アレロパシー


ある植物が他の植物の生長を抑える物質を放出したり、あるいは動物や微生物を防いだり、あるいは引き寄せたりする効果の総称
参照:Wikipedia



 昨日は雨で気が重かったので、皆守は自主休講していた。時限単位ではなく、まる丸一日を寝て過ごした。やがて来る夏がすぐそこまで迫っているのを感じて、いまいましい。窓を開けると網戸越しでも雨が吹き込んでくるくらいの降りようだったので、閉めきっていなければならなかった。
 天香學園の学生寮は雨が降るといたるところが湿っぽくなり、廊下は歩くだけでキュッキュと音が鳴る。白いモルタルが内部に沈み込んでくるかのような湿っぽさで、自室で横になっていても気分は晴れなかった。

 そんな一日を過ごしたあとだから、翌日の曇天は皆守の気分をさらに停滞させた。気分の上下が、下のほうでとぐろをまきつづけている。足が重くて、意識していなければ棒立ちになりそうだった。

 二日連続で自主休講していたところで皆守はまったく気がとがめなかったのだが、一人で学生寮で横たわっているのもいやになった。白い壁が水分を含んだはんぺんになったかのような、ぬめぬめした感じになるのが耐えられなかった。空調は中央で一括管理されていて、まだ生徒単位では稼働させられない。

 天気予報によれば午後にまた降り出す可能性があるらしかったから、邪魔になるのは承知で、皆守は長傘を持って部屋を出た。
 寮にいるのがいやになったけれども、かといって外出したいわけではなかったのでいつまでもぐずぐずしていた。一時間目の授業が終わったころに、ようやく中庭にたどりついたくらいの怠惰さである。

 その皆守は、道の向かいから歩いてくる生徒がいることに気づいた。全体的に黒い。制服を着ている、男子生徒だった。一時間目はさっき終わったばかりなので、この時間に制服で中庭を歩いているというのは皆守と同じ怠惰な生徒だと思われた。
 皆守は胡乱な目でその生徒を一瞥し、そうしてから、見るんじゃなかったと思った。こんなに気分がずるずるしていなければ、影を感じたときから相手が誰なのか気づくことができていたはずだった。
 向こうから来るのは神鳳だった。黒い、と思ったのは髪を垂らしているからだ。

 神鳳のほうも皆守に気づいて、片眉を上げた。
 何か言われるかと思ったのだが、彼は無言だった。ただ視線を交わしただけで、言葉はなくすれ違った。

 皆守は背後へ遠ざかっていく神鳳の姿を感じた。向こうもこちらに意識を払っている。双方向に通うものがあったが、神鳳が道を曲がってしばらくしてから途切れた。
 ただすれ違っただけにしては長く続いたような気がして、皆守は底にわだかまっていた不快感がかき回されたような気になった。もうこんなことをしつづけて数年が経つのに、まだ沈めるだけでいられないのだ。自分のそれがわずらわしい。

 水墨画のような濃淡がある曇天は眺めているだけなら美しいと言えた。だが、雨の後の曇天は皆守の手足をがんじがらめにするだけだった。寒天を流し込まれたような空気が、皆守の歩みを容易に妨げる。ようやく教室の前についたときには、もう充分はたらいたのではないかという気がした。

 教室前の廊下に、見知らぬ人間が二人立っている。

 皆守はその顔をさっと見て、服装を確認した。中年の男が一人、女が一人。二人ともラフな格好をしていて、足元は天香學園と印刷された来客用スリッパを履いている。女が、大きな紙袋を下げていた。中身は軽くないようで、持ち手が伸びている。

 警察や学校関係者ではないな、と思った。かといって外部業者でもない。

 その二人と会話を交わしているのは学年主任の教師と、このクラスの担任だった。担任は疲弊した顔に形式的な気遣いの表情を浮かべ、ぺこぺこ頭を下げた。

「では、こちらにお越しください。警察の方は、正午までにはいらっしゃるとのことで……」

 担任がそう言いながら皆守の横を歩いていった。その後に続く学年主任が、皆守の顔をちらと見てすぐ、不快そうに目をそらした。

 皆守は奥歯を噛み、教室に入った。生徒たちはあるひとつの空席を遠巻きにして、声を潜めてこそこそ話している。空席の二つ横の席に八千穂が座っていて、跳ねっ返りにしては珍しく沈痛な顔をしていた。
 皆守は、その空席に今まで誰が座っていたか考え、思い至ったときには今日の出来事全てを理解した。

 あの空席は、来たばかりの転校生が座っていた。つい先日まで。
 転校生が来ることも、その転校生がまもなくいなくなることも、この學園では珍しいことではない。

 皆守は自分の席に、くたくたの鞄を置いた。八千穂が顔をあげ、席が近いわけでもないのに、

「皆守クン、おはよ」

 と言った。その声にまで彼女の落ち込みが透けていた。皆守は「ああ」とだけ答えて、いすには座らずに机を離れようとした。八千穂はそれを察して、「皆守クン」と呼んだ。

「もう次の授業……、はじまっちゃうよ」
「……朝から何も食ってないんだ。腹ごしらえくらいさせろ」

 振り返ると、八千穂がこちらをすがるような目で見ているのが分かっていたから、振り返らなかった。

 皆守は彼を引っ掛けようとする糸を乗り越え乗り越えして、教室を出た。アロマパイプをくわえて、火を付けた。煙が立ちのぼり、皆守の視界をうやむやにした。ラベンダーが強く香って、皆守の嗅覚を鈍らす。

 せっかく教室まで来たのに、次に教室に入るのが何時になるのか分からなかった。屋上はまだ濡れているだろう。食事をとるのに行くべきところはマミーズしかなく、そこにいても生徒たちの噂は耳に入るだろう。
 鞄を教室に残して、皆守は校舎を出た。皆守の歩いたあとに煙が道を作ったが、それもわずかな時間残るだけで、すぐに風にかき消えた。


  *  *  *


 秋の長雨は梅雨よりましだ。これから乾く季節がくるから、湿り気が重くなりきらずにただよっている。目がさめて、皆守は外から響く雨の音に耳を澄ました。木々に雫が打ち付けられ、屋根から小さく川が流れる。このアパート前の道をいく自動車が、濡れたコンクリートと擦れ合って粘り気のある音をたてていた。
 窓の外に満ちている音とうらはらに、室内にあるのは呼吸と換気音だけだった。皆守がゆっくり寝返りをうつと、横で寝ている葉佩の呼吸がリズムを崩した。起こしたか、と思って顔を見たが、まぶたは閉じたままだ。すぐに、もとのリズムに戻った。

 マンスリーで借りているアパートだが、葉佩と住んでもう二週間を過ぎる。この男と並び合って生活していると、もうこの一室が家のように感じた。見知らぬ場所ではなく、やがて追い出される場所でもなく、終わりのために用意された場所でもない。

 昨日、葉佩と尋ねていった阿門の顔を思い出した。定期検診を兼ねた訪問で、皆守が阿門の屋敷まで行くといったら葉佩もついてきた。

 皆守ら元墓守たちの身体は墓守だったときのままだから、墓が崩壊したあとも力を受け渡したりしないまま長く生活していることがまれであるとして、定期的な検診が推奨されている。ほかの病院にかかるわけにもいかないし、行けば懐かしい顔に会えるので、もと墓守はその推奨に従っていた。それぞれ都合がよいときに赴くので、行けば誰かに会えるというものでもなかったが、阿門はかならずいた。

 他の元天香の生徒と違って、葉佩は阿門に後ろ暗いところがなく、あけすけである。にこにこ笑って挨拶をし、皆守がさまざまな機械をくぐらされているあいだ、阿門と世間話に花を咲かせていたらしい。
 血を抜かれてレントゲンをとられて、いろんな数値をとられた皆守がよたよた応接室に戻ってくると、葉佩の前に出されたティーカップは半分ほどしか減っていなかった。皆守が葉佩の横に腰を下ろすと、千貫がすかさずあたたかに湯気の立つ紅茶を運んできた。茶葉のひらいたかぐわしい香りが、皆守の鼻をくすぐっていく。

『なんの話だ』
『ほとんどみんなの話。鎌治、前にここ来たときピアノ弾いてってくれたんだってさ』
『取手? 数ヶ月前にベルリンだと言ってなかったか』
『そうだ。ベルリンから戻って……検診に来た』
『ビデオに残しておりますよ。後でご覧になりますか?』

 千貫の申し出に、葉佩が嬉しそうな声で、見ます、と言って笑う。
 あと椎名さんが自社ブランドを立ち上げそうで、真里野はしばらく連絡がないらしくて、と元墓守の近況を聞いた。皆守は葉佩がつらつら説明するのを、ひとつひとつ、うんうんと聞いて相槌をうった。

 皆守が席を外していた間に阿門と千貫から聞いた話をすべて皆守に披露しおえたのか、葉佩は口を閉じてひと呼吸した。

『近頃、想うようになった』

 そのひと呼吸に、阿門がそう口を挟んだ。

 阿門は相変わらず物静かなふるまいで、たとえ話したとしても、動いたとしても、静寂を感じさせる男だった。威圧感は支配的な側面がなりをひそめて、存在感として残っている。
 低い声が、屋敷のじゅうたんを撫でつけた。皆守と葉佩は顔を上げ、阿門の次の声を待った。

『あの遺跡があったここに、ずっと學園が建っていたわけではない。學園がない時のほうが遥かに長いだろう。かつて學園を建てるとなったとき、阿門家はそれをなぜ受け入れたのか。學園は三年で生徒が入れ替わってしまう。墓守の性質から考えて、遺跡の秘密を知る者を頻繁に入れ替えることは、リスクが高いはずだ。知る者は少ないほうがよく、役目を託した者は長く務めたほうが適切だ』

 尤も、と阿門は言い添えた。
 尤も、古来より墓守はその性質によって、役目を長く果たせなかったので三年で入れ替わることがかえって好都合だった可能性はある。

『だが、それでも、秘密を知る者が少ないに越したことはない。これは確かなことだろう。ではなぜ、あの墓も阿門家も、ここに學園が建つことを受け入れたのか』

 阿門はそこまで話して口を閉じ、葉佩を見て、皆守に目を遣り、それから皆守の視線を戻した。阿門の瞳は闇の色をして、けれども屋敷の照明が映り込んでいた。

『墓は、待っていたのだろう。現状の維持よりも、変化を求めた。変わりゆく時の代替たる學園を身近に宿して、その変化の中に自らを投じたのだ。……そう想うようになった』

 葉佩は顔をくしゃくしゃにして笑った。

『阿門がそれを言ってるの、なんだか嬉しいよ』
『……それにしては、相手を選び放題で我が儘きわまりなかったがな』

 口を挟んだ皆守の悪態に、阿門がそうだな、と言って目尻にしわを集めるようにゆるめた。これが、この男のほほえみなのだった。




 それを、葉佩と朝を浴びながら、皆守は思い出した。

 阿門がものを想うように、皆守も考えていた。
 墓守の仕事に従事していたとき、あの遺跡は、基本的に排斥して自らを守っているのだと思っていた。それが当時の皆守の肌に馴染んだから、そう考えていたのかもしれない。
 だが、実際は排斥ばかりではなかった。墓は周囲を拒みながら、拒まなくていい何かを求めていた。それは、今の皆守の肌に馴染む。

 そういうものが、時を経て分かる。当時とは違う皆守が、現在の世界には存在している。

 秋雨は明るい光の中で降り注ぐ。雨雲に遮られながらもけなげに投げかけられる太陽の光は、雫によって拡散する。銀粉をはたいたような光が、いっときの彼らのねぐらに差し込んでいた。
 銀色の朝が来る。新しい日が始まる。

 皆守は、かたわらにある男の手を揺すった。

「そろそろ起きろ、時間になるぞ」

 そして、彼が起きるのを待った。それは、墓と皆守がかつて彼の来訪を待っていた時間より、ずっと短い。



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