透明人間



 葉佩が転校してきた日からこっち、皆守はいくらか驚きへのハードルが低くなった。たいていのことじゃ驚かないし、平静でいられるほうだ、と思っている。
 珍妙な行動をしているやつがいても、夜中にウキウキの格好で尋ねてくる級友よりは理解の範囲に入る。クラスのうしろのほうで、箒とゴムボールで野球のまねごとをしている生徒がいても、そんなもん小学校で卒業してこいくらいのことしか思わない。

「おい」
 皆守は、目の前の葉佩にそう言った。
「俺はこんなのいらん」
 そう続けて、渡されたものを突っ返す。せっかく渡したものをすげなく突き返された葉佩が「ええ?」と言った。その眉尻が下がっているので、皆守はうっと思う。

 他人と話していて、意見が完全な一致となることはほとんどない。どんな気の合う相手でも、食べ物の好みは違うし、応援する球団も違うだろう。そのすれ違いがあったときに、皆守は毎度、うっと思う。
 まるで、傷つけたような気がする。
 でも、葉佩は嫌なことは嫌だと言って、それをずるずる相手への評価に引きずらない性質だ。だから皆守は「なんだよその顔」と返せた。

 葉佩は皆守が受け取らなかった、紐を結わえた形の護符を下ろさなかった。皆守に向けて差し出した格好のままだ。皆守は目を余所にやった。

 かなり夜の更けた時間に神妙な顔で葉佩が尋ねてくるものだから、こんな時間から墓地に行くのかと部屋に入れてやったらこれである。彼にしては手抜きの挨拶をするやいなや、皆守に押しつけるようにその護符を差し出してきた。それが何なのか、葉佩にしょっちゅう付き合って墓地へ行っている皆守には分かっている。これは、自分にはいらない。

 居心地が悪くなって、皆守は指先でパイプを唇に寄せた。火を付けて、ラベンダーの香りを斜め下に吹く。

「そういうのは、お前が持ってろよ」
「でも、皆守、いつもしんがり引き受けてくれてるでしょ。おれがフォローしきれないかもしんないし」
「何言ってんだ、そういうのお前が崩すだろ。すぐこっちのほうまでフラフラ来やがって」
「いやまあ、それはそうか。うーん」

 葉佩はもごもご言って、護符を皆守に差し出す姿勢のまま、ベッドに腰掛けた。ついさっきまで皆守が横たわっていたので、布団が波になっている。その波打ち際の部分に、葉佩が座り込んだので「おい」と皆守は言った。

「さっきまで寝てたんだぜ、俺は」
「うん。それはごめん」
「……帰る気にならないようだから聞いてやるが、何かあったのか」

 葉佩は護符を枕の横に置いた。皆守はそれをちらと見たが、指摘しないでおいた。

 皆守はデスクチェアをごろごろ引き出して座り、葉佩のことを見た。彼を出迎えたときはうとうとしていたのだったが、今は目が冴えていた。葉佩の顔色や、せわしない目線の動き、落ち着かない指先などを目で追うことができる。何かあったな、と思った。

 けれども何かあったとして、皆守に話すかどうかは彼が決めることだ。

 皆守は話をうながすための疑問だけ投げかけて、またパイプをくわえた。花の香りがかぐわしさを運ぶかたわらで、葉佩のまとわせた砂埃や硝煙の匂いが苦くさせている。その苦さを打ち払う気になれなくて、皆守はいまの自室に満ちている空気もともに吸い込んだ。

 葉佩はよろよろした調子で話し出した。

「今日、一人で墓地行ってたんだけど」
「行くなよ、呼べよ」
「体育のときだるそうだったじゃん。みんな學園祭の準備で楽しそうだし、呼ぶのも悪いなと思ったんだよ」

 俺はいつもだるそうにしてるだろ、と思った。だが、今日の体育がだるかったことは事実なので言い返せない。

「そしたら、柱の陰に隠れてた磐座に気づかなかったんだよね。そのまますたすた行っちゃって、後ろから音がしてようやく気づいた。でも、音がしたときに気づいたら遅いじゃん」
「……お前」
「いや、無事無事。平気でしょ今」

 葉佩は両手両足をばたばたさせてみせた。皆守は目を細める。
 皆守の目では、左足の動きが若干にぶいように見えた。右足に負傷したのか、と思った。右足を負傷したから左足を酷使して、井戸で傷を癒やした後もその重たさが残っているのだろう。あの井戸がどこまで治せるのか皆守には定かでなかったが、少なくとも寝不足を追い払ってはくれないから、疲労感には効かないのではないかとにらんでいる。
 負傷した側をかばった左足がにぶくなるくらいなのだから、かなり深手だったのだろうと想像できた。皆守は息をついた。

「……あのな、誰かがいればお前を引っ張って行くなり助けを呼ぶなりできるだろう。一人で行くな」
「それは身に染みた。ごめん。でも、おれがそうなるってことはさ、みんなもそうなるってことなんだよな、と今さらながら思って。みんながこうなっちゃったらどうしよ……」
「こうなっちゃったらどうしよ、と思うくらいの怪我したのか」
「背後だったから。でも、それはもう治ったから大丈夫。……心配かけてごめん」
「謝れっていう意味じゃない」

 葉佩が着ているベストには、彼の繕いがあった。手慣れてきれいなものだったが、それは彼の過去の負傷を意味している。葉佩の負傷を、皆守も目の当たりにすることがあった。擦り傷も切り傷も、打ち身も捻挫も、葉佩にはよくあることにすぎないのだった。

 皆守はまた、苦さを噛みしめた。まぶたの裏に、葉佩の血の色を思い出した。考えているだけでは皆守の思い出していることなんて伝わらないから、葉佩はほほえんで話を続けた。

「もらってよ。皆守、確かに身軽だなって思うけど、おれが不安になっちゃうから」

 皆守は、パイプを口から離した。
 これだから、他人っていうのはいやなんだ、と思った。

 皆守はもともと、驚くとか感動するとかの心の動きから距離をおこうとしているほうだ。気を抜いていると心というのは氷の上を滑るような速さで傾いていくので、皆守はしっかりと気を張って日々を生きているのだった。自分だけで完結していればその管理が楽になる。あんまり他人と関わり合いになりたくない。
 他人といると、すぐに傾く。相手のことも傾かせてしまう。その責任を、皆守は取れない。だから人付き合いは少ないほうがいい。でも、葉佩も八千穂もそんな皆守のことなんて知らないから、当たり前のような顔して傍にいる。水平で穏やかでいられたら皆守はそれでいいのに、それじゃつまらないだろうという顔で、皆守を思う存分振り回していく。
 皆守は透明な氷付けでいいのに。誰にも気にされなくていいし、誰のことも気にしたくないのに。面倒だから、このままでいいのに。

 だが、いまの葉佩の不安がひたひたと皆守に迫るのも感じる。一人で行くな、と言ったのは、今回は皆守が先だった。一人で行くなと言われた葉佩は、誰かを連れて行くことになる。その誰かは葉佩が誘ったことで、傷つく可能性が上がる。それを葉佩は見過ごせないし、結果の責任も取れない。
 その一方で、皆守は葉佩が一人で墓地に行くことに何も文句をいわず許容することなんてできない。皆守は透明でいたいのに、透明になれない。

 皆守が一人で氷付けになっていたいように、葉佩は他人と同じ方向を向いていたいのだ。今で言えば、皆守と、そうしたいのだ。

 やめてくれと思ったが、言えなかった。どう言えばいいのか分からなかったし、ここでわめいてもどうにもならない。皆守が突然激高したように見えるだけだ。

「……分かった」
 そう答える道しか、皆守には見えなかった。

 葉佩はぱっと顔を明るくさせた。皆守の返事このひとつで、彼の不安が全部晴れたような顔だった。そんな顔をするな、と言いたかったが、やはり言えなかった。こんなに言えないことがたくさんあるのに、俺はお前の友の顔をしていていいのか。

「じゃあこれ、置いとくな! もしなくしたとかあったら言って。都合する宛てはあるから!」
「……ああ。お前、もう寝ろよ。疲れてる顔してんぞ」
「え、マジ? そっか……夜中にごめんね。入れてくれてありがとう」
「おう」

 葉佩がベッドから立ち上がる。その動作が、座り込んだときとは打って変わって溌剌としていた。それを見て、皆守はゆっくりとデスクチェアから腰を上げた。

「じゃあ、皆守。また明日、おやすみッ」
「ああ、また明日な」

 葉佩が笑ってそう言うから、皆守も挨拶を返した。彼が廊下に出て行く。それを見送ってから、音を立てないようにドアを閉めた。

 来客がいなくなった自室は、皆守のことを冷たく見下ろす。広い場所へ出て行く葉佩の残した香りが、そよ風のようにただよっていた。それを吸い込んだ。一人きりでは、この苦さに耐えきれない。

 皆守はまたパイプを唇にはさみ、前歯で噛んで支えて火を付けた。オイルの燃える音が砂煙の音を立てる。花の香りが皆守のことを取り巻いた。水の通う花のそよぎ、土にめばえる生命の名残が、いま香りとしてだけ皆守のまわりに壁を作る。そうして、皆守はまた氷付けに戻ろうとした。

 細く息をつき、ベッドに腰掛けた。もう寝よう。寝てしまったら、ただ明日がくるだけだ。
 部屋の電気を落とした。天香は新宿に建っている。空は真夜中でもうっすらと明るく、その明るさが皆守の部屋にも差し込んでいた。

 布団はもうめくれていて、そこに身体を横たえるだけでよかった。さて、と姿勢を傾けたところで、それが目に入った。葉佩が置いていった護符だ。皆守はそれを見て、見つめて、どうしたらいいのか分からなくなった。だから、明日の自分に任せて眠ってしまおうと思った。

 枕元に護符を置いたままで、ベッドに横たわる。体温よりも低いシーツがひんやりする。それに身を縮めると、だんだんとあたたかくなってくる。そのあたたかさが全身をくるむのと同じように、皆守はまぶたをうとうとさせた。
 そうしながら顔のかたわらに手を滑らせると、沈んだマットレスに従って片寄ってきた護符が指先に触れた。
 葉佩が置いていった護符、と眠たさに身を任せようとしている皆守の頭のかたすみで理解した。皆守の身を守るもの。葉佩が、守ろうとしたもの。指先に触れている。

 それは、皆守の眠りを妨げなかった。指先からとろとろしたものが流れ込んでくる。
 眠れば明日が来る。明日が来れば学校へ行く。そこには、葉佩も来るはずだった。



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