玄関からカタンと音がして、目がさめた。生徒がドアにぶつかる音は外側に響くものだが、今のは内側に響く音だ。聞き馴染みのない物音だった。

 皆守は目が利く自覚があって、たとえ視界の外側だろうとも目が利いているのだが、聴覚はあまり自慢にならない。でも、普段なかなか聞かない音であれば警戒心がはたらく。もう守る墓がないので警戒心は不要なのだが、本能はまだ事実を理解しきっていないらしい。野生の獣のような気分になる。

 二度寝しようとしたが、警戒心のアラートが収まらない。こんな男子寮で何が起きるもないだろうと自分に言い聞かせるが、本能は言うことをきかなかった。

 しかたなく皆守はベッドから足を下ろした。時計を見ると昼の十二時を越えている。ずいぶん長く寝ていた。
 ゆっくり立って、のろのろ玄関へ向かう。この警戒心は、もはや何に備えているのか分からない。だが、もうたいしたことは起きないと理解しているので気は楽だ。虫でも入ってきたんじゃないか、という気持ちでしかない。

 小さなキッチンの横を歩いて玄関へ向かい、電気をつけた。コガネムシか何かがいるかと予想していたが、予想に反して何もいない。昨日、といっても日付上は今日の早朝に部屋に戻ってきたときの靴があるだけだった。じゃあさっきの音はなんだ、と不審に思う。

 シンクにものが落ちたかと思って見てみたが、何もなかった。鈍く光っているだけだ。

 もしかして、と頭に星が降った。
 皆守はドアについている郵便受けを、横から覗き込んだ。自分で思いついたことだったのに、見えたものにはっとした。

 はがきが一枚、入っていた。

 ここに郵便が届くことなど、ずっとなかったから忘れていた。
 皆守は郵便受けの穴から手を入れて、そのはがきを引き出した。住所が書かれている。

 東京都新宿区、私立天香學園高等學校男子寮、皆守甲太郎様。

 皆守はその字を知っていた。部分部分で見るとどうもバランスが悪いように見えるのだが、離れたところから全体で見ると整って見える。太いボールペンで、インクが途切れているところをわざわざ書き直した跡があった。
 差出人のところに住所はなかった。葉佩九龍、とだけ書かれている。その名前を見たとき、予想していたのに息が止まった。息が止まっていることにすぐ気づいて、皆守は自分で意識して呼吸した。鼻で息を吸う。

 日本の年賀状はがきだ。住所も日本語で書いているので、日本から送ったんだろう。いつの間に、と考えたが、元日に届けるには十二月の下旬の何日だったか、決められた日付までにポストに投函すればいいのだと思い出した。年賀状なんてここしばらく送っていないから、その仕組みを忘れていた。
 今年の締め切りはいつだったろう、毎年どのくらいの日付だっただろう。

 九ちゃん、おまえはこれをいつ書いたんだ。あの地下の玄室で、俺とおまえが向き合う前なのか。

 皆守は年賀状をひっくり返した。今年は酉年だ。ボールペンでざかざかと描かれた鶏がばかでかい声で「二〇〇五!」と叫んでいる。やけに羽を豪華に描き込むので、尾が孔雀のようになっていた。
 その鶏の足元に、日本語と英語が並んで書きつけられてあった。

 ――皆守がいつも遠くの空を見てるの、実はカッコいいと思ってたよ。俺も遠くの世界を目指してくぜ!

 皆守はその一葉のはがきをデスクに置いた。英語の問題集と平行に並べる。いすにゆっくりと座り、背もたれに寄りかかって、もう一度年賀状を読んだ。

 この言葉通り、葉佩は遠くの世界へ行った。もうここにいないが、この年賀状だけが届いている。
 皆守は、葉佩のメールアドレスしか知らなかった。

 おまえはいまどこにいるんだ。おまえのいる場所も新年を迎えたんだろうか。

「なあ」
 声がかすれた。葉佩にはどちらにせよ届かないので、なんでもよかった。

「俺は、もっと情けない気持ちで空を見てたよ」

 俺はきっと、どうせここから出て行けないからと、出て行ける雲を眺めて自分の安心代わりにしていた。
 憧れだった遠い空に、もう葉佩は行った。俺はまだ土近くにいる。

 俺がずっと見つめていた空の向こうに、いまおまえはいる。

「確かにおまえは、俺にとって都合のいい条件を備えた男なのかもしれない。たまたま転校生で、たまたま普通の生徒でなかった。……でも、その『都合のいい条件』を選んだのは俺なんだよな」

 不変の平穏を願うようなそぶりをしても、共に進級してきた誰かでなく、外側から崩すやつのほうが都合がいいと思った。その都合は、皆守が選んだ。

 だらだらして現実でなく夢の中でぼんやりしていたいそぶりをしても、共にサボれる誰かでなく、共に授業へ行こうぜというやつのほうが都合がいいと思った。その都合は、皆守が選んだ。

 警戒心を忘れずいつでもすぐに身を引くように言っておいて、自分の言うことを聞く慎重な誰かでなく、その予防線を自らの手足で切り開いていくやつのほうが都合がいいと思った。その都合は、皆守が選んだ。

 全部そうだ。体育でペア組もうぜと言ってくるやつが嬉しいと感じるのも、同じカレーライスを食えるやつが嬉しいと感じるのも、全部皆守の都合だ。全部俺が選んだ。

 だから、俺がおまえを選んだといっていいんだよな。

 ただの転校生だったからではなく。イレギュラーだったからではなく。
 おまえがおまえだったから、と言っていいよな。

 葉佩の年賀状は最後に英語でこうしめくくられた。

 ――I’m so proud of you.

 ――私はあなたを誇りに思う。

 日本語にはあまり馴染みのない表現だが、他に言いようもなくて英語で書いたのだろうと思われた。その字は急いで書き付けたように走っていて、投函間際に付け加えたのだと分かる。日本語の部分に、一部かぶっていさえした。

 おそらく日本語と絵の部分は、前もって書いていた。別日、投函直前に加えた。

 日本語と絵は、玄室で向き合う前に書いたのだ。
 英語の一文は、墓から出た後すぐ、これだけ加えて書いて投函した。
 それを天啓のように、皆守は察した。

 誇りに思う、という言い方は日本語ではなかなかしない。だが言葉は心を伝える。葉佩はこれを、時間間際に走り書きをした。それがさらに、皆守に伝える。葉佩の伝えたいことが伝わる。

「俺も、おまえが誇らしい」

 皆守は新年の光が差し込む中、まぶたを閉じた。
 あの墓は皆守ら元墓守たちに友を与えた。その一方で、葉佩は何を得たのだろうと今まで思っていた。
 だが、墓を暴いた葉佩にも同じように与えられたものはあったのだと、いま信じられた。

 俺は、おまえに与えられたもののうちのひとつだ。

 九ちゃん、俺はおまえを忘れない。永遠に忘れない。
 俺の「これから」が絶えるその最後の一瞬まで、おまえを忘れない。
 俺がおまえを永遠にする。

「こんなこと、ほいほい言うようなことじゃねえな」

 寝る前とは違う気持ちで、そう思った。指先で、年賀状の表面を撫でた。葉佩は力を込めてこの孔雀のような鶏を描いたのだろう。紙のへこみを、指の腹に感じた。

 窓を開けて、風を感じた。冷たいことに変わりはないが、今は心地よく感じる。遠くの空を見上げ、そこから中庭に続く道を見た。するとちょうど、肥後が歩いてくるところだった。皆守に気づいて大きく手を振ってくる。つられて、皆守も片手を軽くあげた。すると肥後は自分の腹を撫で、その手で皆守に向けて広げた。
 どういうジェスチャーなのか分からない。
 皆守が戸惑っていると、伝わっていないことを肥後も理解したらしい。落語のような何かを食べる動きをして、校舎のほうを指さし、両手で大きく手招いた。

 なんとなく理解した。最初のジェスチャーは腹がへっていないかという意味で、いまは向こうで一緒に食事をしようと言っているらしい。
 言葉でなくても、伝わるものはある。

 わずかに考えたが、断る理由もないし、腹も空いていた。皆守は肥後にそこで待っていろとジェスチャーして彼が頷いたのを確認すると、窓を閉めた。
 部屋の中をぐるりと見渡す。

 元日の昼の光は白かった。壁もデスクもベッドも輝き、シンクも光沢にくすみがない。いい年になる。
 皆守は身支度をしながら、たぶん出て行ったらいま學園に残っているやつが正月料理を広げているところに連れて行かれるに違いないと思った。その全員の前で、二学期の思い出とやらを話せと強要されるんだろう。皆守だけやけに多くの人数の前で披露させられるのだ。

 でも、まあいいかと思った。
 なにせ葉佩と過ごした時間は随一なので、与太話ならいくらでもあるのである。

 あいつ、カレーの付け合わせにするらっきょを知らなかったんだぜ、とか。



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恩田陸 『ネバーランド』(集英社)へのオマージュを含みます。繊細で大好きなジュブナイルです。