いなほ


 作業中の飲み物に甘いミルクココアは最悪、と言ったのは予備校時代の友人で、歯学に進んだやつだった。牛乳も砂糖も歯に居残りやすく、虫歯を生みやすい、ということであるらしい。ココア自体のポリフェノールに関してはその限りではないが、甘いやつは最悪、とやつは酒の席で話した。食事中に飲み、食事後に歯を磨くのであるならまだしも、作業中であれば歯にこびりつくそれらをずっとくっつけたまま長時間いるわけだ。納得のいく話ではある。大外はそのとき、適当な相槌を打って、テーブルの全員のグラスに注がれているビールを舐めた。

 予備校時代の友人たちとは一年に一度か二度くらいの頻度で連絡を取り合い、酒を飲み交わして別れる。志の高いやつらばかりの集まるところで、大外はその帰り道には電信柱に頭をぶつけたいような気持ちになる。
――死ぬのにたやすい方法ってなんなんだろうな。できるなら自分だけじゃなくて、世界の全部に終わってほしいんだけど。
 その疑問の答えを持っているやつはいないし、そもそも答えも存在しない。大外は手の甲をガリガリ掻きながら、自宅への夜道を歩いた。爪は今朝に切ったばかりで、断面が荒っぽい。そのおかげで、手の甲は薄皮が剥けた。

 大きな道路に面していない住宅街は静かだ。遠くの幹線道路をいくトラックの走行音は、風のようにしか聞こえない。ため息をつくと、自分がなおさら惨めに思えた。やつらはみな医大へ行っている。そういう分野のやつらだから、大外のこともその両親のことも知っている。だからまるで、大外が両親の恩恵を受けていることを羨むようなことを言うのがあるのだった。

 就活お疲れ、大外も決まったんだって? 面接がラクそうでうらやましいよな、お前。え? だってさ、向こうで勝手に思い込んでくれるだろ。どうせお前、成績いいんだろうからそれに矛盾もないしさ。家がいいと面接難易度下がるよな。俺、面接マジで緊張したわ。

 もし大外が大外でなかったら、手に持っていたビールをそいつにぶちまけていた。
 甘えるなよ、お前の苦労話に僕を利用するのをやめろ。

 だが確かに、大外は実体の伴わない親の七光りで評価されている面が否定しきれない。成績がいいものだから、値上がりを期待されている青田なのだった。本当に実りがあるか分かりゃしない。すかすかの稲穂を見るこそになるぞ、と大外は脳内で教員や面接相手を恐喝するのだったが、その声が届いたことはない。
 それに比べて友人らは、自分のステータスをひっさげて、それらのみで評価されているのだ。余計な期待なんてされていない。真実しか見られていないから、さぞ金に太った稲穂をつけるのだろう。大外はそちらのほうがずっとよかった。

 大外はいつまでも、自分がいつすかすかの稲穂をつける劣等種だと見抜かれるのか、恐ろしくて仕方ない。

 大外はため息をついた。自分がさらに惨めになる。

 しゃんと伸びた街灯は、規則的に町に並んでいる。間隔が広いので、影のほうが多い景色だった。プランターを並べている家の前を通り過ぎた。プランターにはパンジーが植わっている。あれは最悪の花だ。大外はある女からその花が登場するある話を聞かされてからというもの、パンジーという花が嫌いになった。

 都会の夜は暗くても足下が見える。もし見えなかったら、大外は暗闇の底へ歩いているような気持ちになっただろう。下ばかりを見て、彼は歩いた。

「あ、どもでーす」

 大外の視界の外から、そんな声が聞こえた。彼は剥げかけの白線を眺めていたが顔を上げ、その声のしたほうを見た。数メートル先に、少女がひとり立っている。クリーム色のブラウスに、藤色のスカートを着ていた。それだけ言えば優雅だが、彼女の服装には優雅というだけでは説明できない荒っぽさがある。余計なものがぶらさがっていて、騒がしいくらいだ。大外はその少女を知っている。彼女はその服装のことを『かわいい』と呼ぶことも知っていた。優雅なのは色だけだ。
 その明るい色が、薄暗い夜の町ではまぶしいくらいだった。大外は「何しに来たの?」と言った。

「友達とリョコー行ってて、お土産アゲヨーと思ったんですけど」
「それなら連絡しろ。ずっと立ってたの?」
「三十分前くらいにメールしました。さっきまでコンビニいたんで、ここに立ってるのは十分くらいですかね」
「それならずっとコンビニにいろ。あの……角のとこだろう、どうせ」
 
 彼女の前に立つと、向こうが歩きはじめた。このまま、並んで大外の家に行くつもりらしい。彼は時間を確かめるついでに、スマートフォンに触れた。彼女が行ったとおり、三十分ほど前に連絡があったようだ。ロック画面にはメッセージ本文を表示しないようにしているので内容までは分からないが、『いま家いますか?』とか『大外さんち行っていいですか?』とかだろう。彼女はまるで、相手が目の前にいておしゃべりをしているかのような話し方で、メッセージを送ってくる。

「お土産、って、普通そんな急いで持ってくるようなものじゃないよね。生もの?」
「ケーキです。観光地によくあるスポンジのやつ」
「じゃあ今度でよかったよ。金曜日」
「いや、課題が。大外さんちにあったよなーと思って、貸してもらおうかと思ったんですよね」
「課題? 貸すって何を?」

 大外の部屋が入っているアパートの前に到着する。蛍光灯がひとつ光っているだけのエレベーターホールは、今までの夜道と比べればずいぶん明るかった。光が壁にぶつかりあっている。二人でエレベーターに乗った。

「パンキョーで読書感想文の課題出たんですよ。提出が二週間後で、読んで書くまで二週間だけって短くないですか?」
「だから、貸すって何を?」
「あ、すいません。本。なんでもいいらしいんですけど、哲学書一冊なんか読んで意見書けって。哲学書ってなんかみんな分厚くないですか? 私、読み終わる気がしないんですけど」
「あったかな、そんなの」

 自分の本棚を思い浮かべながら、大外は自分の部屋のドアを開き、電気をつけた。当たり前のように、彼女は後ろについて部屋に入ってくる。もう手慣れている技だったが、彼女は律儀に「お邪魔します」と言った。

 今日もなんとか、電信柱に頭を打ち付けずに家までたどり着いた。




 彼女は苦いものを口に入れてすぐさま吐き出した直後みたいな顔をして『存在と時間』を眺めたあと、その横に刺さっている『饗宴』を嬉々として抜いた。プラトンの名前はさすがに知っていたらしい。意見を述べやすいような内容であるかどうかはともかく、『饗宴』は一冊で完結し、200ページもない本だ。

 彼女の魂は絶対に妙な格好をしているに違いなかった。通り一遍の女と似ても似つかないようなやつだから、偏差値五十の女と同じでは困る。

 薄い本をぺらぺらとめくって鞄にしまった彼女は、あっけらかんと「今日泊まっていいですか? 大外さんと一緒に起きるので」と言った。
「明日、僕五時起きだけどいい?」
「起きられるかな……」
「起きないなら一日いてくれ」

 彼女はもう帰らない姿勢だった。ソファに座り、自分が片手に提げてきたビニール袋から箱を取り出す。それが彼女の土産なのだろう。大外は荷物を置いて、ソファに近づいた。自分に持ってきてくれたものとなると、中身は気になっていた。
 箱には梨の写真がでかでかとプリントされていた。彼女の旅行先の特産らしい。ふうん、と彼が考えたその次には、その梨の写真はびりびりに破かれた。自分が買ってきたものだから、彼女はまるで容赦がない。彼が何かを言うより先に破って丸め、写真はごみ箱に向けて投げられた。

「どーぞ。試食したやつなんで、たぶん変な味はしないですよ」
「ああ、ありがとう」
「お茶入れますね」

 彼女は箱ごと大外に渡すと、キッチンに歩いていった。透明なビニール袋にひとつひとつ詰められた一口大のスポンジケーキは行儀良く並んで、大外のことを見上げている。

 大外は箱をダイニングテーブルに置き、ひとつを持ち上げてビニールを剥いた。いまが夜の十時を過ぎていて、もう夕食も終えていることは自覚がある。けれども、どうぞと渡されたものをそのまま放っておくのも居心地が悪い。それに、彼はまだくさくさしている。いらいらしているときに積み上げたくなる悪徳の中でも、夜に甘いものを食べるというのはかなりかわいい部類だった。

 大外はケーキをひとくちで食べた。梨の香りがするが、味はただの安っぽいスポンジケーキだった。砂糖をかなりの量つぎこんでいるらしく、脳がびりびりするほど甘い。

 電気ポットが沸くのを待っている彼女のことを振り返って、彼は言った。

「で、僕は何も聞いてないんだけど、どこに行ってきたって?」


(お題:糖蜜・難易度・哲学)