猿真似


 墓地に侵入している生徒がいると聞いてはいても、その現場を確認もしないうちに実力行使には出ない。そうしてもいいというなら、皆守としては排斥するにやぶさかではなかったが、校則を守る者である限りは無法者になることは許されない。

 皆守は影に紛れるようにして墓地を離れた。
 一人、夜の墓地に入っていることを武勇伝のようにひけらかす生徒がいる。繰り返すようなら皆守が鉄槌を下さねばならなかったし、気が大きくなった高校生の世迷い言だというなら灸を据える程度で済ましてやる用意があった。皆守は部活動に所属していないこともあって、低学年にしては動きやすいので夜は彼か、阿門の縄張りだった。
 ここ数日、墓と寮を同程度の厳しさで見張り続けているが、噂の生徒は降りてこない。もし一度の遊びだとしても、《生徒会》の目を逃れて墓地に出入りするのは至難の業だ。あと数日続けて、出くわさなければまずは警告だろう、と皆守は今後の予定を立てた。どこまでが自分の担当になるかは分からないが、数日の見張りは自分の仕事となるだろう。

 授業に出るのは億劫だが、夜の墓地には出て行けた。夜は朝よりも、皆守を気楽にする。
 日が落ちてから寮の自室を出て行くのは、皆守の手足に通う血液に針金が通って歩いていくかのような心地がする。身体が磁石で動くのに、頭は冴えていられる。名前の分からない虫の声が、耳鳴りのように聞こえるのだけが不快だ。

 あと一、二時間で日が昇る。夏至を過ぎてだんだんと日の出が遅くなるはずだが、初夏では変化を感じられない。

 今からベッドに戻るから、明日は朝食と呼べる時間に起きられるか分からない。
 当たり前のように、明日、と考えていたことに今さら何を、と思う。まだ自分の本分を理解しきれていない部分が皆守の中にもあって、そういう部分が名残惜しむように染み出ることがある。明日、一時間目に間に合わないのではないかとか、次のテストが心配だとか、そういう生活から離れたのは皆守のほうだ。往生際が悪い。阿門の誘いに乗ったときに決断したつもりだったのに、皆守の人間の部分が、人の生活を惜しむ。
 そこから落ちたのは、自分自身だろうに、と思うと笑えた。

 墓守小屋の横を通り過ぎ、黒い影の層が重なる空き地を眺めながら歩いた。夜風は冷たく湿っている。あと一ヶ月もすれば、鬱陶しく肌にへばりつく蒸し暑さだろうが、今はまだ心地よかった。
 そんな夜だというのに、誰もいない。それがこの學園の正しい姿だった。夜を選んで歩いていくのは、土の底で蠢く墓守ばかりだ。

 そんなところに、うっすら光るものが動いた。なんだ、と目が引かれる。立ち止まって、動いたものを見た。

 茶色の皮を脱ぎ捨てようとしている蝉の幼虫が、空き地を仕切る柵にへばりついていた。
 殻はすでに抜け殻で、乾いて硬くなっている。そのかたわらに、豆の薄皮のような色をした蝉がじっと止まっていた。豆の柔らかな色が残っているのは羽だけで、体の部分はもう茶色になりはじめている。羽化して数時間経っているのだろう。けれどもまだ、全体的に透明感があり、両目が黒いビーズのように見えた。しっとりと湿り気がありそうなふくよかさがある。

 皆守は立ち止まったまま、その蝉をじっと見つめた。あんまりここに長居していると寮から見えるかもしれないと思ったが、足が留まり続けた。

 蝉はどこを見ているかわからない目で、皆守を見つめ返す。
 殻を脱ぎたての弱々しさは、ゆっくりと消えていく。体はどんどん黒くなっていき、瞳が埋もれて目立たなくなっていく。まもなく飛んでいくだろう。

 そう思ったら、足が動いた。
 蝉が飛び立つところを見送らないまま、皆守は寮に入った。まぶたが重たくなってくる。空の端は、朝の気配を察して白っぽくなっていた。この學園はもう、自分の縄張りではなくなる。

 空室の前を通り、自分の部屋に戻った。もう手慣れた動きで鍵を下ろし、そのままベッドに横たわった、シャツを脱がなければ、と思ったが面倒だ。制服のスラックスだけ、ベッドの上で脱ぎ落とす。そして薄手のケットを頭までかぶった。

 まぶたの重たさに任せて目を閉じた。
 まどろみの中で、蝉が身軽そうに飛んでいた。自分は深い土の底から、それを見上げている。遠くに聞こえる蝉の声が、耳鳴りのように皆守の頭に響いた。



「皆守! 皆守皆守皆守ッ!」

 鍵穴にごつんごつん鍵をぶつける音がしたので、何かあったんだなとは予想していた。ドアが開かれるなり、葉佩の声が皆守を呼ぶ。浮ついた声だったので、悪いことではなさそうだった。

「なんだ。いま手が離せない」

 悪いことでなさそうだからそう答えた。緊張感のある切羽詰まった声だったら、皆守は別の答えを返す。

「ちょ、待って、靴が。あァッ」

 玄関から大騒ぎが聞こえる。耳だけで聞いて笑う。
 部屋のキッチンは廊下にへばりついていて、すこし背中を傾ければ玄関の様子が見えた。皆守は火を止めて、葉佩の様子をうかがった。彼は両手がふさがっていて、けれども靴はきっかりとしたブーツを履いていたのでじたばたしている。たいしたことじゃないな、と判断してまたキッチンに向き合った。
 揚げ物をしている最中だったので、手が離せない。まだ油跳ねを続けている鶏肉と野菜を竹箸で取り上げていく。キッチンペーパーを敷いた網皿の上にひととおり並べて、ようやく葉佩の様子を見た。

 彼はどうにか靴を脱いだところで、両腕をキョンシーみたいに持ち上げながら歩いてくる。皆守と目が合って、にかにか笑った。

「なんだよ」

 そう言いながら、つられて笑う。葉佩は手を皆守の前に突き出した。

「見てみてノコギリとカブト!! 今日、ラボのほうでさなぎももらってきたから虫日和かもしらんね」
「は? おい、近すぎる。見えない」

 皆守の目の前に突き出していた手を引っ込める。ようやく焦点が合う範囲になって、皆守はそれが何かようやく見えた。
 ノコギリとカブト。ノコギリクワガタとカブトムシだった。両方かなり大きく、葉佩が親指と人差し指、中指で支えて掴まれ、諦めたようにじっとしている。この様子では、つかまえたときから振り回されてきたのだろう。虫の表情などまったく分からないのに、世をはかなんでいるような気がする。

「へェ、いるもんだな」
「うん。ここの下の、電気のとこに落ちてた。持つ?」
「いや、充分見た」

 そう? と葉佩は言って、荷物を背負ったままキッチンを通り抜けて部屋に入る。いつもなら荷物を早々に下ろすが、両手に虫を掴んでいるせいで、それができないのだ。
 ノコギリかカブトか、どちらか持ってやればよかっただろうか、と思って皆守は後を追いかける。

 葉佩はベランダに続くガラス窓を開き、虫たちを柵につかまらせた。しかし虫たちは呆然としているので、なかなかうまくいかない。

「おい、しっかりしろッ、落ちるぞッ」
 などと声を掛けて笑い、両方の虫を手放した。

 ノコギリクワガタもカブトムシも、脈絡のない解放に目を回していたようだったが、はっと我に返ったのはクワガタが先だった。艶々と光る硬い背中を割って羽を開き、無我夢中で夜の闇に消えた。そのあいだも、まだカブトムシは目を回している。けれども葉佩に対する敵意はあるようで、不機嫌そうに角を振った。

 葉佩は笑顔のまま、ベランダから出ようとして後ろに立っていた皆守にぶつかった。

「お。ごめん。まだ見る? カブトのほうはまだいる」
「ああ……」
「ご飯サンキュ。なんかしようか?」
「じゃあ、米よそっといてくれ。炊けてる」
「あいよ」
「さっき、おまえ、さなぎもらったって言ったか? 何の」
「ああ、うん。カゴごともらった。バッグ入れちゃった」

 葉佩はあっけらかんと言って、部屋の中に戻っていく。何のさなぎだ、という皆守の疑問は晴らされないまま、洗面台で手を洗う音が聞こえる。

 ベランダに出た。夏の風は湿気て重い。べったりした風にあおられながら、カブトムシはベランダの柵にしがみついていた。

 カーテン越しのリビングの光が、カブトムシを光らせている。大きなどんぐりのような色だ。脚に細かに生え揃っている毛まで見えた。カブトムシといえばクヌギのイメージがあるが、この付近にクヌギの木があっただろうか。ここから少し歩いたところに森林公園がある。あそこから飛んできたのかもしれない。
 カブトムシは土の中でさなぎになり、土の中で羽化する。人間の見えるところには、なかなか柔らかい姿をさらさない。

 やがてカブトムシも夢から覚めたように羽を開いた。
 飛んでいく。
 
 息を止めた。
 脚が柵を離れ、大きな体を一生懸命に持ち上げてカブトムシが飛んでいく。羽ばたきはせわしなく、どうにかこうにか落下をまぬがれているといった飛び方だったが、飛んでいる。薄い茶色の羽は、ちょっとでも枝にひっかかれば破れてしまいそうだった。

「あ、飛んでった?」

 後ろから、葉佩が声を掛けてくる。ああ、と答えて皆守は部屋に戻り、窓を閉めた。

「ご飯の準備してるところごめん。虫カゴ出してもいい?」
「あァ。むしろ出してやれよ」

 ありがとう、と葉佩は答えて、荷物のチャックを開く。
 キッチンには、ほかほかと湯気をたてる米が盛られたカレー皿がある。手を洗ってから、ふつふつと沸いていた鍋を止めた。ライスにルーを回しかけ、素揚げにした肉と野菜をのせた。
 廊下の電気を消して、皿をリビングに運ぶ。

 夕食である。昨日は皆守も出勤で、今日は皆守だけが休日だった。だから、昨日よりは早い時間の夕食となる。帰ってきてから食事を作ると、どうしても一時間程度はかかってしまう。
 明日は葉佩と共に出勤であるから、食事を済ませたら早めに眠る必要がある。しばらくの間は内勤の予定が続くので、規則正しい生活となるだろう。

 規則正しい生活、と思うと人間らしい生活をしている、と思う。そんな生活を送っているのがほかでもない自分であるというのが、信じがたいときが、時折ある。明日の予定のために、今日の午後のスケジュールを考える。早めに寝たいから、早めに食事を作る。早めに食事を作りたいから、早めに買いだしに出掛ける。そういう前倒しの予定を考え、実行している最中に、はっとする。
 自分は、人間だっただろうか。
 人間は社会的動物である。アリストテレスがそう言う。
 皆守はかつて、人間ではなかった。今は人間なんだろうか。土の底でうごめき、さなぎのままである蝉、羽化しないカブトムシ。土の重さに押しつぶされる。
 自分はいま、人間になれているのか。

「おーい、元気か? 息苦しかったりせんかな」

 葉佩が虫カゴを取り出し、電気の消えている廊下へ歩いていった。
 虫の世界に電灯はない。夜なのに明るいなんてことは知らないから、夜なら暗いほうがいいのだろう。

「玄関の、靴箱の上に置いた。気が向いたら見て! たぶんそろそろ羽化だと思うって言われてる」
「何が羽化するんだ、それは」
「アゲハチョウらしいよ」
「アゲハチョウ? 普通のやつだな、どうした?」
「もうサンプルが集まったから、羽化させてもよくなったんだってさ。ラボの中で羽化しても困るでしょ、だからもらってきた」
「そうか」

 メシありがとう、と葉佩が言ってテーブルに座った。あァ、と皆守は応じる。

 人間同士の会話だ。
 皆守はまだ、人間になりきれていないのかもしれない。人間らしいことをしている自分に驚くし、足がすくむ。
 だが、目の前に座る男のようにふるまえる限りは、自分は人間に近づいていけるように思えた。
 同じことを思わなくてもいいし、同じものに興味をもてなくてもいい。ただ、前進を目指す。土の底から空を目指す。この男がそうする姿がいいと思ったのは、皆守のほうだ。

「旨」

 カレーを食べて、葉佩がそう言った。皆守は「だろ」と答えて笑う。

 葉佩が皆守に向かって笑うのと同じように彼に向けて笑いたかったが、そうできているかは分からなかった。同じ顔をしたいのではない。ただ、葉佩が笑ってみせるときに皆守が感じることを、葉佩にも感じさせてやりたかった。
 そういう動機の猿まねが、たくさんある。



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