もの足りない



 九月の下旬、転校生と共に墓地の遺跡に降りた初回は制服を着ていた。意識していたわけでもなく、偶然そうなったにすぎない。着替えるのが面倒だったし、学生服が丈夫なのを知っていた。だが、転校生が思いのほか無茶をするので、次のときから制服をやめた。傷は治るといえども、破れた制服は戻らないし、手で繕うのも厳しい。そういうわけなので、夜遊びに誘われたときにはどうなってもいい私服に着替えることにしていた。

 だが、そもそも皆守の私服のほとんどはどうなってもいい。けれども、洗うことを考えるとニットは避けようと思った。毛糸に絡まった何とも知れない生物の体液などがコインランドリーできれいさっぱり洗い落とせるとは信じていない。

 つい先週、いやに神妙な顔をした葉佩から、蟲の体液が付着した服を洗濯したら緑色の体液がどす黒くなったと報告された。水に反応したのか、時間経過か、洗剤のせいなのか定かではない。
 この學園では、衣服をほいほい買いに行けるわけではない。限られた衣服をだめにした葉佩がしみったれた顔をしているのが面白かったので、皆守はそのとき笑ったのだが、後から考えれば皆守にとってもまったく他人事ではないのだった。

 前線には出ないにしても、である。

 皆守は前線に立たない。葉佩は前に立っていくから、血しぶきを受けるように体液を浴びることになるのだが、皆守はそうではない。
 さらさらした液体を頭上に掲げた化人は、その水槽を撃つと手早いのでその液体が飛び散る。近づいてナイフで裂けば、蟲は体液がしぶきをあげ、脚が跳ね、金属くずが降り注ぐ。そのリスクは葉佩が全部もっていっていて、皆守はその一翼を担うことすらしていない。申し出たこともない。

「皆守、下がってて」
 と、葉佩はいつも言う。

 それを九月下旬は寒々しいような気持ちで、傍観者然として従っていた。それが十月中旬になってから、苦くてたまらない。

 葉佩の頭上に陰を作る化人に、いつも手足が冷える。彼は体に肌の露出を許していないから、腫れるとか爛れるとかの心配がないが、頭と顔は別だ。ヘルメットは視界にも体の動きにも制限がかかってしまうから、暗視ゴーグルだけでいるらしい。髪や頬に化人の体液が飛び散るとき、皆守は喉が絞まったような気がし、顎の根元が痛む。

 自分がすべきことの最善を、皆守はまだ見つけられていない。墓地に向かう葉佩とどういう距離で、どういう態度でいればいいのか、まだよく分からなかった。
 いつも迷っている。

 ほんとうは、皆守が自分で動いてやれるのだ。
 葉佩が広げる翼の片方を、皆守が担ってやれるのだ。皆守が肩でかばってやれるのだ。
 皆守は銃を扱う知識がないから、皆守の肩の後ろから葉佩が撃てばいいのだ。

 そのすべてができない。
 いや、できるのだ。できるのにできない。葉佩の後ろに控えて、彼が浴びる飛沫の一部を共に受け、拭える部分を拭ってやることだけだ。
 爪先から溶けそうだ。溶けてしまったら悩まなくて済む。

 だが皆守は今日もまだ存在していて、得体の知れないものが付着した服といつも着る服を一緒に洗いたくないな、などと考えている。
 現実は無情にも続いている。

 汚した服だけを抱えてランドリー室へ向かうと、ドア越しに乾燥機の動く音がしていた。夜更けだが、先客がいるらしい。明日に体育があるのに体操服の始末を放っておくような生徒が山ほどいるので、夜更けに慌てて洗濯に来る生徒がいたとしても納得できる。先客にためらうたちではないので、皆守は気にせずドアを開けた。

「……あ」

 ついさっきまで皆守に背を見せていた男が、乾燥機の前に立っていた。皆守が入ってきたときは驚いたふうだったが、入ってきたのが皆守だと分かると途端に破顔した。

「洗濯? さっきはありがとね」

 皆守はくわえたままのパイプを噛んだ。だが、そのままでは返事ができない。片手でパイプを外して、皆守は息を漏らすように挨拶を返した。

「……よォ」
「もしかして、さっきので汚れた? ごめん」
「お前が謝ることじゃないだろ。こっちだって織り込み済みだ」

 そっか、と葉佩は言った。

 葉佩は、謝罪と礼をよく口にする。礼儀が正しいということより、他人に対して不義理がないように意識しているのだ、という感触があった。そして、その不義理がないように気遣われている相手に、皆守も含まれている。
 皆守は顎の付け根が痛むような心地がした。

 黙ってドアを閉め、葉佩が使っているところから離れたところにある洗濯機に、服を放り込んで洗剤を入れた。
 そのあいだに葉佩の使っていた乾燥機が終わりのブザーを鳴らした。離れたところで葉佩が服を持ち上げて部屋中央の台に広げる、その気配を感じながら皆守は洗濯機のスイッチを入れた。

 後ろを振り返ると、手早く服を畳み終えた葉佩がいすに座っていた。ウキウキした、ひと待ち顔をしている。この場で彼が待つような相手というのが誰なのか、皆守はうっすらと感じ取ったが、何も気づいていない顔で尋ねた。

「……お前、まだなんか使ってるのか?」
「おれは終わったよ」
「じゃあ行けよ、俺もいったん部屋に戻るから電気消すぞ」
「えッ、皆守帰るの」
「だるいんだよ、こっちは。睡眠時間が削られてるからな」
「うーん、それを言われると立つ瀬ないな……」

 電気消すぞ、と照明の切り替えスイッチに手を当てた皆守が言うと、葉佩が慌てて立ち上がった。彼がちゃんと動いたのを見て取ってから、皆守は電気を消した。
 ランドリー室が暗くなる。今しがた、皆守が動かした洗濯機からは、水が注がれる音が聞こえている。窓にはカーテンがかかっていて、秋の夜空は見えなかった。
 廊下にまばらについている蛍光灯が、薄ら寒いような白い光を投げやりに放っていた。皆守は葉佩と二人で、その廊下に出て行く。

「一人で乾燥終わるの待ってたとこだったからさ、皆守が来てラッキーと思ったんだよな」

 空気を含ませた小さな声で、葉佩がそう言って笑った。

 寮の廊下は雛人形の顔のように真っ白で、そこに白い蛍光灯が反射するものだから、葉佩の顔色を青白く見せていた。皆守はその横顔をちらとだけ見て、返事をしなかった。黙ったままの皆守を、葉佩も同様にちらとだけ見る。

「まだしばらく夜でいいのになあ」

 と、葉佩がこぼした。皆守はその浮ついた願望を、鼻で笑う。

「それは、俺も睡眠時間が確保できて助かるな」
「悪いけど、夜がもうちょっと長かったら、皆守はもうちょっとおれに付き合うということになってる」
「はァ? たまったもんじゃない。俺は今日ぐらいの時間でも腹いっぱいなんだよ、寝かせろ」
「ええ?」

 葉佩が笑った。皆守は笑わずに、しかめっ面のままで、寮の廊下で別れた。葉佩が振った手のひらに、皆守はおざなりな手つきで返す。

 あと三十分ほどしたらまたランドリー室に行って、洗濯物を乾燥機に移動させなければならない。その三十分を、皆守はベッドで横たわって、天井を眺めて過ごすつもりだった。



   *   *   *



 葉佩を何度か肩でかばったから、両腕の可動範囲が等しくない。そもそも腰に負った傷が、皆守の動きを半分以上制限していた。葉佩が撃って、負った傷だ。皆守はそれをまったく厭わない。

 でも、それでようやく皆守の運動能力が常人に並ぶようになる程度のものなので、呆然としている時間もなく皆守は墓地を掘り返す労働に駆り出された。手を動かしていても、頭には靄がかかっていて、判断能力は普段の半分以下だった。
 だから、夜中からずっと働きづめの皆守を椎名が慮って、労働から解き放ったときには制服がこれでもかというほど汚れていた。

 十二月二十四日は、制服で墓地に入った。それ以上の服を皆守が持っていなかった。
 制服の破れや擦れはもはやどうだってよかったのに、椎名はその白魚の手で皆守のスコップを取り上げて、皆守に言い聞かせるように告げた。

「スラックスは、きっとランドリー室で洗えますわ。ネットに畳んで入れることが大切ですの。洗濯機に放置しては皺がついてしまいますから、すぐに引き上げて、皺を伸ばして干してくださいねェ」

 皆守はそうか、と答えた。少なくとも、皆守はそう答えたつもりだった。

 何千年もの時間は、岩をも風化させる。腐食を防ぐ棺に横たえられていなかった、いつ埋められたのかも分からない身体は、くるまれた真白い布と共に土にかえっていた。繊維も肉体も土にまぎれてしまっている場所は、その一帯が似たような状況となっている。いつごろ埋められたものなのか、いつからこれが続いていたのか、元墓守たちのすべてが思ったに違いないが、誰も口にはしなかった。連綿と続くひとびとの罪だ。その終止符を打ったのが自分の世代であるということを、彼らはせめてもの慰めにするしかない。

 皆守は寮に戻って、服を着替えた。あんなことがあったのに、当たり前のように着替えができるのは不思議だった。思い返すと、全身が痛い。
 脳の思考する部分が狭まり、皆守自身を責め立てるような気がした。

 葉佩に傷を付けた。その後に、傷つけた以上にかばってやれた。
 でも、皆守は終われるものなら終わりたかった。終わりたいと思ったのに、続いてしまった。この夜で終わっていいと思っていた。

 本当に終わりたいと思ったのなら、終われなかったことを惜しんでいいはずだ。

 なのに、なぜか皆守は終わらなくてよかったと今、思っている。
 それが何を示しているのか、いまの皆守には分からない。皆守は自分が感じていることまでしか、考えられなかった。自分の感情が何から生まれ、何によってもたらされ、何をめざしているのか、考える脳の余裕が尽きていた。

 皆守はふらついた足で汚れたスラックスを抱えた。学ランも洗ったってよかったが、破れがひどい。ネットに入れたとしても、破れが広がってしまうのではないかと思われた。

 ランドリー室に向かう。早朝の学生寮は静まっていたが、普段の朝とは違う気配が波紋のように広がっていた。ざわめきが息づいている。その中を、皆守は歩いた。

 歩き方なんてもうよく分からないのに、気がついたときにはランドリー室についていた。ドアを開ける。誰もいなかった。
 皆守はスラックスを畳み、共用になっているネットに入れて、洗濯機をセットした。ふつうの衣類用とは別の洗剤を入れる。電源をつけて、洗濯開始のボタンを押すと、水が流し込まれる音がした。

 日常の音だ。

 皆守は、息を吸い込んだ。ランドリー室の洗剤と、水の匂いがした。

 部屋に帰っては、またランドリー室まで来られるか分からなかった。だから、皆守は置かれているいすに座った。三十分、ここでじっとしていることになるが、その苦痛もよく分からなかった。何をすれば正しいのか、よく分からなかった。

 皆守が座り込んで息を吐いたとき、ドアが開かれた。反射的に、皆守は出入り口に顔を向けた。入ってきた顔は。皆守の知っている顔だった。

「甲太郎か、怪我は」
「……そんな言うほどじゃない」
「そうか」

 入ってきた夕薙は柔らかい声でそう尋ね、皆守の答えを聞くと頷いた。答えた後、扉を閉じるように黙った皆守の様子を見て取って、夕薙はそれ以上の言葉を続けずに洗濯機へ向かった。彼はここしばらく表向きの墓守として墓地をよく歩いていたから、昨夜から今まで働き通しだったろう。

 皆守は黙って、床を見つめた。水場の床はつやつやとしたタイル敷きで、理科室の床に似ていた。

 夕薙が、洗濯機を操作する。回り始めた皆守の洗濯機を追うように、水が注がれる音がした。

「じゃあ、甲太郎。マミーズの席、取っておいてやろうか?」
「……まずは寝る」
「ああ、それもそうだな。休んだら、飯を食え。体力を回復させないとな」

 夕薙は皆守にそう笑いかけた。その言葉が、夕薙のどこから発されているのか、皆守には判断できない。だが、夕薙の性質から考えて、彼はあくまでも気遣いとして皆守に告げてくれたのだろう。

 夕薙は、じゃあな、と言ってランドリー室のドアに手を掛けた。

「……大和」
「うん?」

 名前を呼ぶと、夕薙が振り返った。どうした、と聞かれたが、皆守は返す言葉が出てこない。自分が呼び止めたのに、言葉として口が動かなかった。

「……なんでもない。じゃあな」
「ああ。何かあったら、連絡してくれ」

 夕薙はそう言って、気遣わしげな顔をしたものの、結局ランドリー室を出て行った。その背中を見ながら、皆守は思った。

 葉佩。
 あの十月の夜。ランドリー室で顔を合わせた葉佩。あのとき、彼は皆守と話したかったのだ。
 あのときからすでに、いやもしかしたらそれ以上前からすでに、もしくはいつも、彼は皆守と向き合いたかったのだ。話したかったのだ。

 学校で同じクラスにいても、屋上で並んで寝転がっても、マミーズで同じ鍋のカレーを食べても、遺跡で共に深く深くへ潜っていっても、それでも彼は足りなかった。

「……俺もだ」

 皆守は座ったまま、両手で顔を覆う。その指の隙間から、光るタイルが見えた。

 俺もだ。
 いま、おまえと話したい。

 あの秋の夜、一台の洗濯機から水の流れる音が響いていただけのあの夜、俺はおまえの望むことをきっと分かっていた。分かっていたのにそれを掬ってやれなかったのは、ここで満足するまで話すことなんてできないと思っていたからだ。
 満足できるはずもなかった。三ヶ月共にいて、まだ満足していないのだから、あの夜も、皆守の洗濯が済むまで共にいたところで満足なんてできるはずもなかった。
 満足に近づけば近づくだけ、足りないときの飢餓が強まる。満ちるまでの感覚を知らなかったときに戻れない。皆守は、それを知っていた。

 皆守は一方的に、葉佩との時間はいつか終わると思っていた。葉佩を喪失したときの永遠の飢餓が、あの秋の夜の皆守には音を立てずに忍び寄っていた。
 葉佩はそんな未来を、あのとき考えてもいなかったに違いない。皆守が感じていた永遠の飢餓への恐れが、あのころの彼にはなかった。だから葉佩はあの夜、皆守を呼び止められた。

 九龍。
 あのとき呼べなかったおまえの名前を、いま呼びたい。おまえを呼び止めたい。この部屋で。日常の音を聞きながら話したい。洗濯機の回る音に阻まれるせいで、いつもよりちょっと声を張って話すのだ。

 あの夜、止まってやれなかった。たった三十分だったのに。止まってやればよかった。

 遺跡から助け出されてから、皆守の目の前で崩れ落ちて運ばれていった葉佩は、いまやどこにいるのか知らなかった。
 皆守は玄室で何度か、彼の受ける傷を代わりに負った。それが鈍く痛み、呼吸するように疼くことが、皆守の唯一のよすがだった。

 こうすればよかった、ということが他にもやまほどある。
 話せばよかった。呼べばよかった。部屋に入れてやればよかった。飯を共にすればよかった。遺跡に同行してやればよかった。
 皆守の思う限り、皆守は彼と共にいたのに足りない。まだ足りていない。

 もっと共にいられた。

 傷が疼く。傷が痛む。皆守の鼓動に合わせて、痛みが脈打つ。
 生きている。皆守はまだ終わっていない。

 ああ、だから自分は、終わりたかったのに終われなかったことが惜しくないのだ。

 九龍。
 俺はまだ、おまえと共にいられる。



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