サテンのリボン


 出会ってまもなくのころ、まもなくといっても最初の二、三年、つまり去年までは、塚原はまったく僕に頓着しなかった。僕が今までに出会った女の中でもっともがさつで、もっとも面倒くさがりで、もっとも先の見えない女だった。パフェが食べたいですと言って喫茶店に入っておいて、こっちもいいなと言いながらクリームソーダとナポリタンを注文するような女だ。パフェはどこに行った。一瞬先に何をするか分からないというのはつまり、彼女の中には彼女だけの道理があるということだった。僕の道理とは違う道理だ。だから分からない。だから見えない。だからいやだ。だから困る。塚原には、すぐに分かる女でいてほしいのに、単純な女にはなってほしくない。僕の安心と、僕の好奇心のために。
 それが今年から、僕に頓着するようになった。僕は目の前にある包みが何なのか分かっていたけれども主旨を飲み込みかねて、思わず
「これは何だ」
 と尋ねた。塚原は粉末の抹茶ラテをマグカップに入れ、電気ケトルで湯を注ぎ、かきまぜていた。二人で使うんなら大きいほうがいいですよと塚原が言って、その電気ケトルには1.5リットルも入る。1.5リットルも一度に使わない。彼女がキッチンまで立つ回数をできるだけ減らしたかったがための、ただのものぐさの結果だ。キッチンに水を汲みに行くぐらいのこと、僕がやってやってもよかった。僕は電気ケトルにその役目を奪われた。僕は、ほんのたまにだけ、ケトルに水を汲みに行く。
 僕に質問された塚原は、困った顔をした。答えは分かりきっているはずだからだ。
「さっき、お誕生日おめでとうございますって言ったじゃないですか」
「それは聞いたけど。え? きみ、僕の誕生日知ってたのか」
「一緒に賃貸の契約書、書いたじゃないですか。生年月日書くとこあったでしょ。まあそれ以前から知ってましたけど」
「いつ?」
「いつだっけなあ……サンキューの話したときですよ。大外さんと同じ誕生日の子、教えてあげますってとき、聞きました」
「なるほど。興味なかったから忘れたな」
「今年の生誕Tシャツあげましょうか?」
「いらない」
 僕は仕事から帰ってきて、そのままリビングのテーブルに座って食事をし、紅茶でも飲もうかとしていたときだったからまったくのノーガードだった。塚原は今まで、僕に対してこんなことをしたことはなかった。バレンタインも、誕生日も、クリスマスも、そういうことにはおかまいなしだったから、これは実質、塚原が初めて僕に渡した贈り物ということになる。
 僕の、目の前にある包みの話である。
「開けていい?」
「いいですよ」
 開けていいかなんて、馬鹿みたいなことを聞いてしまった。ここで開けちゃダメですなんて言われたら、何て返せばいいのか分からない。
 彼女はさっぱり先の見えない女だったが、僕はそんなことはない。僕は平凡で、次に何を言うにせよ、世間一般の中心から離れるようなことはできない。少なくとも、こういうことについては。それが嫌だ。こんな男、どこにだっている。
 包みは不織布の袋に入っていて、リボンがかかっている。リボンはサテンで、ほどくときに音がたった。たかだかリボンをほどく音が聞こえたのは、リビングでテレビがついていなくて、塚原が黙っていて、電気ケトルで湯を沸かしていないからだ。
 僕は、中身が何なのか知りたくなかった。中身が何でもよかったし、何でもいやだった。リボンが解けて、くちがぱかりとあいた不織布を片手に僕はしばらく、これを買った店なのだろうロゴの印刷を眺めていた。知らない店だった。
「これ、どこに行ったの?」
「それは渋谷です。これも渋谷」
 そう言って、彼女は持っていたスプーンをマグカップのふちに軽く触れあわせた。そういえば、見覚えのないカップだ。ユニコーンの頭を切開して、脳みそを取り出した後みたいなマグカップだった。うどんでも詰めたらいい。
 そんなことを言うシーンではないと分かっていたので、僕は「へえ」で済ませた。僕の持っている袋は軽いから、マグカップではない。
「渋谷はいつ行っても人が多いですね。仕事帰りに行ったんですけど、スクランブル交差点なんか前が見えなかったです」
「あそこは、平日だって人が多いよ。人ごみがマシなのは、明け方くらいなんじゃないか?」
「明け方の渋谷なんか、大外さん歩いたことあるんですか?」
「ない。想像」
「私はありますけどね」
「興味ないよ」
 そこで会話が途切れてしまった。いや、僕が終わらせたようなものだ。興味ない、と言うと、だいたいの会話はそこで終了する。いわゆる、ぶった切りのワードである。会話を一方的にぶった切られた塚原は、たいして気にしていない顔で抹茶ラテをすすった。粉末のああいう飲み物は、だいたい砂糖の味がする。なんたって、パッケージ裏面に記載された原材料の最初に砂糖がくる。だから僕はすすんでは飲まない。彼女がマグカップに残したまま寝たとき、後始末のために残りを飲み干すことがたまにあるくらいだ。それでも、だいたいは流しに捨てる。
「それ、見ないんですか?」
 塚原が言った。まったくその通りだ。僕は自分から開けていいか聞いたはずなのに、まだ中に何が入っているか知らない。
 僕はその質問の答えを持っていない。ほどいてテーブルに乗せた、サテンのリボンを見つめた。このリボンがプレゼントってことでいいと思った。そういうことにした。塚原を彼女と呼ぶかどうかはともかく、呼んでも嘘にはならない事態になって最初にもらった贈り物は、サテンのリボン。カーキ色した、サテンのリボン。


 僕がゴムの口を縛ってそれなりの装いをさせてゴミ箱に捨てているあいだに、塚原はうつ伏せだった身体を起こして、あー、とうなり声を上げた。野生動物のドキュメンタリー番組で見た、寝起きのベンガルトラみたいな声だった。
「なに?」
 そう尋ねながらベッドの中に戻ると、塚原はこちらを見た。髪が顔にかかっていて、目がよく見えない。簾みたいになっているから、うらめしやと言うのが似合う。
「やっぱ、後ろ向いてするの嫌です」
 彼女はうらめしやみたいな口調でそう言った。髪を耳にひっかけた。ようやく見えた顔は、怒っているようすでもない。僕はすぐに答える言葉を見つけかねて、数秒の間をおいてから、「痛かったか?」と尋ねた。彼女はまたベンガルトラみたいにうなって、
「まつエク取れるんで」
 と答えた。
「は?」
「一本いくらするか分かってるぶん、メッチャむなしいんですよ。身体起こして枕見て、あ、160円。ってなるの、嫌じゃないですか?」
「いや、僕は知らないけど」
 彼女は大きくため息をついて仰向けになった。いま何時ですか? と聞くので、十二時半、と答えた。
「あ、じゃあ誕生日終わっちゃいましたね」
 あまりにも気楽にそう言われた。どう返すのが最適解なのかまったく分からないので、僕はなにも答えない。彼女は僕になにも期待なんかかけちゃいなくて、僕がここで何をしようが何を言おうが、「期待はずれ」「ざんねん」「失望」のような言葉をかけてくるはずはないのに、それが分かっていても僕はなにも言えない。いつか言えるようになったときのことを考えると、途方もない気持ちになる。自分がそういう人間だということくらい、ちゃんと自覚している。
「まあ、来年も誕生日来ますよ」
 黙ったままの僕の何に気を遣っているんだか分からないことを言われた。僕は彼女の横顔を見た。さっき睫毛の話をしたから、睫毛を見てしまう。彼女自身の睫毛にくっついた、細く長くカールしている毛が束になって、かすかな夜の光をはじいている。来年。来年というのは、365日も先の話だ。そんな先のことは分からない。
「その前に、きみが誕生日だ」
「ん? そうですね。あ、でも、その前にバレンタインがあるか」
「その前に、来月がクリスマスだよ」
「今更すぎる」彼女は声をたてて笑った。
 確かに今更すぎる。僕らが出会って四年になる。最初に会ったときは十一月だったから、まもなくクリスマスという季節だった。街中にクリスマスソングが流れ、女性ものの店に男性が、男性ものの店に女性がいた。これからまたそうなる。
 それだけ話すと、塚原が目を閉じた。彼女は明日も仕事だ。僕は少し、明日は出勤が遅くてもいい。彼女の睫毛のカールが、光って見える。こんなにちゃんと、彼女の睫毛を見たことはなかった。こんなに長いと、視界に睫毛が映り込まないのだろうか。いま聞きたい。でも、もう眠っているから、明日聞くことになる。彼女は寝付きが異様によい。
 僕は塚原と同じように仰向けになりながら、目を閉じるタイミングも分からず、瞼をあけたままでいた。今日、家に帰ってきてから今までのことを思い返す。食事の内容は、おぼろげになっている。塚原も僕も仕事があったから、昨日作ったカレーの残りだったはずだが、味をよく思い出せない。そのあとの、電気ケトルでお湯の沸く音と、抹茶ラテの匂い。不織布の袋と、サテンのリボンがこすれる音。塚原の顔と、彼女が漏らした息。塚原の手と、彼女がこぼした体液。塚原の熱と、彼女のふるえた背骨の窪み。首すじの薄い皮膚、セラミックみたいな腹。
 いま思い出してどうにかなったところで、塚原はもう寝ている。息をついた。寝ようと思うのに、まったく眠いと思わない。子どものころ、明日が永遠に来なければいいと、何回も願ったことがある。テストの前日、運動会の前日、試験の前日。もしくは、誕生日当日、クリスマス当日、両親が家に揃っている日。両親が家にいない日も。いない日に気楽さを感じて、それがひどく親不孝のようで、自分を戒めた日も。
 いまは、明日が来るのが、あのときほど怖くない。彼女は、今も僕のことを子どもだと言う。五つも年下の彼女に言われたくはないが、きっとそうなんだろう。
 でも、今は明日が来ても大丈夫にはなった。
 少し顎を上げるようにしてベッドの頭のほうを見ると、柵の部分に結んだリボンが見える。来月のクリスマス、僕は贈り物にリボンをかける。そしてそのリボンをこの隣に結ぶのだ。バレンタイン、ホワイトデイ、塚原の誕生日、僕の誕生日、次のクリスマス、その他のとるにたらない日に思いついたから買った花束にかけてもらうリボンも、ここに結ぶ。
 そして僕は、どうしてもこの僕に耐えられなくなって、どうしても何も諦めきれなくなって、他に壊せる人間も壊せる世界もなくなったとき、このリボンをつなぎ合わせて首を吊りたい。