アルバイトテスト
アルバイトをしたことがない、と言ったらその場の全員にええっと言われた。
「……そんなに珍しいことでもないと思いますが」
答えた皆守の顔は仏頂面だったに違いない。気圧されたのか、「まあそうかもしれないけど」と博士課程の院生がもぞもぞ言った。彼は弱気なところがあって、相手は先輩だというのに皆守はしょっちゅうはらはらさせられている。
へえ、と研究室のボスが無感情な相槌をうった。無感動なわけではなく人柄なのだと、皆守はこの研究室に来て最初の一ヶ月で気づいた。
「今もしてないの?」
「ないですね」
「高校はバイト禁止?」
「おそらくそうだったと思います」
「なんであやふやなの?」
最後は質問ではなくて笑い混じりのからかいだと思ったので、皆守は答えなかった。
相変わらず親元を離れたままだが、学部四年の皆守は幸い金銭の都合がつけられた。学生というのは勉学を含めた余暇(スクールの語源であるし)を謳歌するものだと思っている。勤労などは、あと十年のうちにいくらでもできるようになるから、今から急ぐ必要はない。金に飽かせる趣味もないのが幸いだった。
研究室に割り振られて二年目になる。卒論は提出を済ませていたし、院試は秋募集だったのでこれも済んでいる。皆守の次のイベントは卒論の口頭試問だが、論文自体は提出済みで今さらジタバタしてもどうにもならない。自分の手の届く範囲を増やしながら、いつも通りにかまえているのがいいのだ。と、皆守は大学に通ったこの数年間で理解した。
つまり、いま皆守は比較的、気楽で身軽だった。
それと同じことが教授や院生にもいえて、年明けすぐの研究室はぼんやりと、今月下旬のことに思考をめぐらせているのだった。
大学というのは不思議なところで、休暇というものが基本的に存在しない。土日かまわず稼働している研究室はあるし、年末年始も同様だ。
以前、学内で小火が起きて避難するよう放送が入ったことがあるが、研究室棟の外に出てきた人間はほとんどいなかった、という話が学生たちのあいだで話題だ。まったくのデマでもないだろう。もちろん、研究室棟に人がいないという意味ではない。みな、研究をやめることをまず面倒がるし、研究室から出てこないという意味だ。避難はしておけ、と皆守は思う。思えるようになった。
だが、それでも確実に研究室が閉まる日はある。大学入試の日だ。それが一月下旬になる。
すでに大学に入学済みの学生にとってそれは何の日かといえば、たいした手間でもない、けれども時給はまあまあいい、というアルバイトが募集される日のことだった。
「オレ、友達にバイトしたことあるってやついますけど風邪引いてましたよ」
「風邪? あれって試験監督するんじゃないんですか」
「試験監督もあるけど、試験会場までの案内するバイトもあって、そいつはそれやってました。真冬にずっと外いるし、朝は早いし」
「へえ、そんなのあるんだ」
茶をすすりながら、そんなことを話す。
大学にいる意味があるのかというところだが、研究室を出るというのも決意が必要なことなのだ。ここでだらだらしているのが楽だというのは否定できない。
窓にはブラインドが下がっている。白いプラスチックが蛍光灯を反射して、冷たい印象だった。ブラインドの外側は真っ暗であるだろうことが、影の色の深さで分かる。それがなおのこと、皆守の足をこの場に引き留めるのだ。
「皆守くん、バイトするの嫌なの?」
「そういうわけではないですね。バイトするなら大学行くほうがいいだけで」
「学校好きなんだ、珍しいね」
「そういうわけでもないですが……」
嫌いだというわけでもない。
皆守が苦笑いを浮かべると、じゃあさ、と教授が言った。
「入試の日はどっちにしろ大学には来られないわけだし、皆守くんとしてはバイトするのもやぶさかではない?」
「はい? まあ……そういうことになるんですかね」
何かやらせたいことがあるんだなと思った。皆守は短い時間で考えた。確かに大学に来られないならアルバイトをするのもやぶさかではない。寝ているほうがいいに決まっているが、何かあるなら動くのが学部生のさだめだった。
「じゃあ、頼みたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「草むしり要員探してて……」
「草むしり? どこのですか?」
「温室。上の階の研究室と一緒に管理してるところでさ。うちの学部と合わせて研究室持ち回りで管理がまわってくるんだよね、で、今年がうちだから」
皆守は言葉に窮した。
その会話の途切れを別の意味に受け取った別の学生が「上の階は農学だよ」と声を掛けてきた。上の階というのが何を指すのか、皆守がピンときていないと思ったようだった。皆守は彼の親切に「ああ……農学の」と返した。
「いいですよ」
結局、皆守はそう言った。それ以外にどうしていいか分からなかった。
「ありがとう、働き者で助かるなあ」
教授は皆守の返答にそう言う。皆守はいえ、とか、いや、みたいなことをぼそぼそつぶやく。
急に、身の置き所が狭くなったような気がする。皆守はそれから早々に「夕食を食べに行くので」と言って研究室を出た。
嘘ではない。皆守の部屋の冷蔵庫では、昨日の残りのチキンカレーが彼の帰りを待っていた。手羽元をまるごと入れて煮込んでいて、スプーンを差し入れると骨からほろほろと肉が剥がれる。あいつを食ってやらなきゃいけない。
大人になったつもりでいるのに、あの高校の外に出ても大丈夫なつもりでいるのに、全部ただの「つもり」にすぎなかったのかもしれない、とふとしたときに思う。自分の魂の後ろ髪は、細くなりながらもあの學園につながっている。結びつけられていて、ふいに引っ張られると痛む。
けれどもそういうとき、「つもり」であれているだけ進めているのだ、と自分に言い聞かせる。
昔は「つもり」になることすらできなかった。
大学の所有する温室に入るのは二度目だった。最初の一回は案内されてきたときで、それ以来は足を踏み入れていない。開放されているわけではないから、やすやすと入れるわけではないのだった。定期的に研究に使う学生でもないなら、入室には申請が必要だった。
皆守は託された鍵を落としてしまうことのないよう、鞄の中にしまった。内側からロックしたので、気にせず鞄は置き放しにした。
温室は各研究室の管理下にあって、観賞を目的にしていないので色味に欠ける。巨大なビニールハウスのような外見をしていた。だが、それが皆守にとっては幸いだった。
いくつも並ぶ温室の中で草むしりが必要なのは、現在研究に使われていない、管理の目が外されている温室だった。だからなおさら無機質だった。剥き出しの土に枯れた草がへなへなとなっていて、その周囲に雑草が生えている。枯れているのは、もともと研究対象だったのだろうか。イネのような形が見える。
皆守は持参してきた軍手をはめた。
謝礼が出るのでアルバイトではあるのだが、一人きりでいることもあってアルバイトをしているという気にならなかった。草むしりだけ済ませればいいだけだ。ただの手伝いのような気がしている。
天香にいたときのほうが、「仕事」をしていたような気がする。
高校生最後の二学期、常に自分の横にいた人間が仕事人だったからかもしれないし、自分をあの職務に引き入れた人間が精勤であったからかもしれない。そのどちらもであるかもしれない。
高校生のときの皆守は自分の働きによって金銭を得てはいなかった。でも、最後の二学期のあいだ、皆守のかたわらにいた葉佩は自分の働きで金銭を得ていた。その金銭に皆守が微塵も関わっていないとは言い切れないので、葉佩が皆守に金銭を分けようとしたことはある。
いらない、と言って、皆守は葉佩からの報酬をうけなかった。
――でも、皆守が働いた分は渡さなきゃ。
――俺は何もしてない。ただお前の後ろで眠ィなと思ってるだけだ。
――さすがに何も返さないのはマズいだろ。あの蟲の弱点教えてくれたのも皆守だし。
――……八千穂にやれよ。
――渡してる。おれのこれは仕事だからって言って受け取ってもらった。だから皆守にも受け取ってもらいたいんだけど。
じゃあマミーズのカレーでいい、と皆守は言った。葉佩の手から金を受け取りたくなかった。
皆守は軍手をはめた手で、放置された温室という楽園を謳歌する雑草に手を掛けた。一気に根元から引き抜く。引き渡された熊手で土を掘り返し、根を残さないように刈り取る。土の下に根という通路を渡して、離れたところまで陣地を広げていくタイプのものもある。彼らの生活を、皆守は淡々と壊し続けた。
草の青いにおいと、土のにおいが混ざった空気が漂う。小さなコオロギのような虫が、慌ててこの惨劇から逃げ出している。
このアルバイトの給金は学科事務室を通して、のちのち振り込まれることになっている。たかだか草むしりに給金が出るとは、という気持ちになるのだが、入金があることに抵抗はない。
どうして葉佩からは受け取れなかったのか、皆守はそろそろ理解するべきなのかもしれなかった。
葉佩とのあいだに金銭が関わることが、まるでビジネスライクな関係のように感じて味気ないと思ったのだろうか。
葉佩に明かしていないことがあるのが後ろめたくて、自分が利益を得る立場ではないと思ったのだろうか。
それとも、そのどれでもないのか。
自分のことなのに、どれなのか分からない。
雑草をむしりつづけると腰が痛くなる。普段はなかなかしない姿勢だからだ。皆守は定期的に立ち上がって、腰をひねったり、前後に上半身を倒したりして動かなければいけなかった。
それでも仕事を済ませるころには腰が痛くてたまらない。
麻酔がかかったように痛いところを片手で叩いたり、押し込んだりしながら、皆守はゴミ袋の口を結んだ。皆守の手によって詰め込まれた雑草たちは、まだ生きている。根にこびりついたわずかな土と、自分たちが蓄えているわずかな水で呼吸した。このまま長く放置すると、ゴミ袋は内側に水滴がつく。
ゴミを捨てる場所はあらかじめ教えられている。両手で二袋持ち、鍵を開けて外に出た。乾いた冬の風が吹き付けて、皆守は首を縮める。温室には風が吹かない。それだけであたたかいものなのだな、と思った。
すべて捨てるのに、三往復が必要だった。こうして振り返ると、なかなか重労働だった。
皆守は携帯電話を取りだし、教えられたメールアドレス宛に、仕事が終わった旨を報告する。時刻は二時半を過ぎ、三時になろうとしている。まだまだ入試の真っ最中だろう。皆守は四年前の記憶を思い返したが、試験問題しか思い出せなかった。
改めて温室に鍵を掛けた。これから大学に鍵を返しに行く必要があるが、その道で食事をしようと思った。もうずいぶん昼を過ぎた。皆守は家を出るときにパンをかじってきただけで、腹が空いていた。
食事をしようと思ったのはいいが、温室は郊外にある。なかなか来ないエリアであることもあって、皆守は土地勘がない。来た道を戻ることしかできない。
食事できるところがなかなか見当たらず、駅前のコンビニしかないのかと思い始めたころ、レストランらしい看板が出てきた。助かった。看板の全体が見えた。
皆守は、息をついた。
マミーズだった。
マミーズはチェーン店だ。高校を卒業してからも、町中で見かける機会は少なくない。だが、入ったことはなかった。
店内BGMは聞き馴染みがあるのに、出てくる店員の顔に見覚えがないのが不思議なように感じた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
高校生くらいの店員が、皆守に言う。これを言ってばかりなのだろう。台詞が流れていて、言葉と言葉がつながって聞こえた。
「一人で」
「かしこまりました。お好きなお席にどうぞ」
店内は空いていた。昼食どきを過ぎたからだろう。部活帰りのだべっている生徒の集団が二つ、テーブルを占拠しているくらいだった。
皆守は窓際の席に座った。窓からは広い車道が見える。運送会社のロゴがあるトラックが、ちょうどいいタイミングで何台も過ぎていった。
水を持ってきた店員に「カレーライスひとつ」と告げた。
「カレーライスおひとつ、以上でよろしいですか?」
「はい」
店員はうつむきがちに端末を操作しながら、テーブルを離れていく。
腹が空いたな、と思っていたら、すぐにカレーライスが運ばれてきた。他に注文が通っていないのかもしれない。他の客はおそらくドリンクバーだ。
久しぶりに見るカレーは、見覚えがあった。広い大皿にライスが盛られ、カレーがかかっている。あたたかなルーはつやつやとしてきれいだ。
スプーンですくって、食べる。
知っている味だ。
葉佩が皆守に奢ったカレーライスと同じ味がする。違う鍋だろうに、同じ味だと感じた。それを、懐かしいと思った。
スパイスが鼻を抜けていく。その刺激が心地いい。鋭く、胸を刺した。
ポケットに入れている携帯電話が震えた。短く切れたので、電話ではなくメールだ。教授からの返信だろう、と携帯電話を見ると、メールの差出人が予想に反した名前だった。いまは何時だったか考えながら、皆守はいったんスプーンを置き、メールを開いた。
葉佩九龍、と差出人の欄に表示されている。