0 | 夜空
夜の気配はいつも皆守のかたわらにあった。空気がしんとして硬く、声は細くよく通り、季節にかかわらず夜露が風を湿らせる。すべてが闇の中でおこなわれるが、その輪郭はぼうと発光して見え、決して隠し通せない。草木は静かに呼吸し、生き物たちは息を殺す。
それらの中に立つことは、皆守にとって苦ではなかった。昼の明るい光の下で自らが陰を作るより、月の陰にいたほうがよほど気が楽だ。これは、天香學園を出た後も変わらない気質として、彼に残った。
何をするでもなくただ立ち、夜空を見上げる。東京の夜空には星が少ないが、遠くに飛行機らしい点滅が見える。そのまたたきは機械的だが、美しくないと目を背けるような光ではなかった。皆守はそれを目を細めて見た。
そうしていると、このビルの手前、大きな通りから車が曲がってくる音がした。コンクリートの砂利をタイヤが噛む音が、皆守の耳にも届く。彼は夜空から目を離してじっと立ち、ここで待ち合わせとなっている人間を待った。
相手はグレイのバンに乗ってきた。几帳面に角張った車のライトが皆守の足元を照らした。照らされるのを避けるように、皆守は道の端へ寄る。
車は駐車場所に迷うようにスピードを落としたので、彼は左手にある「P」のマークを指さした。運転手はそれが見えたらしい。バンはゆっくりと左へ曲がる。車の塗料が光の砂を刷いたようだった。
バンが停車し、ライトが消える。運転手はそこから何かしたくをしたようでいくらかの時間経過のあと、ドアを開けた。ぱっと白い室内灯がついて、運転手の横顔を映した。
皆守はその頬の線に感じるものがあったが、運転手のほうがすぐに降りたので、まもなく忘れた。
運転手はバンの後ろに回り込み、荷物の上げ下ろしか確認か、何かをしていた。皆守はそれに近寄った方がいいのかここに留まった方がいいのか分からない。何も声を掛けられないので、ただ待つことにした。よけいな手出しは無用であるかもしれない。皆守は、ここではほぼ門外漢だった。
やがて運転手は車にロックを掛け、こちらに近寄ってきた。手ぶらだった。皆守は片足に体重を任せて気を抜いていたところだったので、背筋を伸ばして来訪者を受け入れる姿勢を取った。
来訪者はうつむきがちで歩いてきて、皆守の前に立ってようやく顔を上げた。
その顔を見て、皆守は声を失った。来訪者は、彼はそんな皆守の様子に目尻をさげた。そんな調子だというのに、はきはきと話し出した。
「ご依頼いただき、ありがとうございます。支我という者から話は通っているかと思いますが、夕隙社のほうは現在、予定が埋まっておりまして。代理で参りました。代理とはなりますが、夕隙社から情報共有は受けておりますし、実績もありますのでご安心ください」
彼は、あらかじめ用意していた台本を読むように、すらすらと言った。皆守はそれに何と返せばいいのか分からず、彼の顔を見つめた。彼が目尻を下げているのが困っているからなのか、悲しいからなのか、それとも後悔しているからなのか、察することもできなかった。
「……葉佩と申します。アルバイトの方とお聞きしていますが、間違いございませんか」
皆守はどう返せばいいのか分からない。高校生のときに戻ったようにはしゃぐには、彼は社会を知ってしまった。葉佩がこうして仕事の顔で来ているとき、私的な感情を返していいのか、迷った。
葉佩という名字は多くない。本名かどうか定かでなくとも、それを名乗るこの顔の男というだけで、皆守には充分だった。
この男の横で過ごした三ヶ月が、心と情景と共に皆守の中に吹き荒れた。それは皆守の中に留めておくには激しい雨風で、口からこぼれた。
「そんな、よそよそしい名乗り方、するなよ」
葉佩は顔を覆った。皆守は彼に近づき、あと一歩でぶつかるような距離で、足を止めた。
「ごめん」
と小さな声で彼が言った。
「知らなかった。依頼人が皆守だってこと」
「名前はもともと言ってないからな……何に謝ったんだよ、いま」
「卒業式、行ってないこと」
「そんなの、いい。仕事変えたのか」
「二足のわらじだけど、ほとんどこっちの仕事が多い。こっちのほうが肌に合ってる」
「そうか」
彼は手を下ろして、顔を上げた。皆守と目が合うと、笑ってみせる。その顔は、天香學園の制服を着た少年の顔と、皆守の頭の中でぴったりと一致した。寂しそうな顔で笑う男だった。
「いまでも、皆守はおれにそんなふうに気さくに話してくれるんだ」
葉佩はそう言った。その声が意外そうだったので、皆守は聞き返した。
「なんだ、嫌なのか」
「おれ、皆守の期待を裏切ったようなものだろ」
ふたりの間を、夜風が駆け抜けた。まだ夏になりきらない季節、風は肌寒かった。
皆守は葉佩から視線をはずし、夜空を見た。あいかわらず星はなく、薄暗い雲の隙間に、月が見える。
「あれは、俺の勝手な思い込みだ」
皆守が言うと、葉佩は「そうかな」とあいまいな返事をして、ちらと腕時計を見た。夜十一時半。
「仕事しなきゃ」
「ああ、こっちだ。鍵開ける」
葉佩を先導して、皆守はビルの裏口を案内した。葉佩は手ぶらのま、皆守についてきた。彼の静かな足音を背中に聞きながら、皆守は目を伏せた。
彼は、かつて皆守にとって希望が人の形をとっているような存在だった。すべてが希望そのもので、手足の先まで、皆守にとって光だった。動きの名残すら宝玉の塵だった。
あるときに絶え、皆守のかたわらから消え去った光は、数年ぶりに目にすると焼け焦げるほどなつかしかった。