存在しない


 家を買った。
 厳密に言えば、九龍が買った。もっと厳密に言えば、皆守と九龍が買ったのだが、九龍の名義で買ったほうが金利含めて安く済んだので書類上は九龍が買った。

 九龍が手持ちで頭金を多く支払い、ローンの返済年数を一般より短めに設定した形になる。皆守にとっては九龍の財布をあてにしている格好になるので、一度二度ならず話し合いの場はもたれたのだが、これは覆らなかった。

「こう言っちゃなんだがなァ、九ちゃん、おまえは今こそトップクラスのハンターだよ。俺はこれを否定する気は毛頭ないぜ。だけどな、おまえが優秀であればあるほど、宝っていうのは減っていくもんだろ。来年再来年って話じゃない、五年先十年先、今と同じ状況でいられると思ってるのか?」

 皆守は慎重に言葉を選んだ。九龍が《宝探し屋》を名乗れないような状況になるということは、九龍が想像したくないのと同じほどに、皆守も想像したくなかった。だから、まるで皆守がその未来を予期して準備しているのだと取れるような言い方を決してしたくなかった。

「だからローンも最短よりちょっと長めにしようってなっただろ、前回話したとき。おれだって今の肩書きこそ《宝探し屋》だと思ってっけどさ、まあ実際はいずれ研究スタッフだよ。そのころにゃ、収入は今とは比べものになんないだろうな」

 九龍は肩をすくめてそう言った。皆守は答えに窮した。

 このとき、二人がいたのはロゼッタ協会の日本支部から徒歩五分圏内にある喫茶店だった。何の道楽か夜遅くまで開いているので、食事の行き先を考えるのが面倒なときに重宝する。
 皆守はテーブルの上にある灰皿の、鈍い銀色を眺めた。灰皿は空だったが、長年ここにいるらしく、縁が一部歪んでいる。その部分が、薄暗い店内照明を煤の色にして反射しているのだった。

 皆守は「そんなこと言わせたいんじゃない」と言った。九龍は息を漏らすようにして笑い、「それはもちろん」と返した。

「まあ、そのころには皆守頼りだ。今はおれのほうが払う額多くて、皆守には気重だろうけどさ。平均したらトントンになる。相手頼りにしてるのは、おれのほうだと思うよ、結局」
「……俺の出世は、俺だけじゃ無理だぜ」

 山ほどの含みを込めて、皆守は九龍にそう言った。それを正しく汲み取って、九龍が笑う。
 九龍にそんな言い方をされたんじゃ、皆守はそれ以上刃向かえない。渋い顔をする皆守に、九龍はさらっと言い返した。

「おれの出世もそうだけど」

 皆守は息を呑んでやり損ない、喉を鳴らした。氷が半分溶けたグラスの水で喉をなだめる。空になったカレー皿を、馴染みの店長がテーブルから奪っていった。

「そろそろ行くか」

 と九龍が言って、皆守が了承した。それから二人で喫茶店を出た。

 そういう成り行きで、家を買った。ローンの引き落とし先は九龍の名義で新規契約した口座を設定している。そこに、二人で入金する。金額は折々で決めることになっているが、現状は規定額の半々だ。皆守と九龍は共に暮らしてはいるが、生計を共にしているわけではない。よって経済状態は現在、皆守に負担が大きい。けれどもそれは九龍と比べればという話であって、この年齢の成人男性としては余裕があるほうだ。何しろ持ち家があるし、この先が定まっている。

 なぜか皆守は、自分の未来が定まっている、と感じる。あの新宿の寮の部屋でも、心情こそ違えどそう感じていた。

 皆守は鈍くかすむ目のまわりを中指で揉み込みながら、通い慣れた家路を歩く。提げた鞄は薄っぺらだ。

 皆守は博士号をとって大学を出て、研究職として比較的よい給料で企業に雇われている。それだけ聞けば同じ研究室にいた学生たちからは羨ましがられるに違いないが、実情は彼らの期待とは異なるだろう。
 皆守はロゼッタ協会雇われの研究員でしかない。研究成果は外部には公開されないし、論文を書いたとしても学術誌には載らない。よっぽど重大な発見があれば、歴史のために公開されることもあるかもしれないが、そのときだって皆守の名前が出るか危うい。これは皆守に限ったことではなく、ロゼッタ協会の研究職全員が同様だ。
 これが何を示すかといえば、皆守に研究者としてのセカンドキャリアはほとんど望めないということである。

 けれども、皆守はそれが疎ましくない。

 今日という日はあと二時間ほどしか残っていない。食事をしてシャワーを浴びて寝るか、風呂に入って寝るかの二択だ。このところ、実験のためのプログラミングばかりしているので、目の筋繊維が凝り固まっている。長時間、同じところを見ているからだ。パソコンのディスプレイから目を離すと視界がぼやける。皆守は相変わらず視力がいいが、眼精疲労というのは相手を選ばないものなのだった。

 鍵を鞄の中から手探りで取りだし、ドアの鍵穴に差し込んだ。手首をひねってロックを解除し、ドアを開ける。玄関が明るい。
 ドアを閉めて後ろ手に鍵を掛けながら、皆守は玄関から続く廊下の先と、バスルームのドアにちらと目を走らせた。バスルームは暗く、廊下の先が明るい。廊下の向こうはリビングにあたる。
 曇りガラスの向こうから、「おかえりー」と聞こえた。皆守はそれに応えて「ただいま」と言ってから、靴を整えてリビングに入った。

 ダイニングテーブルに座る九龍が顔を上げ、皆守に笑ってみせる。その顔が、皆守が最後に見た顔と変わりないことを確認して、皆守は目尻を緩めた。九龍は、笑うと眉尻と目尻が下がり、口角が明確に上がる。

「遅かったじゃん、今ヤバいの?」
「まあな。……おまえ、明日着くって言ってなかったか?」
「乗り換えがたまたま短縮できた」
「そりゃア、よかったな」
「飯食う?」

 九龍はH.A.N.Tを操作している。皆守は横目でキッチンの様子を見た。

 このところ、皆守は外食ばかりだ。一人で食事をとるのに料理をするのは時間と手間が成果に見合わないと感じて、気が進まない。結果的に、帰宅するとまともな食事をとらないということになるので、多くはロゼッタ協会の研究室で済ませる形になった。研究室フロアには知った顔もあり、煩わしいことも少ない。
 そういう事情で、この家のキッチンは九龍がいない間は動きがない。それがもし今もそのままなら、ここで皆守が食うと言ったら九龍は料理を始めるつもりかもしれない。皆守は家事は一種の仕事だと認識している。海外での仕事を済ませて帰ってきたばかりの相手に、こんな夜にさらに仕事をさせるのは気が引けた。

 だが、キッチンはすでに稼働していた。片手鍋が二つガス台に乗っていて、横にはボウルに見覚えのない蒸籠が浮いていた。

 皆守の視線を追った九龍が「空港で小籠包と点心買った」とのんきに言った。

「蒸籠ごとか?」
「蒸したほうが旨いって。まだ火はつけてないんだ。食う? もう寝る?」
「食う。鍋は?」
「あの……なんてんだっけ、スープをパック詰めにしてるのを、」
「湯煎?」
「そう! それもまだ火は付けてない」

 皆守は平たい鞄を自分の部屋に放り投げた。九龍と皆守にそれぞれ一室、私室がある。そのどちらも、行くためにはリビングを通らなければならない配置になっていた。

「おまえはそれやってろ」
「え、サンキュ。蒸すの七分」
「分かった」

 くたびれたニットカーディガンを脱いで鞄のそばに放り投げ、キッチンに入った。シンクで手洗いを済ませ、換気扇を回してガス台に火を付けた。ぼうっと火が円状に灯され、その大きさを皆守が調節する。蒸すにしろ湯煎にかけるにしろ、まずは湯を沸かさなければならない。

「どんな調子だ、そっちは」

 キッチンから半ば、叫ぶようにして皆守は尋ねた。同じような声の調子で九龍が応える。

「楽しかったけど、ほとんど資料収集だったな。誰かになんか聞いた?」
「おまえから電話があった、程度の話は黒塚から聞いた。年代測定が難航してるって?」
「そう。まあたぶん、明日? そっちにも話がいくんじゃないかと思うけど」
「俺は明日休みだ」
「エ! おれも明日着予定だったから休み!」
「だから俺は休みだ」
「エー!!」

 声がでかくなったので、皆守は笑う。
 鍋の中はぷつぷつと小さな泡が生まれてきている。

「どっか行く?」
「どっちでもいい。なんかあるか?」
「明日の昼過ぎに着く予定だったから、何も考えてなかったな」
「まあ、明日起きてから決めたらいい。起きたら夕方かもしれないぜ」
「おれは朝に起きるけどね」

 九龍は地球のどこにいても時差ボケをしない。時間という概念を自身の身体ではなく、大地から感じているんじゃないかと、ほとんど本気の顔で黒塚が言っているのを聞いたことがある。皆守はそのときこそ笑って流したが、長く一緒に過ごしているとあの黒塚は正鵠を射ていたのではと思えてくる。南米に行ってヨーロッパに行ってアメリカに行って日本に戻ってきたときでさえ、彼は時間に正確だった。
 九龍は頭だけではなく、身体で経度を理解している。今の皆守は、「そうかもしれん」と答えてしまう。

 そうしているうちに湯が沸いた。ぼこぼこと音がする。

「九ちゃん、蒸籠はどうしたらいいんだ」
「もう充分濡らしたからそのまま水からあげて、で、セットでもらった紙敷いて、点心入れて、鍋の上!」

 皆守は言われた通りに従った。小籠包と点心はボウルの横にきれいにパック詰めの状態で置かれていた。蒸籠は二段ある。皆守は菜箸で蒸籠に並び入れ、蒸気のたつ鍋の上に乗せた。鍋の口径はちょうどよく、蒸籠を支えた。

「いま何時だ」

 時間を尋ねた皆守の意図を察して、九龍が分単位で答える。

「十時三十四分」
「分かった」

 もう片方の鍋には、レトルトパックのスープを入れる。パッケージの説明文には日本語がないが、写真を見るにシチューのようなスープだ。裏面にさっと目を通すと英語があった。湯煎五分。点心蒸すのならまだしも、スープの湯煎に七分も五分も変わりないだろうと思って、皆守は鍋に放り入れた。

 スープをよそう器を食器棚から出しておく。テーブル周りに一家言あるわけではないのだが、九龍が土産代わりに食器を買ってくることがある。おかげで二人暮らしなのに食器持ちの家になってしまった。
 和洋中選び放題だが、皆守はいまは悩むのも億劫で手前のものを取った。蒸籠の点心は蒸籠ごと出せばいい。

「九ちゃんも食うんだよな?」
「食う」
「腹減ってるか?」
「減ってる」

 じゃあ米も出すか。
 冷凍庫を開けると、ラップに包んだ米が三つあった。ひと包みで一人前程度の量があるから、二つで充分だ。取り出して、電子レンジに入れる。

 食材を切ったり焼いたりしたわけでもないのに、重労働だ。皆守はため息をついて手を洗う。

「いい香りするな」

 九龍がそう言うのが、皆守の耳を撫でていった。皆守はああ、と息を漏らす。
 竹の蒸籠から、豊かな香りが立ちのぼっている。絶えず湧き上がる蒸気は、丸い輪郭の印象を与える。その丸みの中に、竹の青くしなやかな香りが内包され、彼らの周りを満たした。
 部屋が心地よい湿り気に覆われる。

 電子レンジがアラームを鳴らすまでの最後の十秒を、小さな液晶画面を眺めて過ごしていると、九龍が「四一分になった!」と叫んだ。

「おう、持ってくぞ」

 皆守はアラームが鳴る前に電子レンジを止め、片腕を伸ばしてガス台の炎を消した。冷蔵庫の横につるしてある鍋つかみを両手分取って、蒸籠の蓋を持ち上げた。蒸気がふわっと皆守の顔に直撃する。その香りのよさに、皆守は目を細めた。
 爪楊枝を刺しても問題ないような点心を見繕って、火が通っていることを確かめる。両手で蒸籠を持ち上げ、ダイニングテーブルへ持って行った。九龍はH.A.N.Tをしまいこんでいて、テーブルの上はつるりと空いていた。

 九龍は蒸し上がった点心を覗き込み、いたく満足げな顔をした。

「蒸籠もらってきてよかった!」
「はい? もらってきた?」
「向こうの支部の人と話してたらくれた。引っ越し予定なんだってさ。蒸籠を買ったはいいけど全然使わないし場所取るっつうから、じゃあおれもらっていきますよと」
「買ったのは中身だけってことか」
「そう。おれ、なんかすることある?」
「座ってろ」

 あとはあたためたものを出すだけだ。
 立ち上がりかけた九龍に向けて手を払うと、彼はおとなしくいすに座った。

 ダイニングテーブルはそう決めたわけでもないのに、定位置があった。廊下から入ってきてまず目が合うのが皆守の席で、その右手側に九龍がいる。わずかに傾けて、ようやく顔が見える。だが声はよく聞こえた。そのバランスがよかった。

 湯気立つ元冷凍の米を、指先で跳ねさせながら開いた。茶碗に広げて、箸でほぐす。あたたまったレトルトパウチのスープを器にあけて、箸で底にたまった具を掻き出す。それを全部キッチンでやった。

 テーブルの上に準備したものを並べて、皆守は自分の定位置に座った。米をほぐしたり、スープの具を掻き出したりした箸は自分の側に寄せ、清潔な箸を九龍の前に置いた。九龍は軽く、皆守に頭を下げた。

「ありがとう。いただきます」
「買ってきたのおまえだ」
「やってもらっちゃったしな」
「いや、ありがとな。あと言いそびれた、おかえり」
「おう、ただいま」

 テーブルの角を二人で埋めて、箸を手に取る。蒸籠はまだ薄く蒸気を刷いていて、点心は皮の中に熱い汁を抱えてまるまるとしていた。米はいつ炊いたか定かでないが、電子レンジであたためられて熱い。一度冷凍を経た米というのは、ラップで包んだときの水気でやけにさらさらしている。それを箸の先に乗せて、九龍の土産と一緒に食った。

「あち」

 九龍が小さく吐き捨てるように言い、いすから腰を上げて手を伸ばす。皆守は黙って、自分の横にあるボックスティッシュを持ち上げて九龍に渡した。九龍は「あちあち」と言いながらティッシュを複数枚抜き取った。

 皆守も、熱いだろうなと思いながら小籠包を一つ取り、茶碗の中で皮を破いた。線香の煙のように湯気が立つ。このまま食べたら火傷するだろうなと思ったので、米と一緒に食べた。それでもやはり熱い。
「あち」
 と、皆守も漏らした。

 二人で口から蒸気を吹いて、旨いなと言い合った。竹の香りが誇り高い。
 そういうこと全部が、二人の生活だった。生活は家に根付く。たとえ離れても、ここに存在していると信じられる。存在を感じることが目的なのではない。存在を証明したいのではないし、確認しなければならないのでもない。
 雨を避け、風から守られながら、相手の息災を信じられる。この屋根はその分かりやすい手引であって、そのものではない。存在していなくても、存在を思える形代だ。

 皆守は、自分の未来が定まっていると感じる。
 それは高校時代に感じていたような先細りの破滅の気配ではなく、浪々と流れる自らの行く先のことを指す。そこに感じるのは呪縛ではない。

 スープをひと息で飲む九龍に笑って、皆守も同じものに口をつけた。



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