蕎麦を食べて、碗を洗える場所が洗面しかないという話になってバタバタしたが、後片付けを済ませてプレイルームを出た。その頃には時刻は二時近くになっていて、さすがに全員が眠たげな顔だった。
 先頭の黒塚はゆっくり確実に歩くタイプだが、今は足元がふわふわしている。一度は初日の出を見るかという話題にもなったが、雨が降ったからかなり寒いはずだということで取りやめになった。初日の出に愛着のある人間がいなかったので、反論は出なかった。

 最後尾で夷澤と斜めになりながらよたよた廊下を歩いていると、夷澤が「ちょっと」と小さい声で呼びかけてきた。

「んだよ」
「あんた、オレの話、結局なんだと思ってるんすか」
「お前の話?」
「オレが……蕎麦の前に言ったやつっすよ」
「ああ……」

 皆守は後輩の顔をまじまじと見下ろした。その表情が好奇心ばかりでないことを見て取って、皆守はまた「ああ」と腑に落ちた。

 自分だけが聞いてしまったのかもしれない、慕う先輩の弱味を、こいつは誰にも言えずにずっと抱えていたのかもしれない。
 あの炎の焦げる匂いのする土の間で、この後輩はあいつになんと答えたのだろう。
 その答えが正しかったのか、自分はなんと言うべきだったのか、ずっと考えていたのではないか。

 皆守は、そのことにようやく思い至った。そして考え考え、答える。

「俺は少なくとも、あいつからそういう話を聞いたことはない」
「……そっすか」
「だけど、お前だって……一人のとき泣くだろ」
「え?」
「俺も、一人のとき泣くかもな。神鳳も大和も、双樹もほかのやつらも……あいつ自身も、黒塚だってたぶんそうだろ。思い出したり、欠けたりしたものを探して泣く。泣くのが悪いってわけじゃないが、でも……そういうことなんじゃないのか」

 正しいのか分からないことを、皆守は言った。自分が葉佩を理解しているとは思っていない。他人を理解するのは容易ではないと、この三ヶ月で知っていた。

 だが、いまの皆守が後輩にかけてやれる言葉というものは、確かにある。

 夷澤はしばらく黙った。黙って廊下を歩く。
 寮は新年を迎えたというのに浮ついた気配がなく、冷徹に澄み切っている。

 皆守は口を閉じてから、他のやつらも今の話を聞いてただろうなと思った。

 階段の踊り場まで来て、二年と三年のフロアが分かれるところになった。夷澤は何かを振り切るように顔を上げた。

「結局、あんたの話聞いてねーんで! 考えといてください!」

 夷澤の声が響く。皆守が呆然としているうちに夷澤はきびすを返し、二年の廊下を歩いていった。
 皆守の後ろで、夕薙が低く笑う。

「あいつ、今が何時だか忘れてるな」
「でも、皆守君の話を聞いてないのは確かだね、楽しみだな」
「おい、まだやる気なのかよ」

 三年の四人でこそこそ話しながら階段を上った。上りきったところで分かれて、皆守は自室に戻る。

 自分も何か話さなければならないのだろうか。自室のドアを後ろ手に閉め、鍵を掛けて電気をつけてから、皆守はそう思った。

 ほかの奴に言うようなことなんて、何もない。
 これは卑屈になっているわけでも面倒がっているわけでもなく、ただ純粋に思いつかなかった。起きて学校へ行き、授業を受けてたまにサボり昼寝をし、カレーを食って墓に行って帰って寝る。それだけが毎日続いていた。

 俺が過ごしたこの三ヶ月には、葉佩が併走していた。もしくは葉佩の過ごした三ヶ月に俺が併走していた。そこに秘密はない。

 特別な日がなかったとは言わない。皆守にとって葉佩は、他の生徒とは違った。皆守には、彼はひときわ輪郭がくっきりとして見えていた。
 それは確かだ。でもそれは、皆守に限ったことではない。
 一般生徒である黒塚と夕薙にとっても、生徒会役員の神鳳や夷澤にとっても、そしてあの墓にとっても、葉佩は他の生徒に混じることがなかった。いつも個として存在していた。

 それについて考えるとき、葉佩が転校生で普通の生徒ではなかったからかもしれない、と思うときがあるのが怖い。

 転校生とは外部から来るものだ。
 本質が何であっても、周囲はそれに特異性を見いだす。見いだそうとするから特異性が生まれる。どちらが先なのか分からない。

 自分は葉佩に外部から来た者として特異性を見いだしたかったから、彼を特別に感じるのかもしれない、という考えを皆守は否定できないときがある。そうかもしれない、と感じる。
 そのときが怖い。

 葉佩を害することになる日を憂いて、その覚悟を毎日きめては毎日くずされていた。

 害さないで済む日を祈って、その願望を毎日いだいては毎日くだかれていた。

 その毎日がただ、葉佩が《転校生》だったから、普通の生徒でなかったからでないと言えるだろうか。

 もし葉佩が転校生ではなかったら、俺と共に入学した同級生の一人だったとしたら、俺はあいつを忘れたのではないか?

 そんなこと、誰が相手でも話せるはずがない。

 この三ヶ月、お前と併走した三ヶ月、皆守が誰かに言える話なんて思いつかない。

 だが、集まりが始まったきっかけを思い出したら、自分ばかり話すことがないと言うのもはばかられる。

 窓に近寄って、カーテンを開けた。窓越しでは結露のせいで外が曇って見える。皆守は窓を開けた。凍えるような冷気が、新年の浮ついた軽やかさで部屋に入ってくる。視界の端にひっかかっている皆守の前髪が、風にあおられて揺れた。

 眼下には學園の薄暗い闇が広がり、正月の気配はない。遠くの新宿の街が燃えているように明るく、新年のにぎわいがそこにあることを皆守に思い出させた。世間ではカウントダウンだの初詣だの、明るい火の下でまだまだ大騒ぎをする時間だ。

 この學園は、その喧噪から隔離されて静かだ。いまの學園は人間がほとんどいないがらんどうだから、月日を数える生き物がいなくて年が明けたことも知らないみたいだった。

 さっき食べた年越し蕎麦の、だしの香りを思い出した。自分たちはこの隔離された土地で数少ない、新年を祝った人間だ。

 窓の向こう、闇の中のどこに道があるのか、この部屋で三年を過ごした皆守にはよく分かった。中庭方面に続く道は、生徒の誰もが通る。
 見つめてしまう。
 その道を目でなぞり、そこに誰もなく、野良猫もいないことを確かめた。窓を閉じる。

 歯を磨きながら、アロマが吸いたいと思った。けれどももう歯を磨きはじめてしまって、中断するのも癪で最後まで歯磨きを済ませた。パイプはデスクの上に置いた。
 ベッドに入って、横になった。シーツと布団がまだ冷たく、手足を伸ばせないのでもぞもぞする。

 ふと思い立って、鼻を息を吸い、口から吐いた。
 墓が崩落した翌日に体調を尋ねに来た保険医が、呼吸を意識しておけと言い残していったので、こうして思い出したときにだけ実行していた。瑞麗がこれを皆守に教えたとき、皆守は座っていた。向かい合わせで話す保険医の顔は、あのとき確かに大人の顔をしていた。それは皆守にとってわずらわしいものだったはずだが、そうは思わなかった。

 教えられた呼吸というのは横になった状態でやってもいいのか分からなかった。でも、意識して呼吸すると、強張りがほどけていく感覚はあった。

『これからのためにも、覚えておくといい』

 瑞麗が当たり前の顔で「これから」の話をするので、皆守はそのとき何も言い返さなかった。返すものを何も持っていなかった。皆守にとっての『これから』は、二〇〇五年の三月で止まっていたからだ。

 でも、どうやらそうではないようだ。
 自分の「これから」が続いていくのが嬉しいのか嫌なのか、皆守には分からなかった。分からないことばかりだ。

 鼻で息を吸い、わずかな時間呼吸を止め、口からゆっくり吐く。
 頭が枕に沈む。

 年が明けた。
 皆守は、葉佩がどこへ行っているのかを知らない。いつ帰ってくる見込みなのかも知らない。次に彼が學園の中庭を通り、この寮へ歩いてくるのかを知らなかった。

 目を閉じて、布団を肩まで引き上げた。布団の中はあたたまってきて、まぶたが重い。よく眠れそうだと思っているうちに、いつのまにか寝ていた。