寮生活の生徒にとって「夜」というのは世間の「深夜」と同義である。長期休暇になると翌日の授業もない上に消灯時間という区切りもなくなって、それが加速する。年末年始は学校職員も少なくなってなおさらだった。夜間に生徒がうろつかないように生徒会ががんじがらめにしておく理由も、墓崩落で消えてしまった。
夜にプレイルーム集合とは言われたが、何時なのか皆守は分からなかった。
だからといってメールするほどではないので放っておいて、ぐだぐだしてから向かったら十一時を過ぎていた。
テレビは消えていたが、すでに来ているメンツが会話を交わしていてにぎわいがあった。
カップ麺の匂いがかすかに残っているし、室内も整理整頓されているとはお世辞にも言えない。
皆守はあまり寄りつかない部屋だったが、いま部屋にいるのが顔なじみだけなので気後れせずにテーブルまで進めた。
テーブルの上もとっちらかっている。週刊誌が伏せて広げられたまま、すみに追いやられていた。本棚には表紙がやぶれた漫画の単行本が並んで不揃いだ。その隙間に、ねじ込むように菓子やゲームソフトが詰め込まれている。
卒業生が残していったらしい古い赤本は、赤い色が褪せていた。
男子寮においては雑誌のポスターは破れるもので、本の表紙はちぎれるものである。取り合いをするわけでもないだろうに、なぜ破れることになるのか皆守には予想もできなかった。教室で配られたのだろう数学のプリントは、ぐしゃぐしゃになってプラスチックの箱の下に敷かれている。誰のものなのかもう分からない。
「お、来たな」
夕薙が皆守を見て朗らかに笑う。皆守はそれに目で応えた。
「で、なんで神鳳がいんだよ」
「いけませんでしたか」
神鳳が当たり前の顔をして混ざっている。ずいぶん前からいるらしくて、夕薙も黒塚もなんとも思っていない顔をしていた。
皆守は「別に」と言った。
夷澤は誰がいようと、どこか不機嫌そうな顔である。
プレイルームに他の生徒がいないのは、人が少ないということより、生徒会役員が二人いるからだろうなと思った。
生徒会が生徒をがんじがらめにしていたのは墓地があったからだということを、生徒は知らない。だから、まだ生徒会の権力下にいると思っている。そこに夷澤と神鳳、夕薙と黒塚という関係性が外部からは全く読めない顔ぶれが来たら、そそくさと去るだろう。
皆守は仕方ねえなと思って、テーブルから離れたところでパイプを唇にはさんだ。
さっき夷澤に文句を言われたのを覚えているので、窓を細く開けて火を付けた。冬風が吹き込み、かぐわしい花の香りを散らした。胸が凍るような温度が皆守の喉を渇かし、やわらかな花が降りていく。息を吸って、香りを窓に向けて吐いた。
學園には車通りがないから、外の街より影が濃い。カラカラと木の葉が流れていく音を聞きながら、室内のうきうきしたようすの彼らを見た。
皆守の視線に答えて、「やろうか」と黒塚が言い、夕薙が頷いた。
「話してたんだが、誰かが誰かの秘密を知っていて、誰かは誰かの秘密を知らないのはフェアじゃない、ということになった」
夕薙はまじめくさった顔でそう言った。
「なんだそりゃ」
「もちろん、皆守君がそういうつもりじゃないのは知ってるよ。誰かの秘密を知っていたところで、君はそれで有利になったとは考えないだろうけど」
他の誰でもない黒塚がそう言うので、皆守は居心地が悪くなって窓の向こうに目を向けた。神鳳が笑う。こいつがただ笑っているのを聞くのはあまりないことだったので、耳に残った。
「そこで、まあそれぞれ大なり小なり秘密はあるだろうということでな、それをお互いに披露しよう、と」
「は?」
「ただ、秘密は秘密だからな。ホイホイ言えるもんじゃないことは分かっている」
「……」
「だから、ルールがある。これはついさっき決まった」
ふふ、と神鳳が含み笑いをしたので、こいつが提案したんだなと分かる。皆守はアロマパイプを口から離して、夜空に煙を吹きかけてから「なんだ」と相槌を打った。
「この三ヶ月のうちの話をしよう。誰にも話してなかったこと、何かあるんじゃないか?」
「……九月からのか」
「そう。ただの二学期ではなかったのは、ここにいる全員が同じだ。同じ気持ちを抱えているもの同士、共有するのも悪くない」
「……」
それでは夷澤のムカつきは晴らせないのではないかと思ったが、夷澤は眼鏡をかけて腕を組み、じっと週刊誌の表紙をにらんでいるだけだった。この後輩はあの転校生にずいぶんなついていたから、思い出話の機会をふいにするのもムカつくというあたりだろうかと予想をつけた。葉佩はつくづく、人間関係が破天荒だ。
皆守は黙ってアロマの吸い殻を抜き取って捨てた。
カップ麺の匂いがまだ漂っているように感じて、窓は細く開けたままにした。
会議室のような折りたたみ式のテーブルを二台くっつけて広くした場所の周りに、座面が破れてスポンジが飛び出たソファとスツール、パイプ椅子が集まっている。どれもこれもどこかが壊れていて、ガムテープの貼り跡があった。ガムテープで直そうとして努力がみられるところに、少年たちの可愛げがある。
ソファは三人掛けくらいの大きさだが、黒塚だけが座っている。皆守はそのソファの空いているところに腰を落ち着けた。
「誰からにする?」
黒塚があくまでも提案のようにそう言ったが、完全に声が浮ついていた。
この会が設けられた主目的からいえば皆守から話すのが道理と言われるのではないかと危惧していたところである。先陣をきりたいやつがいるならありがたい。
皆守は黙っていたが、神鳳がほほえんで「どうぞ」と促した。
「えっいいの?」
「ええ」
横を見たら、あからさまに黒塚が嬉しそうにしているので笑えた。
黒塚はもともと姿勢がいいタイプの男だが、いそいそと居住まいを正して「じゃ、僕から」と言った。
「ここに来るまでの間に、何を話そうかなって考えてあったんだけどね。二学期のこととなると話すことがあれこれあって、もう収まりきらないよ」
「確かにそんな感じだな」
黒塚につられたような顔で、夕薙が言った。声が笑っている。
「うんうん。だから、ずっと考えてたんだよ。この……一時間くらいね。でもせっかくだからね」
彼はそんなことを話しながら手元のガラスケースに触れた。指先がぶつかり、手のひらで覆う。
その手つきを見て、皆守は、ああと合点した。
ほかの生徒たちは、生徒会の規則が厳しかったのは遺跡があったからだと知らない。あの崩れた石の屋根の下で何が起きていたかを知らない。生徒の大多数とは、思い出は共有できない。
限られた者たちのあいだでなければ、通じることがないのだ。
その中で、黒塚は生徒会役員でも墓守でもなかった。彼は機会を探していたのかもしれない。
黒塚にも、墓は葉佩という友を与えたのだ。
「九龍君がね、たまに部室に来てくれてたんだ。一週間に一回あるかなないかな、くらい。基本的に僕はあそこにいるからね。ほら、神鳳くんがいたときに来てくれたこともあるでしょ」
「ああ、ありましたね。パワーストーンをもらいに行ったとき……ああ、そうですね。ありました」
「たぶん、彼、人のことが好きなんだろうね。人に限らないのかもしれない。新しいことを知るということ全般に前向きなんだと思うよ。僕の標本をひとつずつ見てくれていて、いろいろ聞いてくれてた。標本には採集した日付をつけておくんだけど……採集日付と場所だね。それを順番通りに並べてみたいって九龍君が言って、少しずつ並べてたんだ。ラベルの日付を見て、採取日付と石の種類でね……帯みたいに並べてたよ。結局、今年の春くらいまでしかいかなかったんだけど」
黒塚がいつも抱えている石は彼のとっておきで、遺跡研究会の部室にはもっと細かな、彼の学術的好奇心のもとに集められたコレクションがある、ということだろう。
標本がある、と言うときに黒塚は両手の人差し指で数センチ大の四角を作ってみせた。
確かに、そのサイズの箱に収まっているイメージが皆守にもあったので、想像できた。皆守のイメージでは、そのサイズの標本を収めるさらに大きな標本箱があって、それぞれに管理できるような光景がある。皆守の知る数少ない地学の授業で、そのような箱を見たような記憶が残っていた。だが、黒塚が示したのは小さなほうのサイズの標本だったので、箱から出してひとつひとつ見分しながら、話をしながら並べたのだろうと分かる。
「今日ね、それを並べきったよ」
そう言って、黒塚が笑った。
「あ、ここ三ヶ月の話じゃないか、これじゃあ……。でも、これ九龍君には内緒にしててほしいから、秘密という意味では正しいかな」
「そうか」
相槌を打ったのは夕薙で、声だけでどんな顔をしてるか分かった。
「僕がここに入学してからの三年間のぶんだけだし、採集に外に出てるわけでもないからね。そんなに量はないと思っていたんだけど、並べてみると圧巻だったよ。年表みたいでさ。でも、その中でもこの三ヶ月の量がね、とても多くて」
「確かに、僕と墓に降りたときも、何か拾っていましたね」
「そうそう。僕が興味があるって言ったから、たぶん気を遣ってくれたんだろうね。九龍君が連絡をくれるときが多かったんだ。皆守君ともよく降りたよね? 部屋に入ったというだけなら、僕も皆守君と同じくらいの行動範囲はもらえたんじゃないかな。だから、今年の秋……この二学期の日付の標本が、とても多かった。九龍君と作ったのもあるんだよ。小さな石灰岩だったんだけど、彼、持って行ったかなあ」
黒塚はまた、両手で標本の大きさを示した。彼の人差し指が、三センチ四方を作った。
神鳳が片手をすっと挙げて、首をかしげて話す。
「これは単純な好奇心なのですが、どうやってその材質……というんでしょうか。石の種類が分かったんですか?」
「たぶん石灰岩だろうと思ったら、ちょっと端を砕いて塩酸かけてみればいいよ。かけらに塩酸をかけてみて、溶けて発生した気体が二酸化炭素であれば石灰岩になるね。塩酸は九龍君が持ってたんだけど、もし事故が起きたら危ないから椎名さんに理科室に入れてもらって実験したんだ」
「ああ」
神鳳が楽しそうな声で、息を漏らすような相槌をうった。
普段、教科書で見聞きしている知識を生きた知恵として使っている人間の言葉は楽しい。
葉佩は墓地からいろいろな薬品類も集めていたから、理科室のストックを使わなくても済んだのだろう、と皆守には想像できた。
頭の中に、その光景が思い浮かぶ。自分はその場にいなかったのに、黒塚と椎名と葉佩が、三人で理科室にいるイメージができた。黒塚はきっと笑ったろうし、椎名もあの白魚の手で口元を隠してほほえんだだろう。そして葉佩も同じように、彼らと共に笑っただろうと思う。その葉佩の笑う顔が、皆守の想像の中で一番鮮明だった。
「僕は、そんなところ。いま部室に来ると圧巻の光景が見られるよ。何せ、僕とこの天香學園の石たちとのすべての語り合いが詰まってるからね」
「今の話を聞くと、興味があるな」
「本当かい? ぜひおいでよ。僕がいなければメールをくれたら、鍵を持って飛んでいくから」
夕薙が声をたてて笑い、「では頼もうかな」と言った。黒塚がワントーン高い声で「本当かい?」ともう一度言う。それにまた夕薙が笑った。
笑うのがひととおり収まったあたりで、神鳳が場を引き継いだ。
「じゃあ、次は僕が話しましょうか。ルールの発案者ですしね」
神鳳が周囲をぐるりと見渡したが、誰も反論はしなかった。
夕薙と黒塚はゆったりとしていて、夷澤は相変わらず何も言わずに場を陣取っている。
夷澤は上級生相手にも物怖じせずによく話すほうだという印象が皆守にはあるので、彼がじっとしているのを意外に思った。この場のすべてが気に食わないような顔をしているが、口を出さないということはそうではないのだろう。
皆守は夷澤から視線を外して、神鳳に「好きにしろよ」と言った。
「ではありがたく。……僕は彼と親しくなったのはここ二週間もない程度のことですが、いい時間でした。さっき黒塚君も言っていましたが、九龍君は探究心があって、決して一言では言い表せないような、そんな人でしたね。探究心があるからこそ、天職なんでしょう」
神鳳は目元をゆるめて笑う。いつも射るような目をしているから、その差がはっきりと分かった。
ただ二学期の話だとしか指定がないのに、黒塚も神鳳も、それが葉佩のことを指すのだと信じているかのようだった。この場にいる全員にとって、今年の九月から十二月までの時間は葉佩に繋がっていく。
神鳳は直接に葉佩と交流がなかったとしても、彼の足跡を監視者の目で見つめていたはずだ。皆守のそれよりも、ずっと研ぎ澄まされていただろう。
皆守の目が鈍ったことはない、と言い切りたいのはやまやまだったが、皆守にはその自信がない。
神鳳の目のように終始、墓守の本能の目でいられたのか、定かでなかった。墓を守るのは本能だ。でも、本能だけでいつづけるには、皆守は彼に情がありすぎた。
本能と情は同居できない。
「つい数日前のことです。墓が崩れて、大騒ぎになって、彼が病院から戻ってきて……まもなくですね。放たれた亡霊たちのうちほとんどは行くべきところへ旅だって行ったのですが、何人かはこの現代の街に気圧されてか、迷ってしまったようで」
いろいろなことを考えていたら、皆守は唇の表面がむずがゆくなって席を立った。
ちらと見上げてくる神鳳に、右手をぶらぶらさせて「気にするな」と告げる。
開けたままの窓に寄る。この部屋には彼ら以外に誰もいないから、離れていても神鳳の声が聞こえた。
「僕が彼らと話していたときに、九龍君がそばに来たときがあったんです。僕の側では、話していたというより、祓おうとしていた、というつもりだったのですが」
パイプをくわえて、火をつける。火がつくときは、ほのかに手元があたたかくなるような気がしている。ものが燃える匂いがするが、煙を吸うとラベンダーに塗りつぶされた。心臓のあたりからわいてくるものを、ラベンダーで押し込めた。窓に向けている頬がぴりつくように冷たい。それをまぎらわすように、煙を吹いた。
「僕がさてどうするかと思っているときに、九龍君が気づいたら横に立っていました。僕が目を向けたら、『どうも』と言って笑っていましたが、僕はあの墓がああなってから彼に会ったのが初めてだったので、ずいぶん驚きました。もともと、九龍君自身はなにも……そういう霊的なことは感じにくいほうだと言っていましたし、迷っていた霊も力が弱々しくなっていましたから、九龍君は見えなかったようなんです。どういう状況かと聞かれて、答えたました。ここに、迷子になってしまった霊がいて……というようなことを言ったと思います。そうしたら、彼、どうしたと思います?」
ラベンダーの香りはもはや皆守のまわりに自然とただよっているものになっていた。その香りをこうして、直に飲むようにすると自分の周囲にある香りが思い出される。ああ、こういうものが自分の周囲に常にあった、ということに気づく。制服の上着に焚き込められたようであるらしい。
「九龍君は、じゃあ道を教えてあげると言ったんです。このあたり、道が入り組んでいて難しいの分かるよ、と。霊に対して安易に同意するのは、僕はあまり勧められないのですが、そのときは驚いてしまってフォローも遅れてしまいました。もっと僕が動くべきことがあったと思うのですが、そのときは頭にぜんぜん浮かばなかったんです。彼、相手が見えていないですから、見当違いの方向に話していて、それを思わず訂正しただけで」
ラベンダーの香りが、皆守の中を沈下させていく。
皆守はかすになったアロマを抜いて、わずかな時間、夜の闇に紛れる學園を見た。枝がむきだしの並木の中に実った南天が植わっていて、その鮮やかな赤色が星のように、かすかに光って見えた。葡萄にように垂れ下がる赤い実が、夜風に揺れている。その色を見るだけ見て、皆守は窓を閉めた。
「九龍君、こっちですよ、と霊のいる方向を教えてしまったんです。本当なら、たしなめるべきだった。でも、彼を僕が制止できるところがうまく想像ができませんでした。今も、同じ場面になっても僕は九龍君を止めることはできないと思いますね。そのときも、彼は丁寧に、あの携帯している端末の画面に新宿の地図を映してくれて、ここが現在地、と教えていましたよ」
「素直だよな、彼は」
「そうですよね。いろいろ経験している風格はありますから、嘘も欺瞞も知っているだろうに、まず本人の言い分を100パーセント信頼してくれる。そんなところを感じていました」
神鳳がそう言って、戻ってきた皆守を見上げた。その目つきに軽い頷きを返して、皆守は黒塚の隣に座った。
「あんまり九龍君が真剣だったからでしょうか、迷っていた霊もちゃんと道を見つけていきました。僕が彼にもう大丈夫そうですと言ったら、あ、本当? と言って笑っていて、こちらも笑ってしまうくらいでしたよ」
神鳳の言った葉佩の言葉が、葉佩の声で頭に流れた。隣の黒塚が押し殺した声で笑っている。飾り気のない葉佩の言い方に、黒塚も思い浮かぶものがあるのだろう。
神鳳の話の中にいる葉佩は、皆守の知らない葉佩だ。つい最近のことだというから、他のメンツも知らない話だろう。だというのに、同じ葉佩九龍という人間だから、同じイメージをもつことができている。
葉佩は人それぞれにそれぞれの対応をしたけれども、それは八方美人という意味ではなく、その相手にとって親しみのある人間であるようにふるまったということであろう、と感じた。
それは葉佩の軽薄ではない、と今の皆守は信じられる。それは厚意と誠意だ。まるで夢を見るように、皆守はそう信じた。
「僕の話はこれで終わりです。九龍君のあの正直なところを、こうして誰かに話せてよかった」
「いいエピソードだったな」
「でしょう。真剣にね、地図を霊にみせていましたよ。彼らは目を白黒させてましたが」
「想像できるよ」
「アホなんだ、あいつは」
ぼんやりした声で口をはさんだ皆守に、夕薙は「はは」と笑うだけ笑った。神鳳も目を細める。
「僕は彼のようにしたことがないですからね。新鮮でした。彼にもそう言ったんです。僕は彼らの恨みの声を煩わしいように感じていて、いま九龍君がやったようには向き合ったことがないとね。僕にとっては、褒めたつもりでした。容易にできることではないと、そういうつもりで言ったんですが、彼は、僕と同じように暮らしてきたら自分もそうなると思うから気にしなくていい、と言いました」
神鳳が今まで、具体的にどう暮らしてきたのかを皆守は知らない。だが、故郷での生活を一部聞く限りは、神鳳はこの世ならぬところの意思と常に隣り合っていたのではないかと思う。それは常人にはなかなか起き得ないことだから、対処方法を教える人間も限られただろう。その対処法の中で神鳳が採用できるものがあったかどうかも怪しい。
そんな日々を妹と共に過ごしてきたのでは、霊に対する警戒心も強まるだろう。怨嗟の声を聞けばまたかと思うし、攻撃の意思を探り続けることになる。
敵になりうる相手に、警戒心なしで向き合うことは、神鳳にはきっと難しい。
「僕のことを、そのあり方でも正しいと言ってくれたので、少し気恥ずかしかったですね」
皆守は数メートル先の、真っ暗なテレビ画面を見た。
古いテレビは奥行きが長く、電源のついていない今もくたびれがある。真っ白の壁の色が画面にうっすらと波うっていた。テレビ台には學園が売りにしているDVDプレイヤーがあったが、その影に隠すようにゲーム機が繋がっている。配線がこんがらがっているのが、離れたところからでも見えた。
天香學園の寮は寮生活のあたたかさよりも、生活の利便性が優先されているようなところだ。改築されたばかりでこぎれいなところが、生徒たちの鼻につくらしい。整えられた設備ほど、生徒たちの奔放さに追いやられていた。
だが、人を突き放すような白いモルタルが、皆守にはかえって心地よかった。この中にいる限り、誰も皆守に頓着しないのだという安心すらあった。ずっと無愛想な皆守に、「可愛げがない」と言って嫌った教諭がいたが、皆守からしてみれば可愛げのある男子高校生役など他のやつに任せてしまえばいいのだ。それを褒め言葉だと感じるたちでもない。
この寮がもし木造で、廊下を誰かが歩いたら床板が軋み、風が吹けば隙間風が笛を鳴らすような場所だったなら、話は別だった。皆守は自室で丸一日授業をすっぽかすなんてことはしなかっただろう。早々に退学していたかもしれない。
すぐ横の生徒の笑い声、悔し泣き、電話の声などが聞こえるような、生徒たちで寄り添って暮らすことを求められているような牧歌的な雰囲気がただよっているような場所だったなら、皆守には耐えられなかった。
ぴっちりとした密閉の息苦しさが、皆守にはかえってちょうどよかった。寮に入ったその日から、皆守は天香學園の閉鎖的な気配を嗅ぎ取っていた。
入学してから皆守の安息の地でありつづけた学生寮に、いきなり飛び込んできた一人がいる。今年の九月、たった三ヶ月前のことだ。
いま、この場の全員が彼の話をしていた。いつも涼しい顔をしている神鳳の目尻を下げさせている。利便性とは似ても似つかない呪いも封印も、いまここにはかけらもなかった。けれども、目に見えなくて説明のつかないものが満ちていて、その熱が窓を結露させた。
自分だけではないんだよな、と皆守は思った。
折に触れて思い返すような日があること、その日にあいつがいること、それは自分だけではないんだよな。
皆守はテレビ画面のブラウン管を、ただ眺めた。ずっと、何も映っていない。
場が一段落して、気が抜けたような感じになった。空気がゆるんで、だらりと垂れ下がったような気配になる。皆守が時計を見ると、もう二時をまわっていた。昼に寝たので不快感はないが、もう寝たい気持ちがあるのは否定できない。
「続きは、明日にしましょうか」
皆守のようすに気づいたのか、神鳳がそう言った。
「そうだな、また明日にしよう」
と、夕薙が答えて、「君もそれでいいか?」と夷澤に問いかける。話を振られた夷澤は「いいっすよ」と答えた。ここまでずっと黙っていた夷澤だが、声を出すといつも通りのように感じた。
「もう二時か、早いねえ」
「明日も休みだと思うと、気が抜けるな」
「休みの日にもまた明日と言えるのは、なかなかいいものですね」
夕薙と黒塚、神鳳がそんなふうに言い合って立ち上がった。のんびり話している彼らを尻目に、夷澤はすっと立ってそのまま流れるように歩き出す。彼は日頃から運動をしているので、その動きのひとつひとつに途切れの不自然さがなく、よどみのない一筆書きのような動きをした。
「おい」
その夷澤の動きに横並びになって、皆守は声を掛けた。
「なんすか」
「なんすか、じゃねえよ。どうした、お前」
「は? 意味わかんねーんすけど」
「やけにしおらしくしてたろ」
「べつに。夜中に呼び出されたと思ったら甘っちょろい話聞かされて、呆れただけですよ」
内容はつんけんしているのに、夷澤の声まではとげとげしくなかった。それがあんまりちぐはぐなので、皆守は内容と声とどっちに返事をすべきなのか、とっさに言葉が出てこない。
話を聞いているだけだった神鳳が、皆守の隣まで来て夷澤に声を掛けた。やわらかい、夜の闇にまぎれるような声だった。
「夷澤。それなら付き合わなくてもよかったんですよ」
「は。三年のセンパイらはもうすぐ卒業ですからね。ちょっとくらい構っててやりますよ。ホラあんた、眠いんだろ。オレは勝手に部屋に帰りますからね、あんたは一人でここで寝ててください」
夷澤が足を引っ掛けるように皆守の足元を蹴ろうとしたので、皆守は反射的に夷澤のふくらはぎを蹴った。まんまと蹴られた夷澤は苦い顔をして、皆守に向けて、無理矢理踏み込むように靴の底をぶつけて部屋を出て行った。遊びというにもゆるい踏みつけだったので、皆守はぼんやりと夷澤の去ったドアを見つめた。
神鳳が皆守の隣で笑った。
「夷澤も夷澤で、寂しいと思うことがあるんですね」
皆守は鼻を鳴らして「知らねえよ」と言い、夷澤に続いて部屋を出た。
背後で黒塚が「電気消すよ」と言い、夕薙が「ああ」と答えていた。
寮の廊下はしんとして、歩いていく彼らの足音が何重にもなって聞こえた。
「神鳳君はこんな遅くまで起きてていいの」
声をひそめて、下がり調子で黒塚が神鳳に尋ねている。神鳳が、いい、というのは? と聞き返した。
「今日も朝練してたって言ってたでしょ。明日もやるの? いや日付だともう今日になっちゃってるか。大晦日だけど」
「確かに、夜更かしをしてしまいましたね。大晦日と元日は弓道場も休めるつもりですよ。昨日のうちに正月飾りも飾りましたから」
「正月飾り? 運動部はみんなそういうのしてるの。文化部はみんな部室棟だから、憧れちゃうね。自分の部活だけが使う建物があるっていいよねェ」
「他の部活動のことは、どうでしょう。武道場は飾ってありましたが……弓道部も剣道部も、部活動の内容が内容ですからね。武道場のは、夕薙君のところが飾ってるんですか?」
「柔道部はどうしたんだかなあ。剣道部かもしれないな」
こそこそ話して、こそこそ笑う。落ち着きのある三人だから、話に熱が入っても声が大きくなるようなことはなかった。
平たい白の壁が長く続き、それが途切れて階段が現れる。四人でぶらぶら上がっていき、それぞれの部屋に散った。
自室に戻ると、冷たい空気が出迎えた。そういえば、自分は律儀に暖房を切って行ったのだった。だが、これからすぐに眠るつもりだからかまわない。
カーテンを閉めたままの窓に近寄り、カーテンをめくる。窓の結露は霧のようになっていた。片手でそれを拭うと外が見えたが、塗りつぶした黒のような森がじっとしているだけだった。濡れた手が気持ち悪くて、皆守は窓辺を離れ、手を洗ってから部屋の電気を消した。長く暮らした部屋なので、電気がなくてもベッドまで行くのに苦難はない。ベッドに寝転んだ。
また明日、と言って別れたことを思い出した。カレンダー上は同じ今日の予定だが、まだ眠っていないので、気持ちの面では明日である。
今年が過ぎようとしている。明日は十二月三十一日だ、と考えた。明日で今年が過ぎ去る。それは皆守にとって、ただの日付の更新以上の何かがあった。
何かが変わっていく。
何かが過ぎていく。これが変化なのか喪失なのか、今の皆守にははっきりと捉えられなかった。
ベッドの上から、暗闇越しにデスクを見る。一抱えほどの四角い影があった。そこには届いたばかりの参考書が山積みに、ダンボールに入っている。おとといの昼、届いたときに中身を確認してからずっと、読むごとにダンボールに戻している。この部屋に置かれたことのないものであるばかりに、どう扱えばいいのか分からない。
参考書の内容を思い返す。ぱらぱらとめくったときの内容と、そこに対する自分の理解度を反省した。その隔たりが、これから自分がおこなわなければならない努力だった。
だるいとは思わなかった。
これから自分がおこなわなければならないものが、目の前に明らかになったことで冴えてきたものがある。この冴えは皆守を全身を、いま満たしている。
目を閉じた。次に目を開けるのは十時ごろだろうか、と思った。