寿命


 おかしいと指摘したのは皆守が先だった。

 葉佩はデスクで貰い物のクッキーを開け、ものの数分で空にした。つつましいクッキーを個包装で一袋などではなく、ひと箱十五枚入りまるまるである。彼はつい一時間前にピザ二枚とフライドチキンを半身たいらげたばかりだ。吸い込まれるようになくなったクッキーの箱を皆守はちらと見て、葉佩に声をかけた。

「おまえ、最近食べ過ぎじゃないのか」
「なんかおなか空いちゃうんだよね。頭使ってるからかな」

 このときは皆守も、そういうこともあるかと思って会話を流した。皆守は次の任務地について、ロゼッタ協会本部とメールで大げんかを繰り広げている最中だった。任務地を寄越すなら早くしろとせっつく皆守と、報酬交渉に手をこまねく本部とで足並みが揃わない。皆守はこの仕事に就いてから、案外自分はせっかちなたちであるのかもしれないと思い始めた。近頃は英語で皮肉を言うのが上手くなっている。

 葉佩が成人していくらも経つのに男子高校生みたいに食べたところで、彼は運動をするたちなのでどうにかなるだろう。食べないよりましだ。遺跡に入れば味よりも栄養摂取の効率化を重視したものばかり食べるのだし、食いたいものは食いたいときに食うべきだと思った。
 皆守はふだん、自分の食べたいものを食べたいように食べる。なので、葉佩のことをあまり責められない。

「適度にしとけよ」

 皆守がそう言うと、葉佩はあいまいに相槌を打った。そのことに、皆守はたいして思考を割かなかった。葉佩は自己研鑽を惜しまないたちだ。自分に害になるほどのことはしないだろう。
 皆守はなかなかメールの返信を寄越さない相手に内線を掛けた。向こうは電話に出なかった。静かに受話器を下ろしながら、皆守は自分も大人になったものだと思った。




 その三日後の夜、二人で夕飯をとりに出掛けた。

 相変わらず本部からは次の任務地についての連絡が来ないままで、皆守はそれをせっついたり、協会の調査員の研究のうち外部にやすやすと出せないものに目を通したり、過去の遺跡の図面を引いたりしていた。葉佩はデスクでちまちま報告書を作っては提出し、皆守の作る図面を手伝ったり、勉強をしたりして同じ時間を過ごす。
 協会の中でも教育部門はあって、葉佩はそこの講師をねらっているらしかった。内部の構成上、やすやすと外部講師を招くわけにもいかないので、協会内での教育制度は豊富なほうだ。葉佩は職能の等級を得るための試験に備えて勉強を重ねている。こいつは、ずっと自分の切れ味を試し続けている。きっと生涯、なまくらになることを自分に許さないだろう。

 遺跡と次の目的地までの期間はわずかなものだ。そのわずかな時間、葉佩と皆守で他愛ない業務を続ける。岩も落ちてこないし水も降ってこないデスクワークは葉佩に言わせれば刺激がなく、安全だった。
 このような時間もあってしかるべきだろう、と皆守は考える。葉佩がこの時間をどう思っているのかは聞いたことがなかった。だが、どうも退屈そうな顔をしているから不満ではあるのだろう。それを察することができるのが可笑しくもあり、次の任務地をもぎとって来なければいけないという気にもなる。
 けれども社会のすべては有限だ。皆守はその中にいて、葉佩のために何かを都合してやりたくても社会に拒否されれば打つ手がない。

 安全な勤務といえども、二人ともデスクワークこそが得意だというわけではないのでかえって疲労していて、夕食は近場で済ませた。

 勤め先の周囲にあるレストランは、見覚えがあるばかりで入らない場所が多い。どうせなら旨いことが確定しているものが食べたいので、値段も味も分かっている数店舗にばかり通いがちだ。今日は行きつけが閉まっていたので、その隣の店に入った。個人経営の小さな店で、床が油にべたついている。歩くごとに、靴の裏が張り付く。カウンターの奥にコンロが見えた。厨房が近いから、店内が脂っこくなりやすいのだろう。これくらいのこと、皆守はもう気にならなかった。

「この……ベジタブルバーガーとシュリンプバーガー、あとどうしようかな、レモンスカッシュを一番大きいので……」

 と葉佩が注文を始めたので、皆守はそれを片耳に聞きながら店内を見回した。

「皆守、どうする?」
 葉佩に促されて、皆守は折れ曲がったメニューに目をやった。手書きのメニューはアルファベットの書き方が独特で読みにくい。

 数種類あるバーガーのうち、葉佩が注文していないであろうものを頼んだ。葉佩の注文をしっかり聞いていたわけではないのだが、どうせなら違うメニューを頼んだほうが今後の判断のためにもなる、という程度の動機なので被ってもかまわなかった。

 テーブルに座って二人で向き合い、互いの仕事の具合を日本語で確認したりしていると、注文したものが運ばれてくる。テーブルに肘を突いていた皆守は、スペースを空けるために腕を持ち上げた。そこで、「おい」と葉佩に声を掛ける。

「なに? なんか言った?」
「多すぎないか?」

 運ばれてきたトレイにはバーガーが五つ乗っている。皆守は一つしか頼んでいないのだから、残りの四つは葉佩のぶんだ。それに、運ばれてきたのはそれだけではない。レモンスカッシュがジョッキに入っていたし、フライドポテトは容れ物がバケツサイズだった。コブサラダは四人で取り分けるのではないかというくらいのボウルで提供された。もはやブロックのおもちゃ箱のような見た目になっている。

 皆守はテーブルにいっぱいになった食べ物と葉佩の顔を見比べた。これだけの量を、こいつは全部たいらげるつもりなのだろうか。
 皆守の視線に、葉佩は「うん」と答えた。

「多いよなとは思う。でもなんか……満腹だなと思うことが最近なくってさ。本部にいるの久しぶりで、身体が今のうちに栄養とっとけって言ってるのかなと思って、今のところは自分の欲求に従ってる。やっぱり、ヤバいと思うか?」
「満腹にならない?」

 皆守は眉を寄せつつ、バスケットに放り込まれたバーガーの中から自分の注文分を探し当てた。葉佩は何かを答えたが、そのころにはフライドポテトを食べていたので明確な言語ではなかった。
 空腹であることは皆守も同じだったので、バーガーの油の染みた包み紙を剥いだ。だが、次の瞬間には思い至ることがあって、バーガーをバスケットに戻して、葉佩に片手を差し出す。

「ちょっと腕出せ。どっちでもいいから」
「腕?」

 葉佩は汚れた指先をペーパーナプキンでぬぐってから、皆守の差し伸べた片手に利き腕でないほうを乗せた。皆守はその手首をひっつかんで、親指の付け根に指をあてた。素早く店内に目を走らせると、カウンターに時計があった。幸いデジタル時計だった。皆守は眉を寄せながら、そのカウントをにらみつける。葉佩はおとなしくしている。

 皆守は一通りの応急処置をたたきこまれてある。葉佩は無謀をするものだから、その無謀をフォローする役目が自分の役目だと思っている。葉佩を止めるより、こちらのほうが手早く済むし確実だ。

 皆守が手を放すと、葉佩はすかさず「食べてもいい?」と尋ねた。

「ああ。でも食べたら帰らずに研究室に行く、おまえもだ」
「なんかマズそう?」
「自分でどうだ、何か感じないか」
「実は、ちょっとおかしいかもなとは思ってた。でも調子が悪いわけじゃないし、体重も変わらないし、様子見しとくかと思って」
「具体的に言うと」
「まず、常に落ち着かない」

 皆守が短く言った質問に、葉佩は答えながら食べ物を噛んだ。吸い込まれるように、バーガーがひとつ消えた。

「遺跡帰りでアドレナリン過剰かと思ってたけど、これだけ日数経っても変わらないから何かあるかもしれない。あと、爪が伸びるのが早い。おれ、爪伸ばさないから伸びるとすぐ分かる。三日にいっぺんくらいは爪を切ってる気がするんだよな。新陳代謝っていうのかな、そのあたりがおかしいんだと思う」
「睡眠はどうだ」
「夜、寝室に入ってから朝に皆守と会うまで寝てるよ。それは問題ない」
「分かった。戻ったら採血……は今日は無理かもしれないな。それ全部食べる気か?」
「やめたほうがいいかな? でも腹へって死ぬかも」
「そうだな……一般的な一人前までにしとけ。持ち帰りにさせてもらえるだろうからな、それの半分くらいは明日に回す」
「分かった」

 葉佩は素直に頷いた。彼は無謀だが、皆守の判断には従うように努めているようだった。皆守の許容ラインがかなり、葉佩の意思に譲ったものであることを彼が理解している証だから、皆守は彼がこうして素直に頷くのを見るたびに喉の中で子猫が寝返りを打ったような気分になる。

 皆守は手早く自分の注文したぶんを食べた。さっき、デジタル時計を見ながら測った一分間のあいだ、葉佩の脈拍は115あった。ここまで走ってきたわけでもないのに、と皆守は考える。まだろくに食事を始めていないときだったし、葉佩は落ち着いていた。

 食事を手早く終えた皆守は、葉佩の顔を眺める。
 目はきれいだ、充血もない。まばたきは多いようだが、これは皆守の視線を感じているからだろうし、特筆すべき点かは分からなかった。皆守は応急処置と一通りの知識は得ているが、それはバディとして必要な範囲であって、それ以上ではない。協会に戻るとは言ったが、その手綱を皆守が握ることはない。

 葉佩は皆守の忠告通り、およそ成人男性一人分と思われる量と、持ち帰りが難しいと思われるサラダだけ腹に収めた。店員に頼んでほかのものを包んでもらい、二人でさっさと店を出た。

「調子は?」

 葉佩は顔全体で笑った。

「皆守、めちゃくちゃ気にしてるじゃん。ごめんな。元気だよ。腹八分目まであとちょっと、くらいの調子かな」
「ならいい」

 協会の表扉はもう閉まっているので、裏口から入る。首から下げたままだったIDカードをかざしてロックを解除して、自分たちのオフィスを通り過ぎ、研究室に入る。ここから、医療棟に繋がっている。一人二人入院がいるので、当直の職員がいることをみな知っていた。

 当直の職員は、葉佩を見て片手を挙げた。どうした、と聞いてくるので、皆守は葉佩を押し出した。

「夜中に悪いが、ちょっと見てくれ」
「何かあった?」
「何かおかしい。食べる量がいつもの数倍あるのに様子が変わらないし、脈が早い。本人も常に落ち着かないと言ってる。爪が伸びるのが早いそうだ」
「爪?」

 詳細を尋ねるイントネーションが、葉佩に向けられた。彼は今までじっとしていたが、話を向けられて両手を差し出した。職員がまじまじとその手を見る。
 葉佩の爪は基本的に短い。長くしていてよいことが何もないからだ。爪の先に何かを引っ掛けたければ道具を使えばいい。それだけのために伸ばして、危険なものに引っ掛けて爪ごとひっぺがすほうがよほど痛手になる。
 その葉佩の爪に、指の肉から伸びて白い部分が三ミリほどあった。これは彼にとっては「長い」部類になる。

 職員は葉佩の手を見て、全身一通り眺めてから「分かった」と言った。
 仕事柄、何が起きようとも理屈や知識より目の前に起きていることを優先することになる医療職員は、訴えられたことを否定しない。

「腹がへってると言うんで、一人前にちょっと多いくらいはつい十分前くらいに食べてる」
「十分前?」

 部屋の時計を見て、また「分かった」と言った。

「きみは付き添い?」

 皆守はそう聞かれて、答えに窮する。そうだとも、そうでないとも言えなかった。

「バディだよ」

 すぐに答えられない皆守の代わりに、葉佩が答えた。
「おれ、基本的には日本の所属だから。こっちだとこいつがおれの……なんていうんだっけ、後見人?」
「バディでいいだろ」
「ツーマンセル? 分かった。きみは、検査してるあいだどうする? ここにいる? まあ、ここにいてもどこかに出てても、待ってるってことは同じだけど。どこかにいるんなら、連絡先教えといてもらいたいな」

 皆守は差し出されたレポート用紙に、内線番号を書き付けた。その番号を横から見た葉佩は、「先に帰ってていいよ」と言う。皆守は淡々と、その言葉を断った。

「帰ったところでどうせ起きてる。なら、ここで仕事片付けてるほうがましだ」

 葉佩が真横から、皆守の目を見た。その視線を感じて、皆守のまばたきが早くなる。何を言われるだろう、と思った。皆守は高校生のときから変わらず寝穢い。葉佩はそれを知りすぎるほど知っている。

「ありがとう、皆守」

 葉佩は日本語で、はっきりとそう言った。そして皆守の腕をたたいた。その手つきに、思わず皆守も腕を持ち上げた。葉佩は皆守の目を見たまま、皆守の手のひらをぐちゃっと握った。指が変に折れ曲がって痛いのに、何も言えない。そして、横を離れる。皆守はその背中を眺めた。
 種々の検査室に繋がる廊下へ出て行ったのを見送って、皆守はオフィスへ戻った。期限の迫っていない仕事は、山ほど皆守を待っている。それが手に着くかどうかは、いつまでさっきの葉佩の日本語が皆守の耳に居残っているかに懸かっていた。



 分かりきってはいたが、仕事は手に着かない。考えなくていいことしかできない。だが、何も考えなくていいからと思って図面の清書をしていると、頭は自動的に嫌な想像ばかりする。

 最近に行った遺跡の図面を起こしながら、そこにあったものを思い返す。何か、悪さをするものがあっただろうか。だが、皆守は主にフィジカル面のサポートをしているから、遺跡の中身のサポートは手薄だった。
 あの遺跡には植物が生えていた。不用意に触らないようにはしたが、空気中に毒が含まれていたら防ぎきれない。だが、もし空気中の毒だとして、皆守に変わりがないのはおかしいということになる。皆守と葉佩は、確かに身体の構造が異なるが別種の生き物になったわけでもなし、皆守に無関係というのは納得しがたい。
 だが、いっそのこと毒だと言われたほうが気楽だ。化学的に物質が検出できるなら手がかりがある。

 対処に一番困るのは呪いなどの、これと判別できないなにがしかの現象である。協会内に呪い関連の専門家はいないではないが、彼らもさらに専門分野というものがあって、その範囲内でなければ診断らしいこともできない。それは夕薙の例で明らかだ。
 その方向になってしまっては、皆守にできることは何もない。

 だが、よくよく考えてみれば、葉佩がいざ不調となってしまっては、たとえ理由が何であろうと皆守は何もできないのだ。

 協会の中で、遺跡内での事故や負傷へのケアについて五つのステップが叩き込まれる。第一ステップは事前予防、第二ステップは治療、第三にリハビリを含む職務復帰計画と実行、第四に復帰の決定、第五に復帰後のフォローである。これはすべての故障に適応できるが、いざこの流れに葉佩が組み込まれたとき、皆守が携われるのは予防だけだ。フォローアップにも関わってやることはできるが、評価も改善策も、皆守には荷が重い。
 何もしてやれない。
 だが、それを原因に皆守が落ち込むのも、葉佩に悪いような気がする。そうしてしまったら、葉佩は皆守に気を遣うだろう。彼に、皆守のケアまでさせるわけにはいかない。

 皆守にはまだ、学ばなければならないことがたくさんあるということだった。
 さしあたって、皆守は遺跡の図面を引かなければならない。皆守は幾度もため息をつきながら、ていねいに図面を作成した。これは未来のハンターの、危険予知に使われる。その範囲にはもちろん、葉佩のことも皆守のことも含まれているのである。





 葉佩が今日できる範囲での検査を終えた連絡が来たのはもう朝ぼらけの時間だった。皆守はコーヒーを飲みながら目に光がしみてまばたきをしていたが、内線電話を受け取るなり「分かりました」と言ってオフィスを出た。

 皆守が到着すると、葉佩は医療職員と会話を交わしていた。二人でコーヒーを飲んでいて、その香りで目が醒めるようだった。皆守の顔を見て、葉佩が目尻をゆるめる。その顔が別れたときと変わっていないように見えたので、安心しかけた。「早かったね」と言う職員の顔が厳しいものだったので、現実を思い出す。

「どうでした」
「今のうちに気づいてよかったかもね。あと一週間遅かったら、ちょっと……いろいろ過ぎちゃった可能性ある」
「そんなに悪いのか」
「悪いというか」

 葉佩には、すでに話が通っているらしい。職員と葉佩でアイコンタクトを交わし、結局、事情を把握できているらしい職員のほうから話した。

「端的に分かりやすく言うと、この人だけ時間が速く過ぎている」
「はい?」
「体内の……全部の巡りが早すぎる。僕らの身体が一日のあいだにすることを、この人……なんて名前?」
「葉佩九龍。葉佩がファミリーネーム」
「ありがとう。ミスタ・葉佩は、僕らの身体が一日かかってすることを、十五時間くらいかな、の速さでしている。でも部分によって違うみたい。爪が伸びるのは速すぎる。僕らの三倍くらい速いかもしれない。でも、器官によって違うのか、タイミングで違うのかは分からない。もしかしたら明日には、内臓が五倍の速さで進んでるかもしれないし」
「それは、どうして」
「分からない。この数時間だけじゃ難しい。朝になって、みんな出てきたらいろいろあたってみるのがいいと思う。僕は今日、そろそろ上がりの予定でカレンダー入ってるけど、引き継ぎするまでいるから」

 ぶっきらぼうな話し方をするが、気の良い職員らしかった。

 葉佩だけ、時間が早く過ぎている。だから脈は速いし、まばたきも多い。消化が速いしエネルギーを使うスピードも速いからから、すぐ腹もすく。睡眠時間に影響がないのは、時間が速く過ぎれば眠りたい時間により速く到達するが、時間が速く過ぎるなら必要な休養時間は短く済むからだろうか。その両者のバランスが拮抗して、通常と変わらない結果になったのかもしれない。

 全部、予想にすぎない。ふつう、そんなことは起きないからだ。

「今のところ、外側との経過時間の不一致はあんまり問題にはなってなさそう。当たり前に会話はできるし、見るものの早さがどうにかなるということもない。体内時計も問題ない」

 葉佩は肩をすくめた。どういう意味のジェスチャーだったのか、皆守には分からなかった。

「こういうの、漫画にあるよね。漫画だとたいてい、敵を斃せば元に戻るものだけど……一度老いちゃったら普通は戻らないし、だいぶ困るね」
「え?」

 葉佩の言葉に、皆守が声を漏らした。何も聞き返すつもりはなかったので、口元を押さえる。葉佩はそれを了解しているのか、改めてもう一度言うことはしなかった。

 一度老いたら普通は戻らない。

 そうだ。今の葉佩は速く時間が過ぎる。爪などは、皆守よりずっと速い。今はそれが爪で、伸びたら切ればいい程度でしかない。これが全身に及んだとして、皆守の三倍速く老いるとしたら、葉佩はどうなるのだろうか。老いるのだろうか。皆守よりずっと速く。
 それはいつか訪れるものだ。誰にでも明らかだ。
 皆守にも葉佩にも、まだすることは山のようにある。

 皆守は岩や敵の刃からは葉佩を守ってやれる。事故の予防策になってやれる。
 時間からは守る方法を知らない。

「そんな顔するなよ」

 葉佩は目尻を下げて、皆守にそう言った。日本語だった。異国の地では、彼ら二人は日本語で話すだけで内緒話として事足りた。小さな声でささやくように言えば、誰にも聞き取れない。
 葉佩が皆守にするように、皆守もやわらかい顔をしてやらなければと思うのに、それができない。まだ子どもみたいだ。大人になれたところなんて、まだ少しだ。少しずつしか成長できない。そんなの、誰だってそうだ。

 葉佩は昔より用心深くなったし、昔より素直になった。だがそれも、ゆっくりした変化だった。そういう月日はわずかずつ、積まれていくものなのだ。

「悪い」
 皆守は、それだけ言った。

「それはおれの台詞だよ。心配掛ける」
「おまえは悪くないだろ。……他のスタッフが来るの、あとどれぐらいだ? 四時間てところか?」

 もう自分の仕事に戻っていた職員は、皆守の声で振り向いた。時計を確認して、「そうだね、あと四時間くらい」と答える。

 考えてみればこの職員にも自分の仕事があったはずなのだが、何も言わなかった。入院患者がいたはずだが、問題なかっただろうか。当直がこの一人だけではないだろうとは予想できるが、一人まるまる拘束したことがすまない。

「時間をとらせて悪かった。忙しいときに、ありがとう」

 皆守が言うと、職員は笑って「気にしないで。ひとまず、何かできてよかった」と答えた。

 葉佩と皆守は家に戻ることより、ここにいつづけることを選んだ。四時間邪魔しつづけることは避けたく、結局、オフィスに戻ってくる。葉佩はずっと神妙な顔をしている。自分の体内の動きを注視しようとしているのかもしれない。

「皆守」

 仕事をする気にもなれなくて、休憩スペースに並んで座る。葉佩が呼ぶから、顔を向けた。
 葉佩の目は変わらず白と黒で、そのふちがやわらかい。まばたきが多い。皆守はそのひとつひとつが、自分の頭にあるものとさほどの相違がないことを確認した。

「困ったな」

 と、葉佩が呟く。それが、彼が皆守にこぼせる最大の言葉なのだと察した。
 投げ出された彼の手を、さっきされたようにぐちゃっと握る。折れ曲がる葉佩の指が、皆守の手のひらの中で縮まった。
 皆守には気休めが言えない。だから、ただ「ああ」と答えた。

 皆守と葉佩には、まだしたいことがたくさんある。そしてそれは、互いがいるうえで続けていきたいことでもあった。

 朝の光がオフィスに差し込み、ブラインドの縞模様を床に描いていく。その動きがゆっくりであることが救いだった。同じ光を浴びながら、二人で並んでいた。どこかのコピー機が動く音が聞こえ、足音はよく響いた。太陽はゆっくりと高くなり、一日が始まる。皆守がつけっぱなしにしていたパソコンが、排気音をたてた。スクリーンセーバーが動き続けている。

「腹減ったな」と言う葉佩に、皆守は笑えた。

「テイクアウトしてきたやつ食べよう。で、一緒に考えてくれ」

 葉佩は立ち上がって、皆守に笑いかけた。皆守も「そうだな」と返して、同じ表情を返せた。
 まだ使える手はある。ここには気の良い職員がいて、設備が揃っている。専門家もいる。そして何より互いがいる。時間はもともと有限だ。その中であがくことは、元から葉佩は得意だった。そして、皆守はそういう葉佩のことを、とてもよく知っている。



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