ペレーの毛
火山の爆発の際に、マグマの一部が吹き飛ばされ空中で急速冷却し髪の毛のようになったもののこと
参照:Wikipedia
あ、と気づいたときには都内を出ていた。
電車に乗って、空いていたので座って、すぐに本を開いていたからだ。注意をしていなかった。
皆守はおおぶりなコートを着ていて、ポケットに新書くらいなら突っ込めるから、本を取り出すことに何の手間もないのだった。冬の皆守のコートのポケットは、片方に本、片方に携帯電話が入っている。
夏になるとコートを着なくなる。暑くなってきてこのマントのようなコートをクロゼットにしまいこむとき、俺はこれからの季節、本と携帯電話をどこに入れてたんだろうなと思う。まあふつうに、鞄に入れてしまえばそれはそれで慣れる。
だが、ポケットからすぐに本を取り出せる気楽さには代えがたい。冬の皆守はいつでもどこでも気楽に本を開ける。
皆守はため息をついて電車を降りた。うんざりした気持ちで、ホームにぶらさがる看板を見上げる。どんなに見たところでそれは都内の地名ではなかった。
目的地と反対方面の電車に乗ったのだった。慣れない駅で慣れない路線を使うと、たまにやる。
確かに上り方面に乗ったはずなんだが、と皆守は釈然としない。一部の駅では同じホームに上り下り両方発着することがあるから、運が悪くそれにぶつかったのだろう。自分の確認不足が招いたことは確実なので、それがまだ皆守を落胆させた。ポケットにある本に気を取られすぎた。基本的に注意深いたちなので、こういう些細な失敗があると今日は厄日だぜと思う。
今日は厄日だなと思いながら、皆守は降りたことのない駅をぶらぶら歩いた。
ホームの端に、乗客へ注意をうながす黄色いラインが描かれていたが、それはところどころ途切れていた。屋根からぶらさがった時計は止まっていて、「修理中」の紙きれが生真面目に貼り付けてあった。
案内板を見る限り、向かいのホームへ行けば皆守は目的地の方面へ行けるらしいので、階段を上った。途中で高校生とすれ違う。思わず、目で追った。学生鞄には『必勝!』と縫い付けられたフェルトのマスコットがぶらさがっている。皆守がわずかのあいだ目にした形を思い返したところ、おそらくサッカーボールだった。サッカー部なんだな、と皆守は思った。
皆守は高校時代に帰宅部だったので、そういう手作りのマスコットとは無縁だった。でも、三年の一月には、いわゆるお守りらしいものを持っていた。担任の雛川が、年始に湯島天神に行ってクラス全員分、買ってきたのだ。皆守は物心ついてから、このようなお守りというものを持ったことがなかった。そのうえ、そもそも彼は一月の時点で浪人が決定していたので、このお守りが祈りのあてになるのは一年後だった。
皆守は配布されたお守りを、ペンケースに入れて寮へ持って帰ってきた。そして、他にしようがなくて、皆守が『捨てようがない』ものを集めているところに置いた。その捨てようがないエリアには、他に、葉佩が皆守に押しつけてきた護符があった。
皆守はそれらを卒業証書と一緒に、大学院まで持ってきている。自室の押し入れを開ければ、あるひとつの棚の中にそれらが収まっていることを皆守は覚えていた。
皆守はそれらのことを思い起こしつつ階段を上がり、駅構内を少し歩いて、向かいのホームへ降りた。
都内を出たから、構内に貼ってあるポスターが違う。横浜赤レンガ倉庫でのイベント告知ポスターを横目に、皆守はホームの中頃まで歩いて、適当なところで立ち止まった。
電光掲示板を見上げると、次の電車まで二十分ある。この駅は各駅停車でしか止まらないので、間隔が広いのだった。
さっき、反対方面の電車に乗ったと気づいたとき、もう少し大きな駅で降りればよかったと思った。そういうところまで含めて厄日なのである。
次の電車まで二十分というのは、都内近郊ではだいぶ待たされる部類だ。皆守は東京の時刻表に慣れきっている。
ここで本を広げてはまたミスをしかねないので、皆守はぼんやり、線路を眺めて待った。
長らく太陽に焼かれている線路はチョコレートを掛けたようになっている。太陽は傾き、冬の白っぽい光がお情けのように照らしていた。冬は雲が厚く、日差しが薄い。
皆守が電車を間違えたせいで、帰宅は遅くなりそうだった。家に帰ったら済ませておきたかった家事のうち、皆守は洗濯を諦めた。幸い明日は休もうと思っていたので、昼に回そう。皆守は現時点ですでに、朝に起きるつもりがない。
そうしているとポケットがふるえた。本を突っ込んでいない側のポケットだった。皆守はもともとそのポケットに手を入れてあたためていたので、すぐに取り出すことができた。バイブレーションが数秒しか動いていないうちから、携帯電話を開く。
メールだと思ったら電話だった。電話だったし、なんなら葉佩だった。
「どうした」
電話に出て、そう言った。
『あ、どーも』
と言う向こうの声は、本来のテンポからわずかに遅れて皆守の元に届く。皆守の声も同じように、向こうに遅れて届いているだろう。ということを考えれば、皆守と葉佩それぞれの第一声は、ほとんど同時に言ったようなものらしかった。
『あ、いや、何って話じゃないんだけど』
「……今どこだ?」
『……いま? どこだろう』
俺に聞かれても分からん。
葉佩が近くの誰かと話しているのが聞こえた。こいつは現在地も分からずに歩いているんだろうか。
『マレーシア! 島巡ってたから国が分かんなくなっちゃった』
「船乗ってるのか」
『そう。小さい船なら動かせるようになった』
晴れ晴れしい声に、皆守は「そうか」と返した。
身が溶けるような気がする。人間はみな液体なのだ。肉体という器に、どうにかぎりぎりで心という液体を収めている。あふれたら困るのに、しばしばあふれそうになる。それをこらえていると、焦れた液体が噴き出しそうになるのも困りものだった。葉佩は困らないだろうが、皆守が困る。
元気かと質問するより、葉佩の声のほうが皆守にとっては雄弁だった。たとえ電話越しだったとしてもそうだ。
アナウンスがあって、さっき皆守が降りた向かいのホームのほうへ電車が入ってきた。葉佩の側でうるさいかと思ったが、ホームにはいなければならないので避けようがない。
『もしかして、いま外?』
「そうだが、かまわないでいい。次の電車をあと……十五分くらい待たなきゃならないんだ。そっちがいいなら付き合っててくれ」
『お、いいよ』
気楽な返事がかえってきた。
何をしてたところかというのをお互いに報告して、最近食べたものだとか、流行りものだとかの話をぽつぽつとした。双方で声がワンテンポ遅れるのを分かっているから、短く話す。
皆守はそのあいだじゅう、話すことを考えている部分の裏側でずっと考えていた。電話をしてきた葉佩が『あ、いや、何って話じゃないんだけど』と言ったのを反芻していた。もう少し踏み込んでやったほうがいいのか、しないでおくべきなのか、思考が何周かまわった。
葉佩が今まで電話をかけてくることはないではなかったが、頻繁ではない。学友だった三ヶ月は、電話するより部屋に行ったほうが早かったから電話をしなかった。
皆守も普段、頻繁に友人と電話をすることがない。だから、基本的に電話というのは用事があるからかけるものだと思っている。
聞いてやったほうがいいのだろうか。濁したということは、聞かれたくないだろうか。
「日本でいま流行っているものなんて俺が知ってると思うか?」
と言いながら、皆守はまた考えた。ぐずぐず考えているうちに、皆守のいるホームにアナウンスが流れる。皆守はそれを待っていたはずだったが、アナウンスのチャイムを聞いたときに舌打ちしそうになった。
――まもなく、二番線に電車がまいります。黄色い線の内側に……
『電車来る?』
「ああ、そうだな……」
皆守は、語尾をあいまいにぼやかした。そうともそうでないとも、言いたくなかった。アナウンスはびりびりと響き、がらんとした小さな駅をぐらぐら揺らした。
「何かあったのか」
もう切らなきゃいけないと思うと踏ん切りがつきやすくなって、皆守は言った。勢いで聞いている。言った直後に反省した。最悪のタイミングだと思った。もし葉佩が何か事情を抱えていたとして、もうすぐ電車に乗らなくてはいけない相手に話すだろうか。そんな時間はないと分かっていて、わずかでもこぼすだろうか。踏ん切りをつけるなら、もっと早くにするべきだったのだ。
皆守のその葛藤を払うように、葉佩が息を漏らすようにして笑った。電話越しのその笑い声は周波数の上下を切り取られ、特有のノイズが入っていたが、皆守には葉佩がどんな顔で笑っているかが分かった。
『なんもない。ほんとほんと。ちょっと、遊びたくなっただけ』
「そうか」
『うん。気に掛けててくれてありがとう』
「いや……」
皆守が言いよどむと、電車がホームに滑り込んでくる。ここで電話を切らなきゃいけないのか、と思った。
その音が葉佩のほうにも届いたようだった。彼ははきはきした声で言った。
『甲太郎も、遊びの電話掛けてくれていいからね』
「あ、ああ……」
『じゃね、出てくれてありがと。みんなにまた遊ぼうって伝えて』
「分かった」
『うん』
切られる、と思った。思ったから、滑り込むように「電話ありがとな」と言った。
電車が皆守の立つホームを揺らすから、皆守という肉体の器からあふれてしまったものがちゃぷちゃぷと流れ、毛糸のようにしたたる。それは皆守と葉佩のあいだ、電話と電話のあいだで、やわらかに丸まって行き来した。
『うん』
と葉佩が言って、電話が切れた。その声が、交わした会話の中で一番笑顔だった。彼の笑顔のイメージが皆守の耳にとりつく。
皆守は携帯電話をコートのポケットに放り込んで、電車に乗った。空いている座席に腰掛けた。すぐに電車のドアが閉まり、発車する。流れていく町並みが窓に映る。街灯やビルの光が彗星のような輝きを残して、窓を過ぎていく。
皆守は本を取り出さずにじっとして、まだ自分の耳にやわらかくからみつくものを感じ続けていた。これは葉佩があふれさせたものだ、と思った。
皆守があふれさせてしまったようなものが、葉佩のほうにもあるのだ。焦れて噴き出しそうになるものが、彼にもあるのだ。
電車の車内アナウンスは、次の駅の名前を告げた。皆守の降りる駅は、まだしばらく先である。だからしばらく、このままでいられた。