荒唐無稽



 皆守の研究室の連中はいい大人なので、あまり他人の行動に目くじらを立てない。みな気難しいところはあるにせよ、自分が気難しいことを自覚していて、他者に不機嫌を強制しないたちの人間が多かった。おそらくたまたまなのだろうな、というのは、他の研究室所属の人間の愚痴を聞くときに考える。だが、皆守は今の状況に文句がまったくなかったので、口に出したことはない。というか、皆守もその「気難しい」仲間のうちの一人である。自分が柔和だとは、皆守だって思ったことがなかった。

 しかし、常に温和な研究室のボスにも、どうしても許容しがたい事態というのは存在する。皆守にもある(皆守が常に温和かどうかは判断が分かれる)。
 下期にこの研究室へ所属したばかりの三年生がコンビニの袋をぶらぶらさせて、「お疲れさまでいす」と入室してきたとき、皆守はあッと思った。他の学生も思った。だが、彼らがフォローを入れるより早く、ボスは気がついてしまった。

「だれっ? アレ、買ってきたでしょッ?」
「え? あ、え?」

 耳にすることがないような鋭い声で誰何されて、三年生はおどおど入り口で立ち止まった。
 皆守は偶然にもその入り口の近くにいたものだから、彼に人差し指を向け、くるりと回してドアを指さした。ちょっと外に出ろ、の合図である。三年生は皆守の意図を正しく受け取って、「え、あの、すいません」と言いながらドアをくぐって廊下へ出た。

「じゃあ、」
 と皆守は研究室の中に言い残して、後に続いて外に出る。他の学生たちは「任せた」という顔で頷いた。
 ボスの機嫌を損ねることがないように後輩の指導をするというのも、先輩の役目である。皆守はそれを、ここで初めて知った。

 廊下に出て行くと、三年生は怯えた顔で皆守のことを見た。まるで俺が怒ってるみたいじゃねえかと不本意だったが、怖かったことには違いないだろう。学生、しかも学部生にとって所属研究室のボスというのはめちゃくちゃ怖いのである。

「うち、それ持ち込み禁止なんだ」

 と皆守は言って、後輩が持つコンビニのビニール袋を指さした。

「え、これですか。唐揚げ?」
「そう。あとポテトも禁止。ファストフードも歓迎されない」
「え?」
「教授はいま塩分コントロール中なんだ。いい香りがする塩分過多のものは教授を誘惑するから、持ち込み禁止だ。食うなら学科室に行くことになってる」

 後輩はぽかんとして皆守の顔を見た。その顔を見ていると、皆守は自分がまるで荒唐無稽なことを言ったような気分になる。だが、これがこの研究室の法なので、皆守は譲ることができない。

「分かりました……」

 目の前で犬が宙返りしたような顔で後輩は言い、廊下をてくてく歩いていった。その背中を見送り、皆守は室内に戻った。

 大学というのは荒唐無稽なところだな、とあの後輩は考えたに違いない。だが、皆守はもっと荒唐無稽なやつのことを知っているので、こんなのは世界の序の口だぞと思った。
 この世には学内の墓地に無許可で潜り込んで、何とも知れない霜降り肉にニンニクを合わせて焼いてその上食うようなやつが本当にいるのだ。




 皆守が自宅に帰ってくると、部屋の電気が付けっぱなしだった。

 朝、目がさめてから家を出るまで、皆守はカーテンを開けない。窓が南東を向いているので、朝がとにかくまぶしくて、ただでさえ持ち上げたままでいられない目蓋がさらに持ち上がらなくなるからだ。
 まだ朝にカーテンを開けるという努力がみられたころ、むにゃむにゃ起きてカーテンを開けたら、あんまりにも朝の光がまぶしいので目を閉じた。まあどうせ自分の家だしなと思って、そのまま洗面所へよろよろ歩いていこうとしたら、「ギャッ」と声がして慌てて目を開けた。夜のうちに来て、床で寝ていた葉佩を踏んだのである。さすがにあのときは二人で大笑いをしたので、目がさめた。

 だが、まあだいたい皆守は朝はうとうとしているので、カーテンを開けない。だから電気をつける必要がある。そうであるから、電気をつけっぱなしで外出するということが起き得ないわけではない。
 けれども、皆守は高校が寮生活だったから同年代の人間に比べて一人で暮らしている時間が長い。部屋を出るときは電気を消すというのが身に染みているので、電気を消し忘れるということはなかなか起きない。

 皆守はすぐに電気が付けっぱなしである理由に思い至って、自分がいま立っている玄関に目を走らせた。自分がいま脱ごうとしている靴のほかに革靴が一足と、あと皆守のサイズではない紐靴が一足あった。来てるのか、と思った。それにしては、皆守が帰ってきても一言もない。この家はワンルームで廊下と玄関がまっすぐに繋がっているので、部屋にいれば皆守が帰ってきたことに気づかないわけがなかった。たとえトイレにいようが、やつは「おかえりい」を言うのである。彼が言えば、皆守には聞こえる。

 今までも、皆守の家に来てからスーパーに行くなりコンビニに行くなりしていたことはある。それにしては、玄関には靴が残っている。もしや窓から出入りしたんじゃないだろうな、と皆守は思った。ここは住宅街だが、葉佩が絶対にやらないとは言えない。

 皆守は部屋に鞄を下ろして、窓に近寄った。先週末に開けたきりのカーテンをめくると、人がすれ違えない程度の広さのベランダに、葉佩がしゃがみこんでいた。いきなり光が差し込んできたからか、驚いた顔で葉佩がこちらを見る。皆守は窓を開けた。

「おかえり。ごめん、窓閉めてて音聞こえなかった」
「帰ってきたのはおまえもだろ……ただいま。何してんだ、そんなとこで」
「見て」

 葉佩がベランダの端を指した。皆守がその指先にしたがって、ついと目を遣るとカブトムシがいた。皆守は虫に造詣が深くないので、カブトムシだということまでしか分からなかった。
 黒々とした背中が室内からの光でぎらぎらとして見える。だがその光は、皆守のわずかな知識にあるカブトムシにしては小さかった。うまく育たなかったのかもしれない。

 葉佩はそのカブトムシに「久しぶりに見たなあ」と言った。

「好きなのか」
「え、虫嫌いだっけ?」
「いや……好きでも嫌いでもないな。それはなんていうカブトムシなんだ」
「本州のカブトムシは一種類しかいないよ」
「へえ、そうなのか」

 ぜんぜん知らなかった。そういえば、クワガタはオオクワガタだのノコギリクワガタだのを聞くが、カブトムシはあまり聞かない。ヘラクレスオオカブトは皆守でも知っているが、ヘラクレスはギリシャ神だから日本には生息していないのだろう。

「この時期は、カブトムシには厳しいんじゃないのか」

 もう九月も下旬に入る。東京のカブトムシが珍しいのはもちろんだが、この季節にカブトムシがいるというイメージが皆守にはない。
 皆守の疑問に、葉佩はあっけらかんと答えた。

「うん。そろそろ死ぬかな」
「……それ、中に入れたければ入れていいぞ」

 皆守はそう言った。皆守は腹が減っていた。だからといって、葉佩をベランダに残して一人で部屋に戻りたくはなかった。

「それはいい。……じゃな。がんばれよ」

 葉佩は首を振って、じっとしたままのカブトムシの黒光りする背中に指をこつんとやった。

 そして二人で部屋に戻る。
 夕食を作ると室内が暑くなるので、窓は網戸にした。葉佩が土産を買ってきていたので、それをあたためて食べた。彼は今回、南のほうをぽつぽつうろついてきたようすで、スパイスの効いた焼き鳥や、砂糖と鶏ガラとスパイスで煮込んだ果物などが並んだ。後者は甘いのに鶏ガラとコリアンダーなどの香りがするので、一口食べたときに口の中が何を感じているのか、時間をかけて考える必要があった。驚きはするが旨い。

 二人で向き合って真剣に夕食に取り組み、皿を下げた皆守が戻ってくると、葉佩がこっちを見ていた。

「なんだよ」
「いや……久しぶりだなあと思って」
「カブトムシと同じ扱いをするな」

 葉佩は目で笑った。
 皆守もその目を見るのが久しぶりだったので、まじまじと見てしまう。
 久しぶりといっても前回会ったのは数ヶ月前で、ほかにもっと会っていない友はいる。彼らと会うときも、久しぶりだなと思うのだ。そのなかにあって、葉佩と顔を合わせるときはひときわ強く、久しぶりだと思う。ずっと会っていなかったような気がする。何年も何十年も会っていなかったような気がする。数ヶ月なんて、ひとつの季節にすぎない。カブトムシに会うのはどんなに早くても来年の夏なのに、それより会わなかった期間は短いのに、カブトムシより見ていなかった顔のような気がした。

 テーブルに投げ出していた皆守の手に、葉佩が人差し指を弾いてぶつけた。

「もう一つ土産あるんだけど」
「そんなにしなくていいって前に言わなかったか?」
「これは甲太郎も納得の一品だから!」

 そう言った葉佩はポケットから皺の寄った封筒を出して寄越した。しわくちゃだったので、皆守はぎょっとする。小学生がランドセルの底から出してきた六十点のテストみたいだった。
 葉佩は開けて開けてと無邪気に言う。本当に六十点のテストだったらどうしようと思いながら、皆守はその封筒を受け取ってただ折ってあるだけの封を開け、中身を覗き込んだ。

 何も入っていない。

「九ちゃん、なんだこれは」
「え、底のほうに詰まってるかも。もっと広げて」
「ならこんなにしわくちゃにさせるな」
「大事に持って帰らなきゃと思ったらそうなった」

 しかたねえなと思いながら、皆守は皺を伸ばして封筒の口を広く開けて、底を覗き込む。豆に似た形状のものが十ほど入っていた。

「……九ちゃん、なんだこれは」
「遺跡で見つけた種! 現地で案内してくれてた人に聞いたらクローブかもだってさ。調べたら、日本でクローブの種は入手困難らしいじゃん。それに遺跡で見つけたから、もしかしたら数千年単位で昔のやつかもしんないよ」

 わくわくした顔で言われた。そうか、ありがとうな、と皆守は言った。
 クローブはカレーに使えるスパイスのうちの一種である。

 だがそれはそれとして、こいつはそういえば協会が手配するセスナに乗ってくるから、検疫所を通らないんだったなと皆守は考えていた。植物の種は気軽によそに持って行っていいものではない。持ち込みは厳禁だ。絶対にいけない。まったく、荒唐無稽なやつである。

「植物の種をホイホイ持ち出すな」
 と皆守は言うと、遺跡でビフテキを焼くやつはしょんぼりした顔をした。だから皆守は、それ以上強いことを言えなくなった。

 だがこれこそ、それはそれとして「大事に持って帰らなきゃ」と思って葉佩が持って帰ってきたのだということが皆守にとっては何より価値があったから、たしなめるようなことを言ったけれども、こんな得体の知れないものでも嬉しかった。これで皆守が喜ぶはずだと信じている葉佩のこともまた嬉しかったので、そう感じている自分のことを自覚して、自分もたいがい荒唐無稽なやつだなと皆守は思った。
 荒唐無稽と一緒にいるから、こうなるのだ。でも皆守は、ぜんぜんこれでかまわなかった。

 なんといっても、嬉しかったからである。



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