朝十一時に目ざめてから英語の参考書を眺め、巻末の問題集を解いてから皆守は部屋を出た。律儀に赤ペンを入れていてはノートが真っ赤になるので、添付の解答を読むだけになった。つまり、問題を解いた結果はそういう有様だった。

 昨日は晴れていたが今日は曇り空で、夕方からは雨が降るらしい。外出する予定はないが、雨が降ると部屋が冷えるので嫌だった。ただでさえ気が重くなっているので、天気くらいは晴れていてほしいものだ。

 並木を越え、南天の横を歩いた。
 途中にある郵便ポストは、律儀に年賀状専用の投函口を設けてある。この赤いラベルを見て、皆守は改めて、今が十二月であることを思い出した。このラベルを見るたび、何度も何度も思い出している。
 今月は十二月だ。もう明日には月も年も変わる。

 校舎の鍵は開いていて、中に入れた。誰かが開けっ放しにしているのか、阿門が許可しているのか、そのどちらかだろうと思った。

 授業のない校舎はしんとしている。静まりかえった校舎を歩くことは今まで幾度もあったのだが、それは皆守にとって放課後か夜のことだった。こんな昼間から歩いたことはないので、知らない場所のように感じる。

 傍らには誰もいない。皆守はひとりで階段を上がり、ひとりでは開けたことのないドアを開けた。予想した以上に大きい音がたち、自分でしたことなのに驚く。

「あら、皆守さん」

 カウンターに当たり前のようにいる七瀬が声を掛けてきた。
 よォ、と返して、ぐるりと図書館内を見渡す。七瀬と皆守のほか、生徒はひとりしかいなかった。そのひとりは知った顔だったので、皆守は目線だけを交わす。
 真里野が皆守に見つかって、あからさまにもぞもぞしている。皆守はまあまあ面白いものを見たなと思った。

「お一人でいらっしゃるの、珍しいですね」
「……あァ、いま話してもいいか?」
「私にですか? 私が答えられることであれば、どうぞ」
「この前のことなんだが……手間かけたな。助かった」
「あ、メールの件ですか? 私は文系なのでお役に立てない教科もあったと思うんですけど」

 受験勉強が目の前に立ち塞がった皆守は、何から手を付ければいいのかさっぱり見当もつかなかったので七瀬に一報を入れたのだった。七瀬はていねいに、教科ごとにおすすめの参考書をリストアップし、ネット販売のアドレスも添付してくれた。彼女は確かに文系だが、参考書というのはこういうものなのだと分かって、出版社や特徴などが分かれば他の教科にも応用が効くので問題なかった。

 そう答えると、七瀬は「安心しました」と言った。

「今日も、参考書のお話ですか?」
「まあ、半分は」
「半分?」
「いや、……今までろくに勉強してこなかったつけなのは分かってるんだが、その、……聞いてもいいか」

 皆守が言葉をにごしたり、言いよどんだりするのを七瀬は興味深そうな顔で見て「ええ」と頷いた。

「あー……問題を解くよな。英語とか」
「はい」
「問題集は数をやる必要はないってメールに書いてただろ。一冊か二冊を全部解けるようにしておけばいい……んだったか」
「そうですね。同じ問題を何周もすることもあるかと思いますが、その分、身につきますから」
「答えを覚えてることないか。この問題集のここにある問題の答えは1だ、とか、そういうやつだよ。答えが分かるって意味じゃない。……俺の言ってること分かるか?」

 七瀬は頷いて、図書室の貸し出し簿を口元にあてて笑った。皆守がその顔からふいと視線を外すと、

「すみません、笑うなんて。真剣にご相談してくれたのに」

 と言って謝った。皆守は「いや」としか言えなかった。

 偶然、視線を外した先に真里野がいて、目が合った。真里野は神妙な顔でこちらを見ている。行動に出ないやつに気遣う必要があるのかという反抗的な考えと、そんな顔をするくらいなら何とかしろという激励じみた考えが両方うかんだ。だが、視線だけで何を指示できるわけでもない。皆守は真里野の視線をただ受け止めた。

「私も似たようなこと、ありますよ。なんとなく覚えてしまうんですよね」

 七瀬が言葉を続ける。

「皆守さんは注意深いですしね、気づいてしまうのかもしれません。でも、だからこそ大切なのが、繰り返しです」

 七瀬は皆守の前に人差し指をたててみせた。

「一度だけでは、前回の記憶でなんとなく、答えが分かってしまうかもしれません。ここにあった問題の、こんな内容の問題文の答えは……と思い浮かぶわけですよね。でも、ということは、皆守さんは問題文を覚えているということです。それはそれで学びの一歩だと私は思います。問題文を読む、答えを思い出す、解答解説で確認する、大切なのはこのサイクルです。自分の記憶によって多少の短縮があったとしても、このサイクルを回し続ければやがて知識として根付きます。似たような問題に出会ったとき、問題文を覚えて根付いているなら、『あ、この問題は……』と、気づくことができるんですよ。つまり、解答も導きやすくなります。それが、皆守さんの力になると私は断言できます」

 七瀬は語気強く、そう言い切った。
 彼女は意思が硬い。自分の意見を断言するだけの責任感の強さがある。今回、それが皆守自身に関することに向けられたので、気圧された。

「そうか、分かった」
 と皆守は答えた。

「時間、とらせて悪かったな。参考になったよ」
「そうですか? それならよかったです。これからも何かあったら、メール送ってくれていいですよ」
「悪い」
「いえ、気にしないでください」

 頭を軽く下げて、皆守は図書室のカウンターを離れた。大きな音にならないように気をつけて、カラカラと音を立てて引き戸を開け、またカラカラと閉める。背後の図書室と空間が遮断されて、皆守はため息をついた。

 彼は今まで、相談というのを他人にした経験がほとんどない。だから自分の状況をどう説明すればいいのか分からなかった。
 だが、今日はうまくいったらしい。

 冷たい校舎の中をすたすた歩いて、皆守は足早に校舎を出た。大晦日なのに勉強の相談に行った自分もたいがいだが、図書室に当たり前のようにいる七瀬に、今になって感服の気持ちが湧いた。彼女ほど勤勉な人間はそうはいない。意思が強く、それを言葉で他者に説明することを厭わない。

 そう考えると、真里野の琴線はいい素材でできてるな、と思った。





 夕食は自室で済ませた。昼間に外へ出たので、また出て行くと思うと気だるかったからだ。料理が特段得意なわけではないが、自分の作るカレーには満足できるので支障はない。

 食事をとって、使った皿を洗ったら夜の九時過ぎだった。
 もうあいつらはプレイルームにいるのだろうか、と思った。大晦日であることもあって、日付変更あたりに行くのはよくないような気がする。新年早々、前年を振り返るのはどうなんだ、と思うからだ。だからといってこの時間に出ていって、一番最初にプレイルームに入るのも嫌だった。

 皆守はひとまずベッドに座って、アロマパイプに火を付けた。頭をぐしゃぐしゃ掻き回し、香りを喉に通す。
 噛みしめながら、窓を見た。今日は昼に活動したのでカーテンは開けている。そのまま閉めていないので、結露越しに夜空を眺めることができた。雲が厚くたちこめて、星の気配も見えない。

 今日は雪が降ったらしい。室内にいたタイミングだったのか、皆守は気づかなかった。
 都内は薄化粧程度だったが、関東近郊で積雪が深いところもあるようだ。今、皆守が見上げている場所の天気は雪から雨になっている。結露の雫なのか雨の雫なのか、窓から離れていてはよく分からない。黒い夜がにじんでいる。

 それをアロマ一本分の時間見つめて、皆守はベッドから立ち上がった。携帯電話には何も連絡が来ていない。時計を見たらまもなく九時半で、今年もあと二時間半となろうとしていた。それを見たら踏ん切りがついて、皆守は部屋を出た。

 プレイルームの電気はついていたから、安心する。ほかに誰も来ていなかったら、皆守は何も見なかったふりをして部屋に戻っているところだった。
 部屋に入ると、四人がこちらに目を向けた。今日も皆守が最後の一人だった。

「俺もさっき来たところだ」

 皆守がばつの悪い顔をしたわけでもないだろうが、夕薙がそう言う。彼がこちらを責めているわけではないことは分かっていても、皆守は「悪かったな」と答えた。

 今日はソファに神鳳と黒塚が座っていた。皆守は、昨夜神鳳が座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。夷澤を横目で見たが、昨日と同じような調子だった。

「これで揃いましたね」

 揃った、と言われると妙な心地がした。この場以外で《揃った》ことなんて一度もないような顔ぶれだからだ。

 大晦日の晩に顔を合わせるには、皆守にとっては居心地の悪い場だった。夷澤はずっと皆守のことをただの上級生だと思っていただろうし、神鳳には仕事を任せきりだった。夕薙と黒塚には自分の事情を話したことがなかった。夕薙とはお互い様だが、黒塚は皆守に隠し事なんてなかったぶん、バランスが悪い。

 雨はしとしと降っていて、雨音が耳に沁みた。

「夷澤から話すか?」

 夕薙が後輩に譲ろうとしたが、後輩は手をひらひらとさせた。

「……そっちが話したいんでしょ。好きにしていいっすよ」

 夷澤がそう答えた。早口ではあったが、昨日よりは場に慣れているように見受けられた。この顔ぶれで唯一の二年生だが、役員であるだけあって肝が据わっている。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうか。俺の番だな」
「夕薙さんはC組でしたよね、九龍君と同じ」
「ああ、出席率はあまりよくないからな、同じ授業はたいして受けられなかったが。でも、そう考えると、同じクラスでなければもっと話す機会も少なかったかもしれない」

 皆守も出席率を誇れるわけではなかったが、夕薙も似たようなものだった。その全ては彼の本意ではなかったのだろうと思うから、皆守は茶々を入れなかった。

 今日はテーブルの上に菓子が広げられてあった。皆守が来るずいぶんと前から集まりは始まっていたらしい。スナック菓子は細かいかすばかりが残っていて、チョコレートの包装紙が山になっていた。皆守はそれを見て、残っているチョコレートを一つ口に入れた。製菓会社のロゴが入った包装紙を細く折ってねじり、テーブルの上に放る。

「俺の病について九龍に話して、あの遺跡が崩れ去って……彼が學園を出る前のある夜にだな、彼が墓守小屋に来たことがあるんだ。真夜中だったよ。よく晴れた日で、雲がなくて月が大きかった。俺にとってはいまいましい夜だったさ」

 チョコレートを噛むと、中からジャムの味がした。その準備をしていなかったので、皆守は甘さの二連打に面食らった。
 横の神鳳が「それ甘いでしょう、お茶ありますよ」と言って、自室から持ってきたらしい急須から茶をそそいだ。皆守はプレイルームに入らない学生生活を送ってきたので、この湯呑みがどこから出てきたのかまったく分からなかったのだが、欠けもなくきれいだったので神鳳の勧めに従って飲んだ。釉薬がかかったところのなめらかさが、親指の腹に感じられる。

「ノックが聞こえたとき、最初は不良生徒の悪ふざけだと思ったよ。たまに、生徒が騒ぎに来るんだ。でもそれにしては静かだったからな、ドアを開けたら九龍がいた。両手に何か持ってると思えば肉だった。冷めてたらごめんと言われたよ。真夜中に二人で食った」
「あいつ、焼けば何でも食えると思ってるからな」
「いや、旨かったよ。何の肉かは、確かに聞かなかったな」
「聞かない方がいいぞ」

 口を挟んで、皆守と夕薙で笑った。葉佩は神鳳の前では行儀良くしていたらしい。化人を掻っ捌かなかったらしく、神鳳は合点できない顔をした。

「昨日から、このときの話をしようと思っていたんだが、改めて思うと、それだけなんだ。何を話したのかも覚えてない。正確には、九龍と話したことは覚えているんだが、それがこのとき話したことなのかどうかを覚えていない、というのが正しいな。肉を持ってきただけじゃなかっただろうと思うんだが」
「九龍君、行動が思いのままですよね。意思と行動が直列つなぎになっているというのか……彼のよいところだと思います」
「俺もそう思うよ。だからこそ、俺は考えるんだ。九龍がそうしたということは、俺のいる墓守小屋に行こうと思う何かがあの夜にあったんだろう、と考える。変な話だが、すると元気が出る。俺は彼の友人になれたんじゃないかという気がするんだな」

 その通りだと思うよ、と黒塚が言った。

「僕から見ても、君らは友達だよ」

 黒塚がそれを言ってから、部屋がしんと静かになった。窓にぶつかる雨の音が、すぐそばに聞こえる。大粒ではないのに、窓をまんべんなく濡らしていくだけの力があった。
 言った本人は、なにも特殊な思惑なんてないというのがはっきりした澄まし顔でいる。最初に反応したのは夷澤で、「なんすかこれ」と鼻を鳴らした。

「誰かからはっきり言われると、なかなか照れるな、これは」

 夕薙がようやくそう言って、照れ隠しのように茶を飲んだ。つられて、皆守も湯呑みを傾けてしまう。皆がそれぞれに茶を飲んでいると、神鳳が急須を持って席を立った。それを目で追うと、彼は魔法瓶に向かっていく。この部屋に魔法瓶があることを知らなかった皆守は、なるほどあれでカップ麺を食ってるのか、と思った。

 その神鳳が戻ってきて皆の湯呑みに茶を注ごうとしたのを、夷澤が遮って手を出した。とにかく自分が主導権を握っていたいらしい。面白いので眺めていたら、夷澤と目が合った。彼は不機嫌そうに目尻をつりあげて、皆守の湯呑みにあからさまに少なく注いだ。

「おい、少ないぞ」
「自分でやってもないのに文句言わないでくれます?」
「じゃあ急須貸せ、自分で入れるから」

 夷澤とばたばたしていると、夕薙が「思い出した」と言った。皆守が夕薙の顔を見ると、彼は顔をくしゃっとさせて笑った。

「あ、悪い。遮るつもりじゃなかったんだが」
「いくらでも遮ってくださいよ、こんなの」そう言いながら、夷澤は結局、すなおに皆守の湯呑みに茶を注ぎ加えた。

「たいしたことじゃなくてすまないな。あの夜、九龍と話したの、昔話だったよ。今のような」
「九龍君の昔話、僕も興味ありますね」

 皆守は手のひらであたたかい湯呑みをくるみながら、そういえばあいつと昔話をしたことはあまりなかった、と思った。

 現在の話や、当時の皆守にとってはありもしない遠い日の話をしていた。皆守の目線では、葉佩にその未来を進ませてやれるかどうかが、彼のふるまいに懸かっていた。だから皆守は葉佩に、彼の見ている未来を聞きたかったのかもしれない。
 もしかしたら自分が踏みにじることになる未来というものを、把握しておきたかったのかもしれない。
 確かに、あいつの昔話も聞いておけばよかった、と思った。

「国外にいたとき、どこ行ってたのか聞かれたんだ。それに答えると、九龍も自分の行ったことのある国を答えてくれる、そういう形で話した。何カ国かかぶっていて、まさかすれ違ったなんてことはないだろうと分かっているのに、滞在していた街の名前を聞いたりした。深夜だったしな、ありもしないことを夢みたいに話したよ。……いや、夢だったのかもしれないな。本当にある夜、九龍は墓守小屋に来てくれていたんだろうか。つい最近のことのはずなのにな、夢みたいなんだよ」
「あの人はそういうの、行くタイプですよ」

 目を陰らせた夕薙に、夷澤は鋭いくらいの声色でそう言ってのけた。

「そう思うか?」
「思いますね。あの人、やることなすこと思わせぶりですけど、いい顔してるだけで義理、みたいなんだったことないんじゃないすか。やってることは全部マジだったと思うし。だから、そういうことがあったと思うならマジですよ」
「そうか。……そうだよな」

 夷澤がけろっと言うので、かえって説得力がある。

 しんしんと夜が更けていくのが、茶の上の湯気が少なくなることで分かる。手のひらと湯呑みの温度が近づいている。
 時間が経過していく。
 葉佩がこの学校にいたころ、皆守は明日が来るかどうかも疑っていた。だから、時間が過ぎようが過ぎまいが同じことだったのだが、いまはそうではなかった。

 時間が過ぎれば明日が来る。新年になるのだ。

 夕薙が噛みしめるように答えるのを聞いて、夷澤は続けて話した。

「一人のとき泣くからって言ってましたよ。本気かどうか知んないすけど。オレが二年だから気ィ遣ってくれてたんかもしれないし」
「は?」
「え?」

 皆守はひっくり返った声が出たが、夕薙も同じような声で同じようなことを言った。二人に聞き返されて、夷澤はまんざらでもない顔をする。

「もうオレの番てことでいいんすかね。あの墓に、クソ暑いとこあったでしょ、墓のわりと深いあたりですよ。オレと響二人連れて、九龍さんが墓行くって言うから付き合ったんです」

 夷澤がそう話し出すと、皆守の耳の奥に火がちりちりと燃える音が蘇った。産毛が逆立つような気がする。

「先に言いますけど、嫌だっていうんじゃないですよ。別に嫌だっつうんじゃないけど、なんでオレら呼ばれてんのかなにはなるじゃないですか。あの人、フィジカル信じられないくらい強かったし。……そんじょそこらの奴よりオレは使いでがありますよ、ありますけど、なんで呼ばれてんだろと思ったんすよね、あのとき。だから、聞いたんすよ。オレはセンパイに何したらいいんすかって。そしたら、やってもらうことはこれ、っていうのは考えてなかったみたいなこと言われて」
「あはは、言いそう」
「……で、じゃあオレらいなくてもいいんじゃないですかって冗談で言ったら、それは違うって断言されました。本当は全員で行きたいけど、そしたら通路に詰まるし、目が届かないかもしれないから二人がギリギリって話らしいっすよ」
「その理由が?」

 神鳳が、冷たい水を差すようにうながした。その声色に慣れない夕薙が、神鳳の顔色を見ている。
 皆守も夷澤も、神鳳のそういう冷たさのある冷静さに慣れている。それは彼が事実、冷たいであるとか不機嫌であるとかのものではなく、研ぎ澄まそうとしているからだ。

「一人のとき、きっと泣くから、つってました。さっきも言いましたけど、本気かどうかは知らないです」
「……それは、九龍君がですか?」
「どういう意味すか?」

 神鳳の声色がさらに研ぎ澄まされる。その鋭さに思い至るものがあって、皆守は背中がすっと冷えるような心地がした。

 いま、彼らはプレイルームの机をふたつくっつけただけのスペースに、五人で顔をつきあわせている。暖房は入っていたが、雨天であることもあって壁から寒さがしみ出していた。五人で集まっている机まわりだけがあたたかい。

 アロマが吸いたい、と思った。だが、机から離れられなかった。五人みなが落ち着かない雰囲気を共有しているから、その中で皆守一人だけが楽になろうとするのは背信行為になるような気がした。慰めに茶を飲む。乾いた緑の匂いが、舌に残った。さっきは甘く感じたが、今は青みのほうが強かった。

 神鳳が淡々と話を続けた。

「いえ、彼は不必要な謙遜をしなかったでしょう。謙遜、というのは今の話にそぐわないかもしれませんね……弱味を見せる、というんでしょうか。場合に応じての自身の情報開示は惜しまない人だなと思っていますが、彼がそうやって自分の弱味を見せて何かを得ようとするところがあまり想像できないんですよね」
「……そっすね、や、珍しいなとは思いましたけど、オレも」
「まあ確かに、俺も九龍にはその印象がある。自己評価と実際のパフォーマンスにブレがないようにしている。ストイックなところがあるよな」

 夕薙はうんうんと頷いている。

「そうでしょう。……あなたは?」
「……は?」

 神鳳の視線がふいに皆守を捉えた。皆守とはまた別の眼が、鋭さを宿して皆守を貫いている。

「あなたは、どう思っているんですか」
「……なんで俺に聞くんだよ」

 求められていることが何なのか分かっていても、質問で返した。皆守の思考を読み取ったように、神鳳が笑う。その微笑みは今までの鋭さとは打って変わって柔らかだ。皆守は動揺を、湯呑みの茶でごまかした。

「何を言ってるんですか、九龍君のことはあなたが一番知ってるでしょう」
「お前らとそう変わらねえよ」
「それは不要な謙遜ですね」

 微笑みのまま、神鳳にぴしゃりと撥ねのけられた。皆守は唇を引き結んだ。

 俺に言えることは何もない、と皆守自身は思った。誰のことも自分は語ることはできない。葉佩は開けっぴろげで、神鳳の言うように自己開示を惜しまなかった。だから皆守が知ってることは、他の奴らも知っているはずだ。
 他の奴らが知らないことを自分が知っていると言い切れるほど、皆守は自分が葉佩にとって特異であれたか分からない。皆守にとって葉佩は特異だった。この場の他の四人にとっても、この場にいない奴らにとっても、特異だっただろう。

 葉佩は転校生だった。閉じこもりすぎて内側の規則ばかりで目を曇らせていたこの學園で、そのくぐもった前提を歯牙にも掛けない転校生は、ひときわ光っていた。

 時計を見た。もう一時間と少し経てば、この一年が時間の波にのまれていってしまう。背中にある冷たさが皆守に冬を思い出させ、座り心地の悪いパイプ椅子が學園を思い出させる。
 この日が遠くなる。
 日本の多くの家庭では、大晦日のこの時間は家族が集まっているのだろう。テレビを見て、この一年にあった話を交わして場を温めている。
 
 いまこの寮では、二学期の三ヶ月間の話を続けている。高校生活三年間のうち、三ヶ月はわずか一割にも満たない。その時間に親しくなった者たちが集まっている。テレビこそついていないが、他の家庭の大晦日と同じだ。

 大晦日の、畳みかける郷愁が皆守の結んだ口をゆるませた。
 いまここにいないひとりの話をするとき、皆守はわずかに緊張する。

「あいつは社会人やってるからじゃないのか。自分のことを分かってて、自覚があるから弱味を明かす必要がないんだ。この學園のような閉鎖された一区画じゃなくて、門も石垣も海も越えた広い世界にいるから、自分の足場の堅さを認識してる必要があるってことだろ。自分の立ち位置とパフォーマンスを見比べて、可能な最大限を見極めないと死ぬ仕事やってんだからな」

 湯呑みの中を覗き込んだままそう言ったが、返事がない。他の四人を見ると、合点した顔をしていたので皆守は一席ぶったような気になった。不本意だ。片手を振って四人の視線を遮った。

「あーあー、もういいだろ。人のそんな性格とか思考とか、他人が談義してても何の実りもないぜ。勝手に想像するもんでもない」
「それもそうですね」
「顔を見て話してるときはそんなこと思わないんだが、こうして思い返すとつくづく格外れのやつだな」

 弦が切れたように空気がゆるんだ。さっきまでの緊張をほぐすように、各々で茶を飲む。皆守も飲んだ。

「まだお茶飲む? 茶葉、替えてこようかと思うけど」

 黒塚が急須のふたを開けて、中を見た。神鳳が、やりますよ、と急須を引き取って部屋を出て行った。

「お前ら、まだ起きてるつもりか?」
「皆守君は寝ちゃうの? 今日、大晦日だよ」
「俺は元日だろうが昼まで寝てる」
「今年は付き合ってくれよ、去年は断られた年越しパーティだ」
「あれは大和が勝手に言ってただけだろ、断ったなんて言い方をするな」

 はは、と夕薙が笑いながら、未開封だったスナック菓子の袋を開けた。塩と油の匂いがする。つい数時間前に夕食をとったはずの腹が、数時間など遥か昔だと言わんばかりに空腹をうったえるので、皆守はもうなるようになれと思った。

 思い思いに菓子をつついていると神鳳が戻ってきた。左手に急須となぜか茶碗を重ねて持ち、右手で片手鍋を持っている。

「スペース空けてください」
「なんすかそれ」
「年越し蕎麦です、つけ汁が簡単なもので申し訳ないですが」

 おおっと声が出た。菓子を腹に収めてしまったところとはいえ、あたたかい汁物は嬉しい。四人でテーブルの上にあったものを避けて、鍋を置くスペースを空ける。神鳳がふたをあけると、あたたかい昆布だしの湯気が香った。この香りを嗅いでしまっては、皆守はもうここから離れられなくなった。

「いいね、準備してくれてたのか?」
「蕎麦を茹でたのはさっきですよ」
「ありがとう。蕎麦を食うのは久しぶりだ」

 神鳳は片手鍋の中身を杓子でぐるりとかきまわしてから、茶碗にひとすくい入れた。それをまず、夕薙の前に置く。年長者だからだ。夕薙は照れたように笑ったが、そのまま受け取った。次のひと碗にもよそい入れながら、神鳳は一人でくすくす笑い出した。

「実家のほうでは、大晦日におせちも食べるんです」
「神鳳君、実家どこだっけ」
「青森です。おせちも年越し蕎麦も食べるんですが、天香に来て、それが地域の風習だと知りました」
「誰から聞いたんだ?」
「ふふ、阿門様です」

 まず皆守が笑った。それから夷澤がくつくつ笑って、夕薙が豪快に笑い、黒塚が押し殺した笑いをもらした。

「僕が大晦日にね、お屋敷にお邪魔したんですよ。実家からきんとんと数の子がたくさん届きましてね、お裾分けに。そのときお話をして知りました」
「はは、阿門が教えてくれたのか」

 そう笑う夕薙は、阿門のことを気楽そうに呼んだ。皆守の知らないところで、人と人は繋がっている。
 神鳳もほほえみを返した。

「ええ。今日のうちにお届けしないと夕食に間に合わないと思いましてと言ったら、お前の家ではこれを今日食べるのか、と聞かれたんです。僕はその時点で、自分の家が特殊なんだと悟りましたね。でも聞かれたことにはお答えしなければいけませんから、はいとお答えしたら、阿門様はしばらく黙ってから、こちらでは元日から三が日にかけて食べる、とおっしゃいました」

 阿門が神鳳の家の習慣を否定しないように言葉を選んだだろうことが容易に察せられて、皆守はまた口の端で笑った。エピソードがあまりにのどかで、可笑しいと言えば可笑しいのだが、牧歌的なあたたかさも感じられて思わず笑ってしまうのだった。

「あ、あと三分で日付変わりますよ」
「急がないと。まずよそってしまいますね」

 神鳳がざっと皆に蕎麦を行き渡らせて、いすに座った。皆守の前にある茶碗には、ひと口ふた口の蕎麦と鶏肉、天かすが入っている。寮生活の高校生があり合わせで作るにしてはかなりいい年越し蕎麦だ。神鳳以外にわざわざ作るやつがいるのか、皆守は知らない。生徒の多くは年越し蕎麦を準備するにしてもカップ麺になるに違いない。

「いただきます」

 五人でぶつけあうように頭を下げてから、割り箸を茶碗に差し入れた。割り箸はこのプレイルームに常備してあるものがあるらしく、夷澤がいつの間にか持ってきていた。
 ひと口食べたところで「あ」と黒塚が言う。

「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう」

 蕎麦を口に入れたところだった夷澤は、呑み込んでから「あけおめっす」と言い、神鳳は箸を置いてから「明けましておめでとうございます」と言った。
 皆守は鶏肉を噛み、飲み込んでから言った。

「……明けまして、おめでとう」