう。

 と言った。
 皆守が葉佩に差し出せるものが己の存在ただひとつだというなら、皆守にとっての葉佩もそうだった。葉佩が皆守に差し出したものもまた、葉佩の存在ただひとつだった。




 葉佩の射る弓を正面から見たとき、こうなっているのだな、と皆守は思った。その矢が向かう先が自分であることは、皆守にとっても痛みだった。
 玄室の炎は視界をちらちらと焼いた。熱は溜まる一方で、逃げ道がない。冬の引き絞られるような寒さに熾火をあてられると、ひどく熱いもののように感じた。息苦しさは、室温のせいだと思い込もうとした。いまから自分で、自分の甘い夢を地の底へ突き落とさなければならない事実は皆守の首に縄をかけていた。

――殺す気で来い。俺は、銃弾でも死なない。

 葉佩にそう言ったが、葉佩の耳にちゃんとした言葉として届いたかどうかは怪しい。彼はまっすぐに皆守を見た。彼の目が皆守を射貫く。目が合っている限り、自分は矢の的だなと思った。距離をとれば、重さのバランスがとれていない葉佩の矢は当たらないかもしれない。だが、皆守は専門が近接戦だから、距離をとってしまっては、その瞬間を無駄に先延ばしにするだけだった。
 葉佩を墓に葬る瞬間だ。

 皆守はありとあらゆることをあいまいにして、決定を先延ばしにしつづけてきた自覚がある。けれど、この瞬間を先延ばしにすることは、もはや痛みが長くなるだけだった。

 葉佩の目が皆守を射貫く。輝いている。彼の全身に満ちるものの正体を、皆守は知っていた。
 それくらいあいつのことを知っているつもりなのに、今から自分が願うのはあいつの終焉だった。けれども一方で、終焉を願いきれない部分がある。一度見た甘美な夢を捨てきれないで、ずっと食い下がっている部分は確かにあった。

 死んで、あいつの中で眠りたい。
 この場で葉佩が皆守を殺すことはできないだろう。たとえ皆守が全身全霊をかけて彼を殺しにむかっても、葉佩は皆守を殺すことはできない。それだけの装備を持っていないことは明らかだった。

 だから、どうにか他の方法で自分は終わらなければならない。

 葉佩と共に過ごしていた時間は、まぶしかった。土の下は常に湿り気を帯び、薄暗く、成長よりも停滞が目立つ場所だったが、土の上は明るいのだと思い知った。人と人は生きて言葉を重ねて、昼夜を過ごし、明日に向けて伸びていく。皆守はまだ高校生にすぎず、明日も明後日も、一〇年後の将来も存在する。それを思い出した。誰かに自分の存在ごと差し出すこと、誰かの無事を願うこと、誰かが笑うと嬉しいこと、同年代の誰もがうっすらと知っている日々の和やかさを思い出した。
 でも、だからこそ身に沁みる痛みはあった。
 自分が墓に葬った者たち。その和やかさとは無縁の土の下へ追い立てた者たち。
 皆守もいつか、この和やかさを手放さなければならないときがきっと来るだろう。だとしたら、それはいまがよかった。葉佩のかたわらに存在できるいまがいい。この明るさを手放すときの苦しみは、いつかこの身に訪れる。これから生きていく長い時間をその苦しみに怯えながら過ごすのだろう。光の眩しさに目を細めながら生きて、ふとした陰りに身を縮める。そんなことの繰り返しだというなら、いま終わってほしい。土の上の明るさを知った身で、また素知らぬ顔で土の下に帰れるほど太いたちをしていない。

 あいつの中でまどろんでいたい。

――皆守。

 葉佩が、皆守の名を呼んだ。弓は引き絞られ、矢は皆守に向けられていた。

――おれは、殺さないよ。
――……殺せない、の間違いだろ。
――殺さないんだ。おまえがこの墓に関係してることなんて、ずっと知ってた。人間が神社に入るときに心理的じゃなくて物理的な抵抗があるなんて、聞いたことがあるか? 神社でも寺でも教会でも、ふつうは入るだけなら何の抵抗もなく入れるんだよ。でもおまえは、おれが部屋に籠城しようとしたとき、抵抗があると言った。そこで確信した。おまえは霊からの干渉を受けてる。部屋に入ること自体はできたってことは、根深いものじゃないんだろう。だから、おれは今もおまえを信じてるよ。
――俺の何を信じるっていうんだよ、こんな場面で。
――おまえがおまえでありつづけているってことだよ。おれがおれでありつづけているのと同じように、おまえが間違いなく皆守甲太郎で、その事実自体には何の干渉もないってこと。
――こうして……まんまと裏切られておいて、負け惜しみか。
――分からないふりするな。

 葉佩が矢を放った。皆守にとって、弓矢の速さは視認できる速さにすぎない。一歩を動いて避けると、横の壁を抉るように矢が走った。殺傷能力を奪われた矢も、葉佩が放つとこの遺跡にとっては力強すぎる。壁をえぐった砂埃に皆守が顔を逸らすと、その間隙を縫うようにもう一本の矢が放たれた。それは皆守の視野の外側から射られ、正確に皆守の胴を刺した。
 思わずうめいて、その場に膝をつく。矢の勢いもさることながら、葉佩が射るということの力が強すぎる。彼がなぜ弓を選択したのかが分かる。殺傷能力の調整が容易なのだ。

 皆守の血管をはじけさせ、全身のコントロールを奪う。呼吸を整えようとしたあいだに、さらに放たれた矢が、皆守の頬をかすった。
 そのかすり傷が、じわじわと痛む。壁に一周する炎が皆守の体温を上げ、血の巡りが傷口から血をこぼれさせた。熱をもった痛みが心臓を動かした。

――皆守、動くな。変に転ばれても、責任とれないから。
――……は?
――矢尻に筋肉弛緩剤まぶしてるんだ。どれくらい効くのか分からないけど、しばらくはおれの射撃の練習台になってもらう。
――お前……そんなの今まで……。
――しゃべるのもやめろ。頬をかすってるから、そこから効くぞ。舌噛むから。

 この野郎、と思った。今までずっと出し惜しみしてきやがって。
 悪態をつこうとしたころには、舌が頬が痺れていた。奥歯を噛みしめようとする力も入らない。立ち上がろうとしたが、痺れているのが頭部のせいで、すぐに不安感が勝った。膝に土が食い込む。土が近くなり、煙の煤が鼻についた。アロマパイプをくわえる力は残っておらず、地面に落ちた。

 ふるえる手で、パイプを押さえた。息を吐く。薬品が身体を回るのを感じるが、同時に分解されていくのも如実に早かった。人間ではない己が身に恐れが走る。

 だが、葉佩も皆守の分解速度を見越している。それは皆守が人並の能力できないということを理解していたという証左でもあった。
 葉佩は続けざまに矢を射る。命あるものを刈り取る力はない、けれどもこの遺跡にとっては急所になる矢だった。
 矢は皆守の胴に続けてあたる。同じ場所を短い間隔で射られると、衝撃に息が止まった。胴にあてるのは、人間の急所を避けようとしているからだと分かる。だが、体内を響く力は続けて射られるたびに反響して増幅し、皆守の内側を侵していく。

 矢が空気を切り裂く音が聞こえる。皆守は片耳でその音を聞き、もう片方の耳で炎が火花を散らす音を聞いた。
 立つべきだ。立たなければ近づけない。近づけなければ、俺の脚は葉佩にぶつけることができない。自分がここに存在する役割が霧になる。
 しかし、葉佩の弓矢が皆守の中を晴らしていく。土の匂いしか知らなかったはらわたが、雨上がりの匂いを嗅いだ。

 衝撃に噎せた。
 葉佩の矢は過たず、皆守の胴の同じ部分を射た。
 その矢が、皆守に巣くう最後の砂を押し出す。咳き込み、目眩がした。身体が傾いで、壁に頭を預けた。頭上で炎が燃えている。塵がその炎に落ちかかっては、燃えて灰になっていた。奥歯が何かを噛む。砂利だった。

――皆守ッ。

 自分の射った矢に自分でひるんでいる声が聞こえた。地面を蹴り、葉佩が近寄ってくるのが地面の震動で分かる。皆守はその気配のほうを向いた。
 皆守の中にはもう、役割に入念に紐付けられた使命が消えている。残っているのは、希望だけだった。その希望は蜜の香りがする。

 葉佩が倒れ込むように皆守のかたわらに膝をついた。

――立てるか。ごめん。まだ動けない? 無理するな。三〇分も経てばなくなるから。
――俺の負けだよ、九ちゃん。
――しゃべるな。舌噛むぞ。
――顔はもうほとんど抜けてる。そんな顔するな。

 葉佩の顔が、すぐ横にある。気遣わしげに寄せられた眉が、見ていて笑えた。矢筒に残った弓矢は羽が炎に照らされて、きらきらと輝く。手が、皆守の背中に添えられた。手のひらは熱く、制服越しに指の形まで感じられた。

――痛むか?
――全然、と言ったら嘘になるな。……謝るなよ、いいんだこれで。

 皆守の背中に添えられている葉佩の腕に触れた。手がゆっくり背中を離れ、皆守の意図を汲んで手を握った。強く、握り返す。葉佩はグローブを外していて、生身のままの手だった。

――いいんだこれで。ありがとう。

 皆守は、葉佩の目を見てそう言った。その光を間近で見る。葉佩は短く、ああ、と答えた。その声は低く、地面に馴染んで溶けた。