見つめる
後ろを向いてみたいと思うが、首の動かし方を忘れたようでできない。
横から投げかけられている葉佩の視線は穴が空くようだ、とは決して言えない程度のものでしかなかった。ただ皆守を視界に収めているだけで、観察しているわけではない。人間は目を閉じたままでは生活できず、目を開けているとどこかを見ている必要がある。そうした人間としての機能の制約を、皆守は理解している。
葉佩は今までの皆守が暮らしてきた常識を思えば、荒唐無稽で常識外れであれもこれもどんな予想だって彼の素性にはかなわなかった。彼の仕事が実在するとも思っていなかったし、彼の雇われ事情も皆守の知っている社会の話ではなかった。
けれども葉佩は人間だった。
彼の血が赤いことを、皆守は知っている。
寮の自室で、皆守はキッチンに立っている。寮のキッチンは共用のものならスペースの余裕があるが、自室は一人しか立てない。
皆守は共用のキッチンなど入ろうと思ったことすらないので、入学時のガイダンスでちらと見たきりだった。正確な広さは知らない。これからずっと、知らないままだろうと皆守は思った。
葉佩はベッドの上に座って、皆守を見ている。彼の部屋ではないし、この部屋には物も少ない。見て楽しむあてがないのだった。彼がよく携帯している小さなノートパソコンのような端末は、彼の部屋に置いてきたらしい。つまり彼は手持ち無沙汰で、皆守以外に見るものがないのだ。
ガスコンロには火がついていて、鍋の中はぐつぐつ煮立っている。頭上では換気扇が回っていて、会話を遮ることができるだけの音として充分に役割を発揮する。
皆守はガスコンロの火を弱めて、身体全体でワンルームに顔を突っ込んだ。
「寝てろよ、まだしばらくかかる」
気遣ったつもりだったのだが、葉佩は破顔した。
「待ってる間の選択肢として、寝てろってのはなかなか珍しいな」
「他にないんだよ。部屋に戻ってたっていいが、お前にどっか行かれたら捕まえるのも一苦労だからな」
「ま、別に退屈してないしな。ゆっくりやってくれ。おれは余裕だから」
「何の余裕だよ」
「ほら、焦がすぞ」
「こんな短時間で焦げない」
とは言いつつ、放っていいわけでもないので、皆守は鍋の前に戻る。
コンロが一口しかないので、ライスは炊飯器に任せるしかない。せめて二口あれば、と思う。米を炊くにせよ、スープを作るにせよ、もう一段階旨い支度ができる。
他の生徒は、こういうときに共用のキッチンを使うのだろう。
共用のキッチンが不要だと思ったことはない。
この男子寮で夕食を自分で支度する生徒がどれほどいるのか皆守はまったく知らなかったが、共用のキッチンに行かないのは不要だからだという生徒は多いはずだ。そもそも自炊をする気がない。
皆守はそうではない。もっとコンロの口があればなと思うし、広い作業台があればなと思う。キッチンに自由なコンセントがあればな、とも思う。
共用のキッチンは、なにもいったん外に出なければならないとか、階段を何階も上り下りしなければならないという距離ではない。
自室からキッチンまでになにも障害などないのだが、皆守にとっては墓地の扉より重かった。
こういうとき、自分は願うことばかり得意だ、と思って笑える。
今までは、ほかの奴らもそうだと思っていた。学校生活の退屈を嘆いてはいるものの全てポーズに過ぎない羊、柵を越える想像もできない群れ、自分たちが何に囲われているのか顧みることもしないさまは、飼い慣らされた者のたどり着く道の終端なんだろう。墓に潜り込む生徒は、想像力も危機感も足りず、今まで柵の中で無事だったから外へ顔を出しても無事なのだと信じ切っている愚かさのかたまりだ。
羊の群れに紛れて、ラベンダーの煙で身を隠す。
だが、羊の畜舎は所詮、小さな小屋なのだ。
皆守の耳に、葉佩の視線がぶつかった。皆守が把握できる距離に、葉佩はぼんやりと横たわっている。
彼はゆったりとしていて、皆守の一挙手一投足を観察しようというのではない。だから、その視線はずいぶんとなめらかだった。葉佩が目を閉じ、ゆっくりと開いた。涼しい顔をしていたが、なんだかんだ眠たいらしい。眠いくせに、と思うと笑えた。
皆守の部屋にいて、皆守の作業に加わることもできずにただ眺めている。あいつは何が楽しいんだろう、と思う。そもそも、楽しいだろうか。あいつが、ここにいて得られるものなんてないだろう。
皆守のほうから彼の部屋を尋ねていくことはあったが、それは誰にでも納得のいくことだろう。葉佩の部屋は他の生徒の部屋とは一線を画した面白みがあるし、彼との会話には他の生徒に聞かれたくないこともあった。数日前に葉佩の部屋に入ったときには、ベッドには入るなと言われてちらと見やったら、むき身のナイフがベッドの上に投げ出されていたので思わず声をあげた。
布が破けるだろ、と皆守が言えば、葉佩は火を噴くわけでもないしそもそも刃物は動かさない限りは切れない、と反論した。
いつも、皆守は葉佩に畜舎の外を見ていた。
「テーブルあけてくれ」
皆守は葉佩がいるワンルームに向けて声を投げたが、もごもごした返事が聞こえた。どうやら、彼のほうで聞き取れていないな、と判断して、換気扇と火を止める。ファンが止まって、静かになった。隣の部屋が爆音でかけている音楽が、ビートを刻んでこの部屋までかすかに響く。
「テーブルの上、あけといてくれ」
もう一度言うと、ようやく葉佩は聞き取れたようだった。はいはい、と気楽な返事がある。
皆守は炊飯器の蓋を開け、炊き上がった後に一度かき混ぜた白飯をまた一周混ぜて、カレー皿に盛り付けた。葉佩は信じられないほど食うのだが、皆守の部屋では遠慮するふしがあった。
常識外れの男にも遠慮という概念はあるらしい。
「なんかやろか?」
テーブルの上を片付けたらしい葉佩が、そう声を掛けてきた。気が抜けるほど普通のやりとりだった。
「いい、座ってろ」
この男は、遺跡と武器から離れたところにあるときには人並みだ。だから、皆守は勘違いしそうになる。おまえも実は、俺と同じ愚かな羊なんじゃないかと勘違いする。そして何度も振り切られる。
皆守は泥に足を取られているのに、葉佩の足はいとも簡単に抜けていくのだ。
愚かであってくれ。
そして、この自分本位の祈りが叶わないままであってほしい。
「いまの人、なんかいい香りしなかった?」
皆守が離れたとたんに、女子生徒が友人らしい生徒に話しかけるのが聞こえた。皆守は苦い顔になる。アロマはこのところずっと吸っていないのだが、長く愛用した香りは折に触れて香るらしい。
「え? このアロマオイルの匂いじゃないの?」
「違うって、これ、なんだっけ? ほらこれ、オレンジじゃん、もっと違う感じのだよ」
「はあ? 分かんない。どんなの? 香水?」
「えー、詳しくないから知らないけど、なんか……渋い? 感じ」
「煙草じゃない?」
「え、煙草なのかな」
言いたいことが三つ四つある。
だが、今の皆守には女子生徒たちの雑談に割って入る権限はなかった。
少々うんざりした気分で、教室の前面にあるホワイトボードを見つめた。『せっけんからアロマキャンドルを作ってみよう』とよれよれした字で書かれている。おまけに右下がりだ。
こんなありさまで、高校生はうちの大学を志望校にするんだろうか?
大学の学園祭というものに皆守は行ったことがなかった。東京にいたのだし、浪人しているときにいくらでも行けたはずなのだが、どんなイベントなのかよく理解できず、何が起きるかも知らないので行こうと思う動機がなかった。オープンキャンパスなら一、二校行くかどうか検討したことがあるが、学園祭は検討すらしたことがない。
高校生も来るんだな、と大学一年のころの皆守は感心したものである。
いまは修士一年、学士を去年取得したばかりの皆守はそのまま同じ大学の院に入ったので、教授陣にいくらか顔が利くようになった。それは逆もしかりであり、人員不足のイベントに引っ張られる機会も多くなる。断れないボランティアほど疲れるものはない。
数ヶ月前には、まったく関係ない物理科の助教が研究室に飛び込んできたかと思えば、「ここ、スピーカーありませんか?」と言われた。シンポジウムをやっているのだがスピーカーが壊れたか何かして、小さいものでもいいからとにかく貸してほしいというのだった。
あのときも、研究室にいたのが皆守と博士課程の学生と准教授で、皆守が一番下っ端だったので案内と配線係をやらされた。
そしていまはTAのボランティアをやらされている。
ホワイトボードをねめつけた。
せっけんからアロマキャンドルを作って楽しいか?
テーマを決めたのが誰なのか気になるところだが、工程に火を使わないので比較的安全だという配慮だろうことは確実だった。
ホワイトボードには、テーマの下に脂肪酸ナトリウムに塩酸を加えて脂肪酸と塩化ナトリウムを得る化学式が書いてある。
どう考えても、生命科学専攻の皆守が呼ばれるテーマではないのだが、三日間ある学園祭をカバーできるだけの人材を化学科だけでまかなえというのも非道な話である。メインの進行役を任されなかっただけましだ。
理学部だけで学園祭にいくつかの展示と講演をもっているが、この催しがもっともカジュアルだった。参加者の知識の多寡を問わないし、小さなキャンドルだが土産もできる。
皆守はすでにこの催しのサイクルを二度経験しているので、参加者がどのタイミングで何の作業に詰まるのか予想がつくようになっていた。おまけに、学園祭三日間の日程中の真ん中である今日最後の回、参加者は少ない。キャンパスは消して狭くないといっても、イベントの最後の時間まで居座ろうというケースは稀だろう。残っているのは、大学の学生たちばかりになる。
昼前後の回がもっとも混むのだったが、そのときに比べれば半分以下しかいない。皆守は実験室の後ろから、全体を眺めた。
せっけんをおろし金で細かくしているあいだは安泰だ。この作業で怪我をしてしまうような年齢の参加者はいないし、せっけんは柔らかいので無理して刃を滑らすこともそうそう起きない。
だから皆守はぼうっとしていて、周囲に気を配っていなかった。
「すーいません」
妙なイントネーションだったが、声を掛けられた。皆守はこの催しを面倒だとは思っていたが、まるきり嫌だというわけでもない。呼ばれて嫌な顔をする立場でもなく、すなおに声のした机に目を向けた。そして言葉を失い、しばし黙ったまま目を皿のようにして相手を観察してから、ようやくすたすた近寄って小さな声で言った。
「何してんだ、おまえ」
「皆守んちに行ったらいないから。大学かなと思って遊びにきてみたらなんかやってた」
けろっとした顔で答える男の顔は、もうティーンでは通らない。葉佩は真夏のような焼けた肌をして、ひとりで実験室の机に向かっていた。
真面目くさった表情を浮かべ、皆守をからかうつもりでも何でもないらしかった。ただ、仕事が落ち着いて、皆守と会えるかと思ってここまで来たわけらしい。
四捨五入して十年近く付き合ってきているから充分に理解できるのだが、皆守の立場からすれば、面はゆいという程度を大きく超えている。
「うち来たのかよ。いつ」
「昼前くらい」
「もしかして、俺に連絡したか?」
「したした。でも、返事なかったしさ」
確かに、皆守は昼は化学科の院生と食事に出ていたし、それ以降はずっとここにいる。携帯電話を確認する暇はなかった。何度かマナーモードで震えた記憶はある。しかし、最近は研究室のメーリングリストやメールマガジンなどの、いつ確認しても問題ないような連絡ばかりだったので気にしていなかった。
皆守は短く息をついて、葉佩の顔を見た。さっぱりした男の顔は、最後に会ったときとほとんど変わっていない。喉仏から脈打つ魂を感じた。
久しぶりに会う顔に言いたいこともしたいこともあったが、今はできることが限られていた。
「そりゃ、悪かったな」
「いやべつに。んでさ、皆守、これ、ちょっと割れちゃった。いい?」
皆守と話をするために呼んだのかと思いきや、きちんとこの催しの参加者としての質問もあったらしい。
皆守が葉佩の手元を覗き込むと、プラスチック製のおろし金の端にひび割れがあり、わずかに欠けている。何年かずっと使われているものだろうから、経年劣化だろう。欠けている部分で怪我をしそうだ。葉佩が使った後はお役御免だな、と思った。
「後でよけとく」
そう言いながら、皆守は葉佩の成果を見た。せっけんはおろし金で細かくされきっていて、ビーカーの中で小山を作っている。
「もう、いいか。おろし金は俺がもらっとく」
「うん」
欠けたおろし金を持って、実験室の前方へ歩く。なんだ、という顔で同じTAの学生が皆守に目を向けた。
「欠けてる」
皆守は小さな声で言って、おろし金の端を見せる。向こうも納得した顔で頷いた。
「あの机、皆守の知り合い?」
「……まあ」
「知り合いにまあも何もなくない? はいかいいえじゃない?」
言われていることは正しいのだが、皆守は素直にはいと言えない。どうも、「知り合い」とだけ言われると反発がある。
「はい、みなさん、よろしいですかあ?」
メインの進行役の声が響いた。
「これから、机にひとつずつ、えーと、ビーカーをお配りしまあす。このビーカーの中身はあ、塩酸、塩酸なので、気をつけてくださァい。で、それで、万が一、零してしまった場合は、すぐに近くの学生に声をかけてください。また、もし素手でさわってしまった場合は、すぐに、机のすぐ横の水道で流水にあててください」
前半は間の抜けた話し方なのだが、後半の注意事項は抜け漏れがあってはいけないので、カンニングペーパーを読んでいる。あからさまに「読んでいる」話し方になるのがほほえましかった。今回、進行役は学部の三年生が務めている。
基本的に進行役は学部生だった。参加者の多くは高校生か、学内の学生である。年嵩の院生がやるより、歳が近い学部生が進行するほうが「授業」らしさが薄れる。
皆守とあと数人のTAで塩酸入りのビーカーを配る。さっき話したTAが皆守に気を遣ったのか、葉佩のいるエリアを顎で指した。皆守が行っていい、ということだろう。
別にビーカーを配るくらい、と思いはするのだが、ほぼ毎日顔を合わせられるような仲の相手ではない。彼は明日も日本にいるのかすら分からないから、例えビーカーを配るだけの短い時間でも身内に火花が散るような感覚があった。
「おっ、これがおれの塩酸」
葉佩の机にビーカーを置くと、彼がそう言う。思わず笑った。
「塩酸とはご無沙汰か?」
「ご無沙汰だね。本拠地になるような安定した場所がなかったからさ、薬品はちょっと」
「つかの間の再会を味わえよ。すぐになくなる」
「おお……おれの塩酸……」
芝居がかった言い方に、皆守はまた口元を緩めた。
担当するエリアすべてにビーカーを置いて、皆守は葉佩の机の後ろに立った。ここにいると室内を見渡せる。葉佩は高校生たちに遠慮して、教室のすみの机を使っていた。
進行役が、説明のためにビーカーを持ち上げた。
「ではあ、次にこの塩酸を、さっき細かくしたせっけんが入ったビーカーに、そっと加えてください。少しずつ入れましょう。で、えっと、少しずつ塩酸を加えながら、配っているガラス棒で、かき混ぜてください。勢いよく混ぜると、はねてしまうので、ゆっくりやります。塩酸をすべて入れてぇ、白く濁るのが落ち着いたくらいよく混ざったら、放置します。混ぜているときに、ロウのようなものが浮いてきますが、これはあ、問題ないので、そのまま、続けてください」
薬品を扱わせるときが一番緊張する。
初日に小学生が来ていて、近くに控えていたTAは小学生の一挙一動におどおどしていた。まるで、幼い息子や娘が初めて包丁を握るのを横で見ている親のような有様だった。しかし、その気持ちは理解できる。
葉佩は手慣れているのでともかく、理科の実験から離れて久しい大学生も危ない。
今回はみな慎重だった。いいことだ。ずっとこういう参加者ばかりであってほしい。
進行役は実験の説明を続け、皆守は実験室全体を眺めた。
皆守が担当しているエリア全体の様子をうかがうことが役目だが、どうしても、葉佩の動きに目が行きがちになる。彼が作業らしいことをしているのを眺めるのは久しぶりだった。天香以来に会うときはたいがい、食っているか話しているかばかりだ。
男女の恋人同士で来ている机もあった。女性側が手慣れているので、理系が専攻なのかもしれない。二人とも真剣な目をしている。
高校生の机では、塩酸を注ぐときにああでもないこうでもないと話していたが、慣れてくると作業者以外の生徒もじっと作業の手元を見つめている。
皆守は目をゆっくりと閉じ、またゆっくりと開いた。
視界の中に、葉佩がいる。塩酸を注いで分離したロウの成分を、ガーゼの布で漉している。成分を漉すというのは彼の職務の中で、頻発するほどではないが有り得る仕事だったからか、ためらうような動きが一切なかった。
もう一度目を閉じ、開く。
葉佩の手が乾いた布を手に取り、銃身を拭いている。細かい隙間に詰まっている煤を拭き取り、余計なオイルをぬぐった。ワイヤーロープにほつれがないかどうか確認して、ていねいに巻いている。
皆守は、それを後ろから見ていた。埃と砂、そしてわずかに建物全体に残る黴の匂いがあるベッドの上だった。板張りの上にマットレスを敷いている寮のベッドは皆守の部屋にあるものと同じはずだったが、匂いが違った。
皆守は葉佩の動きを眺めて、アロマパイプをくわえていた。唇でパイプの口をなぞり、乾いた草花の香りを吸い込む。そのとき、皆守はかたわらにいる葉佩の漂わせる開放の気配も吸い込んでいた。
開放の気配は皆守の閉めきった部分に爪をひっかけて、しょっちゅうドアに傷を作った。その傷が痛むときというのは、皆守が葉佩の血を思い、土の湿り気を思い知るときだった。
また目を閉じる。瞳がじわじわとやわらかくなった。まぶたを持ち上げた。
葉佩はビーカーをミニサイズのホットプレートに乗せて、あたためている。ゆっくりとあたたまっていくビーカーの中では、ロウの成分が分離して浮く。
男女の机でも同じことが起きている。ビーカーの両側から、二人でビーカーの中を覗き込んでいた。近づきすぎるというほどではなかったので、皆守は彼らのこともただ眺めるだけにした。使っているのが火ではないが、突沸の危険がある。
高校生のテーブルは、思い思いに感想を話している。なんでだろう、とか、おお、という雑談混じりの声が耳に触れる。
これを眺めている皆守には、何も事件は起きない。何もない。だが、役割として立っているというだけでは説明のつかない前向きさで、皆守はこの実験室を見つめていられた。
葉佩がいない今までの回でも、忙しい回も、もっとあれこれ言いつけられるような回も、皆守はこうして見つめていられた。
疲れるが、嫌ではない。だが、楽しいというのでもない。
かつて、あの狭い寮の一室、皆守は葉佩の仕事を眺めていた。それに、葉佩も皆守が食事を作る後ろ姿を、何もせずに眺めていた。イベントも会話もなくても、何も利益なんてなくても、何も楽しいことなんてなくても、ただ眺めていた。
自分以外の人間が、目の前のことに集中する背中、横顔、目線、それらが詰まったワンシーンは、自分ひとりでは見ることができない。
自分以外の誰かも、何かを営んでいる。
あたためたビーカーの中で分離したロウだけを型に流し込み、たこ糸の芯を入れ、固まりきる前にアロマオイルを垂らせば終わりだ。
葉佩はそのターンになって、テーブルの上にあるオイルの瓶を皆守に向けて揺らした。顔が笑っている。
アロマオイルは複数種類があって、実験が始まる前に中央テーブルから好きなものを選んでくることができた。
皆守は葉佩が手に持つオイルを見て、口の動きだけで「いい趣味だな」と言って目尻で笑ってみせた。
「あっ、あの、すみません!」
高校生のいる机から声が掛かった。皆守は「はい」と返してから、机に近寄る。皆守は背が高すぎるということはないが、顔つきが柔和ではないという自覚があるので女子生徒から少々離れた位置で立ち止まった。
彼女たちは慌てたような口調で、皆守に話しかける。
「この、オイルって、どれくらい入れたらいいんですか? 入れすぎたら、失敗しますか?」
「心配するほどどばっと出るような瓶じゃないので、大丈夫です。ロウの量によりますが……二、三……四、滴くらいで充分です」
「あ、ありがとうございます」
それから彼女たちは瓶の蓋を開け、「あ、ほんとだ」などと言う。
皆守は彼女たちの机の後ろに立ったまま、念のため様子を見ていたが、うち一人の生徒が「あ、ね、分かったんだけど」と言い出した。
「え、なんの話?」
「さっきの、あの人、煙草じゃないわ。あれだ」
「なに? そういや、そんな話したね、忘れてた」
「ラベンダーだ。修学旅行で北海道のラベンダー畑行ったじゃん。あのときのポプリの匂いじゃね?」
「あ、分かるかも。そうかも。ていうか、うち、あのポプリもう匂いしなくなったんだけど」
「え! うちも。あのさ、思ったんだけど、このオレンジ、なんかオレンジジュースの匂いしない?」
「ちょっと貸して……そうだわー、これ、オレンジジュース。駄菓子でさあ、粉で、水入れてオレンジジュースになるやつあったじゃん。あれっぽくね? 変えてもらう?」
「えー、じゃあラベンダーにしようかな。でも、もう瓶、残ってなくない? 片付けられたっぽくない?」
ずいぶん親しい仲のようだ。会話が二転三転しているのに、彼女たちの中では混乱が起きていないらしい。皆守は、煙草の疑いが解けて何よりだ。
この段階になって、アロマオイルを変えたいという要望はたまにある。選ばれなかったオイルの瓶は進行役のそばで管理しているので取りに行くか、と思ったところで、予想していないほうから声が聞こえた。
「ラベンダーお探しですか? これ、おれはもう終わったからどうぞ」
「え! ありがとうございまーす」
高校生たちの机に、第三者がラベンダーのアロマオイルを置いた。そのまま長居せずに、礼だけ受け取ってにっこり笑いながら自分の机に戻る男は皆守をちらと見た。
そして、彼は笑う。皆守も彼と目線を合わせて、息を漏らして笑った。
さまざまな香りが混じった実験室の空気を入れ換えるために、誰かがドアと窓を開けた。ざっと風が吹き込む。
他のテーブルから一足遅れて、女子生徒たちの机はラベンダーのアロマオイルの蓋を開けた。
濃いラベンダーの香りは風にのって、みずみずしさを失わないままに皆守の元に届く。
皆守は顔を寄せ合ってロウにオイルを垂らす彼女たちの横顔を見て、実験室全体を見た。誰もが、このわずかな時間に作り上げたキャンドルを見つめている。その姿を、皆守は見た。
葉佩も、自分の作ったキャンドルを見ている。
彼のキャンドルは、芯のたこ糸が他よりほんの少しばかり、長かった。