真人間



 三年の三学期はセンターが近いことにもあって、始業式のあとは授業がない。授業がないのに、一月の八日から校舎に出向かされる。八日は土曜日だったが、この高校は私立なので土曜日は休みではないのだった。

 皆守は、教室でぼんやりした。いすと机の間隔を広くして、だらけた姿勢で座る。座っているというより、引っかかっているといったほうがいいようなくらいだった。
 皆守は今まで始業式に出席したことがなかったので定かでないのだが、おそらく始業式は講堂で執り行われる。三年生たちはもう進路が決まっている者とそうでない者とのあいだに、壁が生まれていた。ずっとグループでおしゃべりに花を咲かせ、どこに行くのでもつるんでいたような奴らが離れ離れになっている。皆守はそれを見て、苦いものを飲んだような気分になる。

 教室から講堂へ移動していき、砂時計のように生徒がいなくなった。グループが分かれたので、一気にいなくなるということはない。ただ少しずつ、移動していく。

「甲太郎」

 呼ばれて、顔を向けた。夕薙が制服姿で立っている。珍しいなと思ったが、始業式があるからか、と気づいた。

「せっかく出てきたのに、行かないのか」
「いま、ちょうど考えてたとこだ」
「ほう、それで? どういう結論になった」
「俺はここから出席する」

 夕薙がそうか、と言って笑った。皆守にそれ以上、強いることを言わないつもりでいたらしい。ちょっと言ってみたくらいの気持ちなのだろう。

 夕薙は皆守の机を離れていった。教室の入り口付近で、八千穂と何かを話してから、白岐と共に三人で廊下を歩いて行くのを、皆守は視界のすみで見ていた。やがて教室には誰もいなくなって、しんとする。
 町中に建つ学校ではないので、外の新宿の街のにぎわいなども届かない。二階下の講堂からは三年の教室までは、何も聞こえなかった。

 静かだ。男子寮は休暇中でもせわしなかったし、今年の年越しは皆守がここで過ごしてきた中でもっとも慌ただしかった。だから、思えば今年に入ってから初めての静寂であったかもしれない。夜中の静けさは、学生寮ではまやかしだ。すぐそばで学友たちが暮らしている気配は常にあり、静寂には決してならない。
 皆守はもうそんな夜を暮らして三年になる。さすがにここまでくると、うっとうしいだのやかましいだの思うことはほとんどなかったが、こうして静かな中にいると、あの場所はやかましいところなのだなと感じる。

 空を雀が二、三羽連なって飛んでいく。一月の空を薄く覆う雲が太陽の光を拡散させて、障子越しの光のようになっていた。乾いた風が、細く開けられたままの窓から吹き込んでくる。寒いので閉めたいのだが、そのためには席を立たなければならない。それがめんどうで、皆守は放っていた。

 階段を上ってくる音がした。とんだ遅刻野郎がいたものだ、と皆守は自分のことを棚に上げて考えた。だが、その小さな足音が近づいてくると、遅刻している人間の焦りが一切ないことに気がつく。生徒じゃないな、と皆守は思った。かといって雛川でもない。雛川にしては、歩幅が大きかった。でも男性教師ほど広くもないし、足音も決して大きくない。三年のフロアまで上がってくるような教師がこの時間にいるかどうか、皆守は頭の中の教員リストを広げた。
 答えが出るのと、その教員が教室に入ってくるのはほぼ同時だった。

「やっぱりここにいたか」

 予想しているままの声が聞こえる。のろのろ視線を向けると、瑞麗がドア枠に手を掛けて立っていた。
 皆守はやっかいなやつが来た、と思った。雛川が来てもやっかいだが、瑞麗はまたベクトルの違うやっかいさがある。

「何しに来た」
「きみを探していた。話があってね」
「なんだよ」

 瑞麗はがらんとした教室を物珍しそうに眺めながら入ってきて、皆守の横に座った。座ってから、そのいすの小ささに微笑むようなそぶりをみせた。机に肘をのせて、皆守に向き合う。

「これは、もっと前々から、私から持ちかけるべきだったのかもしれないと今になって思う」
「何の話だよ」
「都合がいいときでかまわない。私と話をしないか」
「は?」
「もう、きみとは親しくしすぎたからな、今さらカウンセリングの体は為せまいよ。でも、外部の誰かに事情を話すのも難しいだろう。私でよければ、保健室においで」

 皆守は、瑞麗の顔をまじまじと見た。彼女は微笑みを浮かべたまま、彼に向き合っている。かすかに煙草の香りがする。白衣は着ていなかった。保健室に置いてきたのだろうか。

 皆守よりも多くの年月を過ごした人間が、まだ年若い皆守のことを振り返っている、と感じた。目の前の養護教諭に気遣われている、とありありと感じたのに、皆守はそれを振り払うことができなかった。彼女はいま教諭としての立場を持っていたが、言葉と態度はその立場だけにこだわらないものから生まれていると彼の肌が感じ取っていた。

「きみの事情はどこにも漏らさないと約束しよう。来るときには一報をくれるとありがたいが、気が向いたときでもいい。そのときは鍵もかけるし、誰も中には入れないよ。……どうかね?」
「……いや、どうって言われてもな」

 瑞麗は微笑みを苦さに傾けて、高校生の教室で、机にひじをついた。

「ストレスというのは、元は物理学の言葉だ。物体の外から力をかけたことで歪みが生じた状態をそう呼ぶ。それを人間の心理にあてはめているわけだな。心理学では人間の心に圧力をかけるもの、それらをストレッサーという。寒さ暑さ、空腹もストレッサーの一種だ。そして、外側からの圧力に適応するため、身体、精神に起きる反応のことをストレス反応と呼んでいる。いらいらしたり、不安になったり、腹痛や頭痛を起こしたりすることもある。その一方で……レジリエンス、という言葉を知っているか」
「……いや」
「ストレスが外側からの力による歪みのことだとしたら、レジリエンスはそれの反対だ。外側からの力を押し返す力。空気で膨れたボールは、指で押し込んでも球体に戻るだろう? その、押し返す力のことをいう」

 皆守は黙って呼吸した。息を吸って吐くと、自分の胸が上下しているのが分かる。
 瑞麗も皆守と並んで座り、呼吸している。彼も彼女もほかの人々も、心に空気を入れてふくらませ、冬の乾いた風を押し返している。皆守は息を吸い、また細く吐いた。

 瑞麗はそれ以上の言葉を重ねなかった。皆守が、言葉以外のところから意図をはかるのに長けていることを、瑞麗は感じ取っているのかもしれなかった。

 教室の壁にある時計がかちかちと秒針を几帳面に動かしていた。もう通い慣れた教室で、隣り合って座っているのが養護教諭であることが奇妙だ。教諭の中では、瑞麗と交わした会話が一番多い。だから、なんとなく互いの会話のテンポをつかんでいた。いま話し出すだろうな、と皆守が察したタイミングで、瑞麗が話し出した。

「……龍も、気にしていた」
「あいつが?」
「ああ」

 確かに、葉佩はメンタルケアが上手かった。気分が一定だったし、動揺もすぐに収めることができていた。怒った顔をすることはあったが、あれはコミュニケーションとして自分の感情を示していただけであって、怒りにまかせて暴れるとか怒鳴り散らすとかのことをしない男だった。
 瑞麗とはよく話もしていたし、心理学の心得もあるようだった。確かに、やつなら気にかけたかもしれない、と思った。自分の知らないところで自分の話をされていたというのに、それはまったく、皆守の神経を逆撫でしなかった。

 葉佩はどこまで瑞麗に話したのだろうか、と皆守は考えた。だが、何も話していないだろう、とすぐに結論を出した。瑞麗は皆守の横から、彼を窺うような目を向けていた。
 葉佩は、皆守に無断で皆守の事情を話したりしない。それを疑うことは、彼の人間を貶めることと同義だと思った。

 瑞麗の瞳に、皆守のことをつまびらかにしたいような好奇心は見当たらなかった。専門職に就く年長者の視線のままであることに、皆守は安堵した。瑞麗とは、親しくなりすぎた。今さら、カウンセラーと相談者というだけの関係にはなれない。でも、だからといって皆守の事情では、外側の誰かに求めることもできなかったし、本人にもその気がなかった。

 あからさまに気遣われると、反射的に撥ねのけたくなる。むずがゆさは今も皆守の腕をちりちりとさせたが、瑞麗にすげなくできない。

「……考えておく」
「ああ、待っている」

 瑞麗はそう言って、いすを立った。彼女が動くと、煙草がかすかに香る。

「いつまでここにいるんだ?」
 皆守がそう尋ねると、瑞麗は「来年まではいる予定だ」と答えた。

「卒業してから来てもかまわないぞ」
「卒業したら俺はもう部外者だ、敷地に入れないだろ」
「なに、来客はあるものさ。私に連絡をくれたら、迎えに行くよ」

 皆守は自分がこの高校を卒業する風景が、まだうまく想像できない。だから、そのあとのことなんてもっと想像できなかった。卒業したあとの自分が何を着て、どんな顔で天香の門をくぐればいいのか分からない。
 黙った皆守に、瑞麗は微笑みかけた。

「ではな。いつでも私は待っているよ」

 そう言い残して、教室を出て行った。彼女の足音は来たときと同じリズムで、さらさらと冬の廊下に流れていく。
 ため息をついて、皆守は後ろ側に頭を傾けた。教室の天井が見える。そういえば、いつもうたた寝をして下を向いていたから、この教室の天井をこんなふうに眺めることはなかった。いくつもの生徒を見送ってきた教室の天井には染みがあり、ひびわれもある。蛍光灯がまぶしくて目を閉じた。

 皆守は日々、自分のボールが膨らむのを感じている。空気が吹き込まれ、ふくらみ、外からの圧力を押し返す。きまじめに、息を吹き込む。その息をもたらしているのは皆守自身だったが、導いたのは自分自身だけではないと分かっていた。皆守は息を吸い、細く吐いた。外からの圧力を押し返す力が、皆守のボールにも備わっている。
 その表面をそっと撫でつけながら、皆守はチャイムの音を聞いた。まもなく始業式が終わって、生徒たちが戻ってくるだろう。

 今後保健室に行くかどうかは、彼自身にも分からない。短い時間で葉佩と瑞麗からのやけにたくさんの気配りを注がれたものだから、彼はもういっぱいいっぱいだった。でも、それがいやではなかった。
 こうして、いやではないことが増えていくというのが、成長するということなのかもしれなかった。



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