ひとの目 きみの目


 自分が愚かだと気付かないやつより、気付いているやつのほうがずっといい。それは僕にも理解できる。僕自身、まったく同じことを思っているからだ。そして僕は自分が愚かであると分かっている。人並みにできることはあっても、人並み以上にできることなんてない。僕自身が僕自身の看板にしたり、自慢したりできることなんて、人を殺すのかうまいとか、今まで職質もされたことがないとか、そういうことにしかならない。そんなこと言える相手なんていない。だから僕は、両手に何にも持たないままで人前に出る。それが恥ずかしい。毎日死にたい。どんなときだって、いなくなってしまえたらいいのに。だが、それ以上に自分の名前と存在にしがみついていたいから、死ぬこともいなくなることもできない。自分というものの全てを、引っこ抜いていってくれるやつがいたらいいと思う。
 僕はこれらのことを、誰にも言うつもりがない。だからみんな、僕のことを優しい人だと思っているし、謙虚で有能な学生だと思っている。みんな目が節穴だ。誰も分かってない。大外くんは頭いいねとか、大外くんに任せておけば安心だなとか、大外くんは困ったことなんてないんでしょとか、大外くんにできないことなんてないねとか、大外くん誰にでも優しいねとか、そんなことばかり言う。それを聞くたびに、実際の僕はそんなことないし、全部作りもの全部紛いもののはりぼてだから、じゃあ全部演技なので価値がない中身の僕は死にますね、と思う。でも父と母の目は節穴なんかじゃない。僕のはりぼて具合を全部分かっている。彼らの口から、そういう言葉を聞いたことがない。いつも正しい。だから、僕はだめだ。全部どうにかしてやりたくなって、僕が壊れることはできないから代わりに壊れてくれるものを探しに町に出ることになる。
 僕の一番愚かで死ねばいいと思うところは、誰の評価も受け付けないくせに、その評価がなければ歩く方向も分からなくなるところだ。
「あ、私これにします。ミートソースのラザニア」
 ひとりの女が、ラミネート加工された喫茶店のメニューを指さした。その爪はピンク色に色づいている。爪先のほうが色が濃くて、根元にいくにつれ薄くなる。そういうデザインであるらしい。確かに、このデザインなら爪が伸びてきたところで気付きにくい。だが、この女が醜い格好をしているところは見たことがなかった。エキセントリックだが、いつも清潔だ。だから指摘しておいてやった。
「その服、汚すなよ」
「パスタじゃないので大丈夫です。大外さん決まりました?」
「メニュー見せて」
「すいません。私が持ったままでした」
 彼女はそう言って、僕にメニュー表を渡してきた。受け取る。正直なところ、たかだか反対側に向けられただけの文字くらい読める。でも、僕はまだ注文を決めていなかった。適当に決めることもできるが、あまりそうしたくない。馬鹿のすることみたいだからだ。
 メニューを眺めるふりをしながら顔を彼女から見えないように遮断し、目だけでうかがう。彼女はここに通されたときに出てきた水にせわしなく口をつけていて、もう空になりそうだ。上品とはいいがたい振る舞いだ。
 僕はこの女が、たぶん憎い。
「ご注文はお決まりですか?」
 彼女のグラスが空になったことに気付いた店員が、にこやかな笑顔を浮かべてこちらにやってくる。彼女は、僕のことを見た。決まりましたか? という意味だ。僕は頷いた。そして、手のひらを彼女に向けて差し出して、彼女に順番を譲る。
「この、ミートソースのラザニア、単品で」
「えっ、飲み物つけなくていいの?」
「いま給料日前なんですよ。財布がこころもとないので」
「なんだ。それくらい先に言えばいいのに。……アイスティーでいい?」
「や、いいですホント」
「僕だけコーヒーを飲んでるのは目立つだろう。付き合わせるんだから僕が出す。そんなに嫌なら、この飲み物代だけ」
「あー……いいんですか?」
「いいって言ってる」
「ありがとうございます。いただきます」
 まだ出てきたわけでもないのに、彼女はメニューと水以外何も乗っていないテーブル相手に頭を下げた。薄暗い喫茶店の照明では、その髪の色は外にいるときより深い色に見える。夕焼けみたいな色をしたライトが、髪を光らせていた。僕は、太陽の下で光るときの虹色のほうがいい。だが、同じくらい嫌いだし憎い。たまに彼女に関する何もかもがうっとうしく感じられて、両手両脚で彼女のことをぐちゃぐちゃにしたくなる。たとえば、それは今だ。もしここが外でなければ、喫茶店でなければ、僕は今すぐこの女に馬乗りになっていた。
 僕は、自分の考えだけじゃ歩く方向も分からない。この女は、周りに誰がいようが何があろうが、自分の歩く方向を見失ったりしない。掻きむしりたいほど、それが憎い。
「僕も、同じもので。ドリンクセットの、ホットコーヒー」


 喫茶店から外に出ると、もう日は沈んでいた。空は夜の色だ。彼女は両手を空に突き上げて伸びをし、ああ疲れましたねえ、と言った。言っておくけど、きみより僕のほうがずっと疲れた。昨日から三時間しか寝てない。
「お、短時間睡眠マウントですか。私は昨日八時間寝ましたよ。私の勝ちですね」
「子どもみたいな睡眠時間だな」
「うるせー、どうせ子どもです」
 彼女はセリフとは裏腹に、楽しそうな声でそう答えた。僕がいま吐き捨てた台詞に、なにも感じていないみたいな口ぶりだ。
「きみ、そういうこと僕に言われて気にならないわけ?」
「は? どういう意味ですか?」
「だから……」
 説明しようとしてやめた。この女には、きっと僕のような感情の機微が存在しないのだ。誰にどう思われていたところで、彼女は自分のしたいようにするから関係がないのだ。僕がこの女を憎く思っていたってどうでもいいし、僕がいまお前に暴力をふるいたいと思っていたって気にも留めないのだ。実際、僕がいまから自分の欲求に従って、彼女に向けて拳を突き出したとしたなら、きっと彼女は『奥の手』を使って来るのだろう。あの木の箱。それが怖いという理由によるものではなく、この場の状況が整わないという理由で、僕はこの女を殴ることもなく隣を歩いている。僕の何かで変わったりしない女。他人の言葉によって何かを見失ったりしない女。
「言いかけておいてやめないでください」
「きみに何言っても無駄だと思っただけだよ」
 そう言ったとき、僕らの進行方向にある信号が赤になった。ふたりで立ち止まる。目の前を車が行き交った。ここに彼女を突き飛ばしたら、たぶん死ぬんだろうな。僕は捕まる。
「あのですね。私だってうーんと思うことくらいはありますよ」
「へえ? そうなんだ、知らなかった」
「じゃあ、覚えて帰ってください。私だって、ちゃんと傷つきます」
「そんなふうに見えないけど」
「言葉の内容に傷つくことはあんまりないですけど、私のことをこの人は傷つけようとしてるんだな、てことに傷つきますね。どうでもいい人ならどうでもいいけど、大事だなと思ってる人に言われたら落ち込むし嫌です」
「今は?」
「今更、大外さんに子どもって言われたところで気にならないですね」
「あ、そう」
「でも、たまに言う『くだらない』とか『つまらない』とかは嫌です」
「ふうん。覚えておく」
 信号が青になった。ふたりで横断歩道を渡る。車はお行儀良くブレーキをかけてとまっている。ブレーキと間違えて、アクセルを踏み込まないかな。そしてこの女に突っ込んでほしい。僕だけ生き残る。そうしたら、きっとラクになると思う。ラクになるかな? なると思う。早く死んでほしい。そうかな?
 横断歩道を渡りきってから、駅の方向に向けて歩いた。いろんな人間とすれ違うが、隣に塚原音子というすさまじい女がいるので、よそのことをあまり考えていられない。彼女も僕もそれ以降口をきかず、バス停でじゃあ、というジェスチャーをして別れた。
 僕は高校生大学生地元の爺婆サラリーマンOL子ども父親母親が入り乱れて乗り込む路線バスにちんたら乗っている気分になれないので、タクシープールでタクシーを捕まえた。自宅の一番近くにあるバス停の名前を告げる。タクシーでも、バス停にはとまれる。車内は煙草の臭いがした。
 ひとりでシートに座って息をつくと、ようやく落ち着いた。すぐ横に塚原音子がいる状況には耐えられない。今にもどうにかしそうになる。なぜだろう、という問答は過去に何度も繰り返していて、そのたびに、他者の意見に左右されないかたくなさに腹が立つのだ、という結論に達している。今日も僕は腹を立てながら、彼女の発言・態度の何に腹を立てたか考えはじめた。まず、会ったとき遅刻してきた時点でマイナスだった。それから、手順の確認が、手慣れてきて完璧だったのもいらいらした。僕と彼女では背丈が大幅に違うから歩くのが遅くて、合わせてやらなきゃいけないのも面倒だ。殺して、後始末をして、喫茶店でメニューを選ぶのが早いのも、堂々としているところも癪に障る。そしてひとつひとつ思い返してマイナス点をつけつづけ、今日の彼女の点数がマイナス五百点を数えようとしたときが、僕の脳内では、塚原と横断歩道での待ち時間のタイミングを思い返していたときだった。そのときの会話を思い返し、考えて、彼女の発言の意味を思い浮かべた。何度も繰り返して考え、疑いながら、採点に困った。
 改めて頭の中で咀嚼し、採点しようとしたとき、その言葉が『大外聖生が大事です』以外の解釈ができなかったからだ。気付いてしまったらふいに全身がぞわぞわしていてもたってもいられなくなって、僕はまだ家まで距離があるというのに無理を言ってタクシーから降りた。夜の住宅街はしんとして、そばのマンションからテレビの音が漏れ聞こえた。僕は辺りを見回し、見慣れた看板があったのでそこに入った。コンビニエンスストアはいつも明るい。もう夕食の時間も過ぎている、深夜にさしかかっているような時間だからか、店内にほかに客はいなかった。これが国道とかバイパス沿いの店舗なら混み合っているかもしれないが、ここは網のような住宅街だった。店員は店員同士でしゃべっている。僕は全身を掻きむしりたくなりながら、缶コーヒーをレジに持っていった。
「いらっしゃいませ」
 僕が顔を上げると、若い黒髪の女が「百三十円です」と言った。あの虹色に光る髪の毛をした女とは、似ても似つかない女だ。髪の色から違うということは、頭のてっぺんからすでに違う女だということになる。僕は愛想笑いをして「ありがとう」と言った。
 僕は、缶コーヒーを持って外に出た。プルタブを引いて、すぐに飲み干す。間違えて、砂糖が入っているのを買った。口の中が甘ったるい。
 僕の一番愚かで死ねばいいと思うところは、誰の評価も受け付けないくせに、その評価がなければ歩く方向も分からなくなるところだ。今の僕は、塚原音子の評価が気になってしょうがない。本当に愚かだ。早く死にたい。でも、死ぬ選択肢なんて僕の人生にない。
 塚原音子は、僕のことを根っこから引っこ抜いて、どこかに連れて行ってくれるんじゃないだろうか。少なくとも塚原音子といる時間は、このくだらなくてつまらない世界とは別のところにあるらしいというのは、僕もうすうす、理解していた。