あこがれ


 理工学部の学部生は三年の下期になると研究室に所属する。それを知った一般教養の授業で親しくなった国文を専攻する友人は、「かっけえ」と言った。「理系は全員そうなんだ。かっこいいも何もあるかよ」と皆守は答えたが、彼は「いいなあ」と言って、意見を改めなかった。

「研究室に所属するってさ、研究の最前線にいますって感じすんじゃん」
「学部生だぞ……」
「かっけえ」
「そうか?」
「俺は消極的文系だからさ、理系のやつらがうらやましいんだよな」
「消極的? ……ああ、苦手だったのか」
「そう。数学ができねえから、理系はムリだったの」

 皆守の前で妬ましさを隠しもしない友人が可笑しかった。

「なに、笑ってんだよ」
「たいてい、そういうこと言うやつは数学のこと、嫌いだって罵るもんだからな」
「嫌いじゃねえし。できなかっただけで」
「理系に進みたかったのか」
「ずけずけ聞いてくんじゃねえよ」

 叱られたので、皆守は黙って、中身がとろけて固体がないカレールーをライスと一緒に口に運んだ。大学の学食のカレーは、素朴で旨い。
 何も堪えちゃいないが、向こうが話のレールを敷いたから聞いたほうがいいかと思っただけなので、釈然としない気分だった。けれども彼のほうも、釈然としない顔をしていた。
 横の男はもう昼食を終えているが、だらだらと居残っている。次の講義がないのだ。

「今日の日替わりトッピング、なんだった?」

 出し抜けに、彼がそう尋ねた。

「ハムカツ」
「へえ」

 学食はカレーは一種類だが、プラス五十円でトッピングがつく。それが日替わりなのだが、ほとんどが揚げ物だった。

「研究室、いつから?」
「これから」
「今日ってこと?」
「そうだな。午後から顔合わせ」
「なんだ、言えよな。俺、邪魔したじゃん」

 慌てた言い方だったので、皆守には意外だった。横を見ると、彼はふてくされた顔をして、自分のリュックについているチャックを手遊びに揺らしている。リュックは中途半端に開いていて、教科書が入っているのが見えた。サイドポケットには半分まで減ったミネラルウォーターが入っている。
 皆守はカレーの最後のひとすくいを食べ終えて、スプーンを置いた。

「研究室で面白いことあったら教えてやるよ」
「えッ? マジ? 楽しみにしとくわ」
「だから、お前も俺に教えろよ」
「俺がお前に教えられることなんてねーよ」
「あるだろ。よその学科の必修は点呼があって、潜り込むこともできないんだぜ」
「は? なに、国文の?」

 皆守は開いているリュックを指さした。それから、トレイの上のごみをまとめて、片手に握りこむ。立ち上がって、彼に言った。

「崩し字。読めるようになりたかったんだ、コツ教えてくれ。知りたいことは、知れたほうがいいだろ」

 自分が研究職に向いているかと言われたら、まあ向いているほうだろうと思う。皆守は、自分が試行錯誤を重ねる凝り性であることを自覚している。だが自分の知りたいことを突き詰めたい一方で、知らないことをより多く知りたいのも事実としてある。

 国文科の学生は、はにかむように笑った。

「おう、俺と一緒に悩もうぜ」
「教えろよ、国文科」
「むじぃよ! パターンやべえもん」

 皆守は彼につられて笑った。
 彼のはにかみは、自分の専攻へのかすかな誇りであるように見えた。

「じゃあ、俺は行くから」
「ん、研究室頑張れ」
「俺は第一印象が悪くなりがちだからな、気を付ける」

 彼はハハハと笑って、皆守の言葉を否定しなかった。
 気楽なところで雑談を交わしていたいのはやまやまだったが、皆守には行くべきところがあった。学食の指定箇所に食器を返して、建物を出る。九月中頃は、まだ残暑が厳しかった。底からうなるような蝉の声が聞こえる。皆守は木陰を伝い渡るようにして歩き、構内の奥まったところにある学部棟に入った。

 皆守の所属する研究室は理工学部A棟の4階にあった。研究室の希望をとるオリエンテーションのときに見学したので、場所は知っている。
 学部棟は皆守が入学する数年前に建て直されて、つるりとした豆腐のようになっていた。エレベーターを待ち、乗る。皆守ひとりだった。

 エレベーターの中に貼りだされている連絡事項たちの端がめくれている。その中に、きっかりラミネートされているのがあって、大きく「液体窒素・液体ヘリウムとの同乗禁止」と書かれている。エレベーターホールにもある張り紙で、理工学部の学生には見慣れたものだった。液体窒素などは常温で気化して体積が増えるので、エレベーターの密室に近い狭い空間では酸欠になる可能性がある。エレベーターも換気設備があるが、空気中の窒素濃度が一気に増えると追いつかないだろう。何しろ液体窒素は、気化すると体積が約700倍になる。
 これは文学部の学部棟にはない張り紙だろうから、教えてやったら喜ぶかもしれないと思った。同じように、文学部の掲示板には理工学部の掲示板にない張り紙があるに違いなかった。

 エレベーターが止まって、皆守は降りる。エレベーター待ちの学生がホールにいて、皆守と入れ違いに乗り込んだ。
 壁越しに学生や教員、管理者に研究者のざわめきが聞こえる。機械の動作音、空調のファンが回る音は、もう皆守にとっては環境音であり、気にならなかった。

 そして、知っている部屋の前に立つ。提げられた看板で部屋番号を再確認した。ドアには「在室」「授業」「帰宅」等のマグネットで、在室している人間が分かるようになっている。「授業」になっている名前が二つあるほかは、六人が在室になっていた。皆守の名は、まだここにない。

 ドアを開けながら、挨拶を考えていないことに気づいた。口から出てきた言葉を、そのまま言う。

「失礼します」

 部屋にいた人間たちが全員、皆守に顔を向けた。今までの学生生活でもっともよく知っているのはここのボスたる准教授の顔で、あとは事務室で顔を合わせたことのある助手、オリエンテーションの案内をした院生たちと学生、一度に顔を見ると混乱する。
 彼らはまだのんびりと昼食をとっていて、二人が弁当を広げていた。

 皆守は、背後でドアを閉めた。

「え、もうそんな時間?」
「マジだ。1時だわ、ヤバい」
「今年何人でしたっけ、二人?」
「二人二人! もう一人は三限あるらしくて、午後イチは彼だけだよ。だから、ええと」

 事態を一番把握しているのは助手の男で、箸をくわえながら雑多な机の上で手をさまよわせた。
 無言で突っ立っていることもできず、皆守は口を開いた。

「お世話になります、皆守です」
「ミナカミくん?」
「……はい」
「あ、先生! 名簿こっちですよ」
「ありがとう。……あ、ええと、皆守くん。これミナカミって読むのか。ミナモリくんかと思ってたな、ごめん」
「いえ。よく言われます」
「皆を守る、かっこいい名前だよね」
「ねえ! 前に俺の買ったヤツどこ置いた? 今日出そうと思ってたんだけど。誰か食った?」
「買ったヤツ? メモしとかなきゃ食べられちゃいますよ。お菓子ですか?」
「はいはい、ちょっと静かにして。……それじゃあね、どこでもいいからそのへん座って。皆守くんのデスクはあの、窓から二番目のところだから、荷物置いちゃって。ごめんねバタバタしてて。ここ……今から空けるから」
「はい」

 来るのが早かっただろうか。
 バタバタとせわしない横を通って、皆守は指定されたデスクまで歩いた。デスクはわずかに使用された程度の傷しかなく、しっかりとしている。書類を立てかけるラックと、中身が空のクリアファイルが置かれていた。
 大学に入ってから自分の机とは存在しないものだったので、自分の領地を与えられたような気になった。
 新しい場所で、新しい環境だった。それに立ちすくむより、浮き立つ心がある。

「パソコン、申請したけどまだなんだ」

 横から、ゆっくりした声で話しかけられた。顔をそちらに向けると、この研究所の主が笑っている。

「……パソコン、ひとり1台なんですか」
「うん。来週来るらしいからちょっと待ってて」
「分かりました。……あの」
「皆守くんでしょ。面談もしたしね、もう挨拶なんて堅苦しいのはいいよ。だって皆守くん、去年下期の演習の成績、優でしょ」
「え、……はい?」

 准教授が笑う。まだ四十にもならないが、彼は准教授の立場にいた。若いので学生との交流も深いほうといえるが、皆守は研究室選択の面談以外で彼と会話した記憶がなかった。

「下期の演習、成績評価がレポートだったでしょ。僕が皆守くんの採点担当だった。僕、皆守くんの成績、優にしたよね?」
「……そうだったと思います」
「ストイックで脚が長いな。1年浪人だっけ」
「え? はい」

 脚が長いというのは何に関係するんだ。
 演習の授業は学科生必修で、典型的な実験演習とレポート提出をするだけだった。応用的な内容が入り込む余地もないし、出席とレポート提出を怠けなければ優の成績をとることはたやすいはずだ。筆記テストもない。

 困惑した顔を浮かべては失礼かと思ったが、こらえきれない困惑が皆守の顔に出たのだろう。准教授が笑って、

「皆守くんのレポートは、成績がつけやすくてよかった」

 と言った。何を褒められているか分からなかったが、彼は研究室選択の面談前から皆守のことを一人の学生として認識していることは理解した。貶す話し方ではないから、彼としては真実、褒めているのだろう。
 皆守は苦笑いして、彼に答える。

「そんなに持ち上げないでください。これからヘマをする予定ですから」
「はは」

 これからヘマをする予定なのは本当だ。皆守は自分のことを、視野は広いほうだが予期しない事態に弱いと思っている。対人関係はすべての瞬間に臨機応変な対応が求められる。近いうちに下手を踏むだろう。研究室という狭い人間関係では、終始穏やかというわけにもいかないだろうし、それを思うと気が重い。

「皆守くん、もういいよ、こっち来て!」

 出入り口付近から、そう呼ばれた。顔を向けると、広げられていた弁当が片付けられて、菓子盆が中央に置かれている。
 菓子盆なんて、研究室にあるものなんだな。
 皆守はそう思った。何しろ、研究室というものが初体験だった。

「行こうか」
「はい」

 准教授にも促されて、二人で移動する。菓子盆を囲む学生たちは、それを待っている。




 当たり前のように学生としての生活を重ねていると、自分に驚くことがある。

 俺ってこんなことできたんだな。

 小さなコミュニティに入っていくことは、今までなかった。部活動も所属していなかったし、アルバイトもしなかった。所属したうちでもっとも小規模だった集団は天香の《生徒会》だったが、ほとんど幽霊だったから勘定に入れられない。それ以外は高校のひとクラスに所属したのが最小規模といえるくらいだった。

 小さな集団に入っていって、挨拶を交わし、人と決まりの紹介を受ける。
 初日だから、他メンバーの顔と名前が一致しなくたっていいし、決まりを忘れたり、ドアの在室表のマグネットを移動し忘れてもいい。しかし、それが許されるのもせいぜい一ヶ月だろうか。
 そのカウントダウンを大きな集団であれば無視できた。でも、皆守の割り当てられる担当範囲が広くなる小規模な集団では、無視できない。そのことが皆守にプレッシャーとしてのしかかるが、決して巨石ではなく、厚い毛布程度に感じた。
 天香學園に通っていたときの自分にとっては、同じプレッシャーの重さもきっと巨石のように感じただろう。それが毛布と思えるほど、皆守はプレッシャーを抱えて立つことができるようになった。

 嘘みたいだよ、と思っている。
 そう思ってるのが俺だなんて、嘘みたいだ。
 思うばかりで、誰かに話したことはない。皆守には、そういうごく個人的なことを話す相手が少なかった。

 八千穂は、大学にストレートで入学して、今は就職活動に追われている。忙しそうだが、充実している様子だった。年始の挨拶メールは届くが、それ以外のやりとりは年々少なくなっている。皆守が用事があってメールすれば、クラスメイトだったときと同じ熱量で返ってくるから、決して疎遠になったわけではない。男女の関わりの差が、年をとるごとに大きくなるだけだった。

 夕薙は身体の調子が許す限り、ほうぼうを訪ねているようだ。インターネットが届かない地域にいることもあって、こちらからの連絡に対して一週間以内に返信があればいいほうだった。たまに、写真だけのメールが届く。
 一番、関係が続いているのは黒塚だった。彼とは同じクラスでこそなかったが、皆守が大学に詰めているのと同じように彼も研究に詰めているから、連絡を取り合う機会が多い。それでも、お互いの研究分野の無駄話や豆知識、ぶつくさとした愚痴などを交わしている時間が多かった。心情を吐露するより、興味のあるものについて語り合うことに価値の傾きが大きい関係だった。

 だからいつも、皆守は頭の中にだけいる葉佩に話しかける。
 高校三年のたった三カ月、ともに過ごした。時間が経っていろんな記憶が霞がかっていくのに、彼にまつわる記憶だけ触れるようなくらい近い。

 卒業式に戻れよ、と半ば笑い交じりに伝えた言葉は現実にならなかった。八千穂と皆守がそう望んだだけの希望にすぎないから、それで葉佩の印象が悪くなることはない。
 来なかったな、と思うだけだった。
 八千穂も残念がったが、人前ではあからさまに落ち込むことをしなかった。皆守もそうした。

 彼が天香にいたときにメールを交わしていたアドレス宛てにメールすると、宛先不明で戻ってくる。彼の居所は分からないし、無事でいるのかも知らない。
 だが、いま皆守が知らないのは、彼の肉体の居所にすぎなかった。

 皆守は、薄くなった鞄を抱え直した。研究室に自分のデスクがあると、教科書を置いていられるのが助かる。専門書というのは重たくて仕方ない。隣のデスクに座るのは四年の学生で、「皆守くんが四年になったら教科書あげるよ」と言われた。専門書は重たいがそのうえ高いので、とても助かる。

 なあ、九ちゃん。俺は今日、名前を褒められたよ。

 いつもなら環状線に乗っていく夜の道を、一人で歩いた。すぐ横、柵の向こう側に線路がある。運行間隔が狭いから、何度も電車が追い越した。レールのつなぎ目で揺れる電車を、横目で見やる。こうこうと明るい車内には、乗客が大勢いた。独特の余韻を残して、電車は皆守の視界から消えていく。
 自分の行く道が線路に近いとき、電車が通ると引き付けられるように風が吹いた。それに抗い、皆守は電柱の下を歩いていく。電柱一本につきひとつ、電灯がとりつけられていた。皆守の影は長くなり、短くなり、また長くなる。

 それに、勉強にストイックそうなんだってさ。笑っちまうよな。

 葉佩はストイックな男だった。自分の職務に真面目で、自分の職務でないところも真面目だった。彼は教室にいる時間が長かった。あいつは、成績なんてどうでもよかっただろうに。
 けれども、葉佩が教室にいる時間が長いと知っているだけの時間、皆守も教室にいた。いまは一人だ。
 葉佩と共にいた時間よりも遥かに長い時間、皆守は一人で授業に出席しつづけていく。

 視界の先がひときわ明るい。歩いていくうちに、駅にたどりついたようだった。電車がホームに止まっている。人々が降り、人々が乗り込む。
 皆守は高架を一度くぐり、駅の改札に定期券を通した。人の群れの一員になり、流れを作るひとつの粒になる。改札口から通路を行き、ホームに下る階段を下りた。ホームをしばらく歩いて、階段から離れた位置で立ち止まった。それでも、すでに六人ほどが次の電車を待っている。

 皆守は携帯電話を開いた。新規メールを作成する。帰りがけに撮影した写真を添付して、短い文と一緒に送信した。

 電車が到着した。アナウンスの後に電車が走ってきて突風を起こす。乗り込んだ。電車の中は空調が効いていて、涼しい。
 座って舟をこぐスーツ姿の男性、塾のロゴが入った鞄を背負う小学生、制服を着崩している高校生たち、スーツケースを引く集団、その中に、研究室所属初日を終えようとしている皆守が混じった。

 数分電車に揺られると、ポケットの中で携帯電話が震えた。開いて、新着メールを読む。

『液体窒素ってそのへんにあんの!?すげー!』

 どんな勢いで言っているか想像ができた。彼のあこがれに、彼はきっと手が届かない。彼はもう違う道にいて、その自分の道はすでに彼の誇りの一部だからだ。
 皆守は返信を打ち込む。打ち終わってから二度読み返し、送信した。

 なあ、九ちゃん。明日も俺、大学に行くんだぜ。これから上手くいかないことがあるだろうが、それでも俺は行くと思うよ。断言できたら格好つくんだがな。

 皆守の借りているワンルームの最寄り駅は、各駅停車しか止まらない。皆守は一度電車を降りて、各駅停車を待った。
 同じように電車を待つ横の女性は本を読んでいた。もしかしたらアナウンスがあって電車が突風を起こしても気がつかないんじゃないかというくらい、彼女は真剣な目をしていた。

 明日も皆守は、一人で電車に乗る。葉佩と違う場所で、葉佩と違うものを目指して、葉佩と違う時間に、活動を開始する。
 皆守の中で、葉佩が応えた。

 おい、皆守。早く来いよ!

 ああ、行くよ。九ちゃん。

 たどり着かない、たどり着けないどこかに少しだけ、あこがれを抱いて人は毎日を過ごす。



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