存在する



 アフリカから戻ったという葉佩は、疲れをすこしも滲ませずに相変わらず晴れやかだった。皆守は正直なところ、だいたいいつも心配しているので帰ってきた葉佩の顔を見ると安堵する。皆守が心配したところで葉佩の仕事の成果には変わりないし、彼が優秀であることも疑わない。いまの自分が彼についていけば、絶対に何かあったときの助けになれるとも自惚れていない。だが、離れ離れでいるときの皆守が彼にしてやれることは心配くらいである。

 それを葉佩におおっぴらに言ったことはないが、察しているのだか元々そういう性質なのだか、まめまめしくメールを寄越してくる。日本に来るとき、彼は「帰る」という。その一瞬一瞬にわずかの安息を得ていたのであるが、実際に彼の顔を目の前にしたときの安堵は何にも勝る。

 空港の広いソファに座っていた皆守に、葉佩は屈託なく手を振った。そこに何の重さもないのを見て取って、皆守はまた安堵する。

 今回は彼の所属している協会の斡旋ではなくて、旅客機に乗って帰ってきた。他の旅行客に混じって、ただのバックパッカーのようだ。
 彼の隣には夕薙がいる。夕薙のほうが別件で先にアフリカへ行っていて、現地で合流したのだろう。夕薙も相変わらずの気楽そうな顔をしている。夕薙にめざましいことがあれば連絡はあるはずだから、皆守は何も聞かずに彼らを迎えた。

「よう、元気そうだな」
「甲太郎も元気そうじゃん。あ、大和とはね、メールしたら大和も偶然近くにいるっていうから待ち合わせて帰ってきた」
「はは、近くといっても、同じ大陸くらいの精度だがな」

 夕薙はからからと笑っている。皆守には彼らの足取りがどれほど軽いものなのか分からないが、大学の連中が東京タワーで待ち合わせをするより手間がかかるということは分かる。それを笑い飛ばしている二人を見て、皆守はまた安堵した。古い友が、自分の望むように行動できていることが嬉しかった。
 皆守の顔色を見て、夕薙は「変わらないな」と言った。

「俺も、甲太郎の顔が見られてよかったよ」
「顔だけでいいのか?」
 皆守は唇の端で笑って答えた。夕薙は眉を上下させる。皆守はこういう冗談も言えるようになったのである。

「いま声も聞いたしな。後がつかえてるんだ、実は」
「えッ、マジ」
 そう言ったのは夕薙の真横にいた葉佩だった。素っ頓狂な声をあげて、夕薙をまじまじと見上げる。何も知らずに同行していたらしい。

「もしかして、おれに合わせてくれた? ありがとう」
「九龍についていけば甲太郎にも会えると思ったからな、俺のほうこそありがとう」
「いやいやそんな」
「甲太郎はなにでここまで来たんだ?」
「電車。品川に出るならあっちだ」
「そうか、品川に一本で行けるんだったな」

 夕薙が頷いて、そちらへ足を向けた。本当に後ろが差し迫っているらしい。
 三人で手を振り合って別れた。まだ午前だから、気がかりもない。品川からどこかへ移動しても、日のある時間に動けるだろう。

「おまえ、飯は?」皆守はそう尋ねた。

「腹は空いた。でも甲太郎、朝ご飯食べてきたでしょ」
「そこらの喫茶店でいいか。なんか飯出てくるだろ」

 ほくほくした顔の葉佩を連れてターミナルを歩き、目についた店に入った。チェーン店らしかったが、皆守は知らない店だった。

 朝食の波が落ち着き、昼をとるには早いような時間なので席は空いていた。すでに席を埋めている人間はノートパソコンを開いたり、本を読みながら食事をしたりして、長居をしているふうだった。時間つぶしでいるのかもしれない。

 店員に好きな席へどうぞと言われたし、混み合ってもいなかったので広々と四人席テーブルを二人で使った。葉佩は背負っていた鞄を床に置く。

「荷物置きお持ちしましょうか」
 と申し出た店員に「大丈夫です」と言って断った。

 二人で向き合って座り、皆守はコーヒー、葉佩はナポリタンとコーヒーのセットを注文した。ナポリタンは日本発祥なので、葉佩はこれがある店では喜んでこれを注文する。寿司より天ぷらより「舌馴染みがいい」とふざけて言って、喜ぶ。ケチャップにコーン缶がいい、それにウィンナーの不揃いなスライス、千切りにしたピーマン、と夢見るように電話口で歌われたこともある。

 客席はまばらではあったが、朝食の忙しさが去ったばかりの気配が残っていた。もう誰も座っていないテーブルに残った皿を下げ、拭き掃除をする店員もいる。皆守はその様子を眺め、コーヒーが出てくるまでしばらくかかりそうだなと思っていると、葉佩が「今回さ、神鳳さんにも会ったんだけど」と話し出した。皆守はひっくり返った声で「は?」と言った。

「神鳳? なんで」
「会ったっていうか、来てもらったっていうか」
「来てもらった? アフリカ行ったのか? あいつ」
「うん。合計で一週間くらい時間とってもらったから、申し訳なかったな。信頼できるシャーマンがいないといけなくて」
「なるほどな」

 信頼できるシャーマンという言い方は、世間一般から考えれば前半と後半でずいぶん矛盾した言葉だろうが、葉佩と皆守らのあいだではもうすこし具体的な意味をもった。地に足がついた、生きた言葉なのだった。確かに、実感として存在する言葉なのだ。

 神鳳は自身の生まれからある特性が秀でていて、それが高校生活を経て盤石になった。皆守が知る中で彼はもっとも「信頼できるシャーマン」といえたし、葉佩にとっても同様だろう。神鳳にとっては、魂とその残滓が、木になるりんごや街ですれ違う人々と同じくらいの輪郭で存在しているのだ。
 自分の知らない場所にも真実はあるものだ。それを皆守も葉佩も分かっている。神鳳もそれを知っているから、葉佩の依頼を疑わない。信頼には信頼がかえってくるものなのだ。

 葉佩は、アフリカに立つ神鳳の姿をまぶたの裏に思い出すような目をして言った。

「神鳳さん、ガイドもなしでスタスタ歩いて行くからすごかったな」
「どこ行ってたんだっけ、おまえ」
「ボツワナ。同行人はみんな英語話せたから、神鳳さんも問題なかったよ。それに、人はどこでも人だから大丈夫だって神鳳さんも言ってた」
「いや……そうじゃなくてな」

 神鳳のそういうところは心配していない。繊細そうななりだが、弓のように心身が強靱だ。

 話していると、コーヒーとナポリタンが出てきた。ナポリタンのお客様、といわれて、皆守が手のひらを葉佩に向ける。松葉のようなピーマンと、笹の葉のようなウィンナーがまざったナポリタンが葉佩の前に置かれた。おお、と葉佩が嬉しそうな声をあげた。皆守は皿を一瞥した。見ただけで味が分かる。これはシンプルで旨いやつだ。

 ふだんよりも早い朝に起きて家を出て、駅前でモーニングを食べカフェインをとってきた身ではあるのだが、ひとの食事を見ていると腹が空く。

「俺もなんか頼めばよかったな」
「今から頼む? 気にしないでいいよ」
「どうすっかな」

 テーブルのすみにたてていたメニューを広げて、皆守は軽食の欄を眺めた。ケーキを食うという気分ではないが、葉佩と同じナポリタンを頼むというのも芸がない気がする。だからといってトーストでは味気なさすぎる。
 どうするかな、と本気で悩みはじめたころ、葉佩が「あ、甲太郎」と言った。

「なんだ」

 メニューを眺めながら応じると、「これ、忘れないうちにあげる」という言葉と共に、テーブルの上に何かが置かれる音がした。小石を転がしたような音だったので、皆守は気楽に顔を上げた。こいつ、いつもいつも何か持って帰ってくるな、だからといって日本に帰国したやつに日本の土産を渡してもどうにもならないしな、というくらいしか考えていなかった。

 エビカツサンドにしようかなと思いながら、そういうつもりでメニューから目を上げた。口の中は完全にエビを迎える準備が整っていた。
 テーブルの上には、小石が数粒あった。小指の先より小さい。持ち上げてみると、湿気で固まった三温糖みたいだったが、力を込めても砕けなかった。

「ポケットに入れてたからさ、忘れて洗濯しちゃったらヤバいって思い続けてここまで来た。飛行機ん中でずっと言ってた。大和がしゃべっとけば忘れないって言うから、ホント、めっちゃ言ってた」
「……おいこら」

 この小石が何だか分かったので、皆守は焦った声が出た。

「これおまえ、そんなコロコロ転がして持って来るような、は? おい、これポケットに入れてきたのか?」
「うん。でもそんなすごいのじゃないよ。ちょっとしたお手伝いしたらくれたやつ。磨いたら全部消えると思う」

 ダイヤモンドである。まだ磨かれていない、ラフのやつだ。

 ボツワナはダイヤの産出量が世界第二位だが、そんなことは皆守も知らなかった。ただ、アフリカに行った葉佩が持って帰ってきた小石で、土産に値するようなもので、固まった砂糖のような見た目になるもの、という条件から考えた。

 ダイヤの原石を自分が触る日が今日だとは思ったことがなかったので、皆守の口の中からエビがいなくなった。

「え、そんな顔する? 甲太郎、誕生日四月だしちょうどいいや、と思っただけなんだけど」
「四月だとなんかあるのか」
「ダイヤは四月の誕生石でしょ」
「覚えてねえよそんなもん」

 あはは、と葉佩が笑った。
「ほんとに、ちょっとした依頼っていうか、自転車修理してあげたんだよね。そしたら、その人がくれた」
「いや、びっくりしただけだ。……ありがとう。こんな小さくてもきれいなもんだな」
「ね。いろいろ混じってるから、砕けちゃうみたいだけど」
「今日、手ぶらで出てきたんだよな、俺」
「はは、ポケット入るよ」

 ポケットに突っ込むのはいやだな、と思った。思ったが、今日の皆守は本当に財布と携帯だけ持って家を出てきたので、しまうところがなかった。財布の小銭入れに入れることも考えたが、硬貨とぶつかって砕けたらもっといやだなと思った。

 たいしたことないと言いつつ、葉佩が気を遣って持ってきたことが分かる。だから皆守は不注意に扱いたくなかった。葉佩がそれが当たり前だというような顔をしていたし、皆守もそうだった。

 店ではテーブルの端に寄せておき、エビカツサンドを手早く食べた。エビを食べながら、葉佩と話しながら、目がちらちらテーブルの端を見てしまう。目を離したら、転がっていきそうなのだった。
 店を出るとき、ほかにどうしようもなくて、ポケットに入れた。

 葉佩と並んでターミナルを歩き、道をぶらぶら歩いた。葉佩がきっぷを買うのを待って、改札を通り、電車を待って、電車に乗った。空港行きの電車は荷物置きを広くとってあるので、葉佩にもちょうどいいのをふたりとも知っている。
 葉佩が荷物を置いたすぐ横の席が空いたので、ふたりで座った。葉佩が荷物を整理するというので、それについていく腹づもりだった。

 座ると、腰元あたりで服が丸まってしまう。その拍子にあのダイヤが落ちてしまうんじゃないかと思って、皆守はポケットに手を入れた。指先で、その粒の数をかぞえる。五粒、確かに入っていた。だが、はらはらする。
 ダイヤがちゃんとポケットの中にあるか確認しながらしながら、けれども顔ではなんともないようなふうにして、葉佩の部屋まで行った。葉佩もこんなことをして来たんだろうなと思うと、気苦労がしのばれた。
 はらはらして仕方がないので、彼の部屋に行ったら適当な小さな袋をひとつ、もらおうと思った。



BACK