平日午後三時の感情


 小さい音がたつのを、皆守はもう煩わしいと思わなかった。彼は自室以外で眠るとき、意識の表面に油が張るようになる。意識は水、まどろみは油だ。わずかに風が吹くと油が偏り、水があらわれる。そのとき、皆守は薄目を開けて、周囲をうかがう。そしてその音の正体を確かめ、悪意のあるものではないと分かったら、再び油をかぶる。

 最近、この學園で悪意と出会ったことはまれだが、皆守はいざとなれば自分に悪意が襲ってくる可能性を否定できない。皆守の所業を知っている人間はごくわずかだが、どこかで嗅ぎつけることはできるだろう。

 いま聞こえてきた音は、静かに保健室の引き戸を開けた。怪我の手当に来たような生徒は容赦なく勢い任せにドアを開けるので、こんな遠慮がない。保健医はこのドアを開くのに慣れているので、もっとスムーズに開ける。音はさほど大きくないのだが、必要最低限の力でさっと開け、さっと閉めるのだ。
 だから、と皆守はうとうと考えた。カーテンの向こう側で、人間の動く気配がする。それを追いかけているとき、心地よい緊張があった。うるさいというつもりは、まるでなかった。眠りの妨げというには小さいその音を、皆守はむげにできない。
 足音は小さく、かかとから土踏まずまでをゆっくり下ろしながら歩いていることが分かる。その足音の間隔は、皆守にとって馴染みがあった。もしこれが取手なら、もっとコンパスが長いので音の間隔も長くなるのを皆守は覚えてしまった。

 どうする気だろう、と思った。まどろみという油はもうすっかりよけられていて、頭が冴えてきている。薄く目を開けて、次の動きを待った。

 カーテンが開いて、予想通りの顔が現れる。つい数ヶ月前に来た転校生は、この保健室ともう馴染んでしまった。
 彼は皆守と目が合って、にやっと笑った。

「おはよう」
「……まだ起きないつもりなんだが」
「もう六時間目終わるよ」

 皆守は葉佩が開けたカーテンの隙間から時計を見る。もう六時間目終わる、という言い方は、まだ終わっていないときの話し方だ。いまは授業中だった。
 彼はあまり授業をさぼらない。きっと葉佩のこれのほうが高校生としては標準なのだろう。

「九ちゃんは、どうしたんだ」
「どうしたって?」
「授業中だろ」
「皆守も同じだけどね、それ言うなら」
「俺はいいんだよ」
「よくないだろ」

 葉佩はそう言って、室内履きを脱いで隣のベッドに上がった。様子を聞く声もとがめる声もないので、瑞麗は不在にしているらしい。皆守がここに横たわったときにはまだいたはずだが、三十分ほど前に保健室から出て行く足音が聞こえていた。そういえば、あのときもうっすらとその音を聞いていた。

「それで、どうした」
「諦め悪いな」
「お前が答えないからだろ」
「寝不足」

 皆守は横の葉佩の顔を見たが、そこに見いだせるものはかすかな疲労しかなかった。彼は、自分よりよほど嘘をつくのが上手い。彼が自分の生業を漏らしたのは、彼が本気で隠そうとしていなかっただけだと感じている。

「体温は」

 皆守がそう言うと、葉佩は「もう横になっちゃったからなし」と答えた。無理強いをする気にはなれない。皆守はそれから黙ってじっとして、時間が過ぎるのを全身で感じ続けた。
 保健室のベッドはマットレスが薄く、布団が重い。瑞麗が「放っておくと四六時中寝ているやつがいるから」と、天気がいいときには皆守を追い出して干すので、布団はふくらんでいた。

 いくらか黙っていると、隣の呼吸音が一定になる。葉佩の顔は、ふくらんだ布団のせいで半分しか見えないが、まぶたは閉じていた。
 その音はごく小さいもののはずだが、皆守は寝付けなくなった。もしこれが夜で、皆守も眠たく葉佩も眠たく、明日まで睡眠時間を確保しなければならないとなればすこんと落ちるように眠れるが、今はそうではなかった。

 寝返りをうって、葉佩を起こしたくない。どうやら、彼は調子が悪いようだった。皆守は息を潜めさえした。
 たったひとり、葉佩が横で眠っている気配が皆守を起こした。
 それを煩わしいとはまったく思わなかった。

 それは許容というには、皆守の意思に添いすぎる。皆守は、そうしてやりたいのだ。

 皆守は寝るために保健室に来たのに、寝られなくなった。これはかつての皆守が見たら、行動の制限のように感じたかもしれない。だが、これは違う。
 皆守は、そうしてやりたいのだ。葉佩を起こさないようにしなければならない、のではなく、皆守が葉佩を起こしたくないのだ。

 彼は音をたてないようにベッドを降りた。ゆっくり動いても、布ずれの音は消せない。いつもなら何も気にしないその音が、驚くほど大きい。眠る気が失せたことよりも、布ずれの音が予想より大きいことのほうがよっぽど苛立った。

 カーテンレールが音をたてないように、布をくぐってその場を離れた。

 保健室を見渡したが、鞄はない。もともと皆守の鞄は教室に置き放しだが、葉佩も置いてきたらしい。
 六時間目の教科は何だったか、思い出しながら廊下に出た。化学だったような気がする。移動教室だったような記憶がある。葉佩は化学室から来たのだろうか。

 今日最後の授業が終わるまであと五分というころ、教室に着いた。教室は案の定がらんとしている。窓は閉まったままで、ストーブも消えている。暖房器具の電源が切られてから三十分以上は経っているので、教室は冷え込んでいた。窓から見える木々は風にふるえている。

 皆守は自分の机から平らな、それでもかつてよりは重い鞄を持ち上げた。それを腕に通して、別の机に向かう。ぬいぐるみがぶら下がった鞄のある横の席、三年生の鞄にしてはやけにこぎれいな鞄を、皆守はフックから外す。その鞄は皆守のものより重かった。
 コートがないか見渡すが、着てきていないらしい。

 皆守は二つの鞄を持って、教室を出た。他の教室は全て授業中だった。教師の浪々とした声を片耳に聞きながら、皆守は廊下を歩く。
 階段を降りている最中に、チャイムが鳴った。この音が保健室でどれくらいの大きさで聞こえていたか思い出し、皆守は苦い気持ちになる。葉佩がこのチャイムでもし起きていたら、一緒に帰ろうと思った。

 これはもともと、皆守がそうしたかった。六時間目を寮に戻るのではなく保健室にいることを選んだのは、もともと、このためだった。



BACK