枕上問答


 僕は日記を書くのが好きだ。だから、その日記の中にあったものから、そんな答えをもらえることなんて、夢の中でのことだった。夢でしかありえなかった。好きなものから同じものが返ってくる夢は、何度も見る。その夢を繰り返す。朝も昼も夜も見ている。
 夢からさめるのが怖い。

 僕が投げかけた質問を、彼女は当たり前のように肯定した。正気か? と僕は相手に尋ねた。はあ、と相手は気が抜けたような答えを返してくる。どこまで本気で言っているのか分かったもんじゃないな、と思ったが、
「嘘かもって思ってるんですか?」
 と質問を返されたので頷く。どうして? と質問が続いた。質問ばかりだった。きっとお互いに、自分のことを話すより相手のことをしりたいからだ。
「僕は関与していないことだけど、君、僕に刺されたことがあるし殴られたこともあるんじゃなかったか」
「はあ。ありますけど」
「そんな相手なのに?」
 彼女は心底ふしぎだという顔をして、首をかしげた。その顔をしたいのはこっちのほうだった。僕は眉を寄せた。意識的に。そうしなきゃならなかったので。
「関係あります? それ。いま」
「あるだろう、ふつう」
「大外さんが意味が分からなくて不安だっていうなら、いくらでも説明しますけど。第一、いま自分で言ってましたけど、あなたは関与してないことじゃないですか」
「僕はしてないけど、君の中じゃ、僕だろう」
 ふむ、と彼女は言った。正直、今しがた彼女が口にしたことのいくつかは「そういう意味じゃない」と言ってやりたかったが、指摘しては話が逸れる。この女はとにかく、ちゃんとしていないときは話があっちこっちに飛んでいくものだから、僕がどうにか一本道に収めておかなきゃならなかった。
「そりゃ痛いのは私だって嫌ですし、もう刺されたくないですけど。別に大外さんが私を刺したわけじゃないことくらいは、分かってるつもりなんですよね」
 はあ、と言うのは今度は僕のほうだった。
 女は感覚的すぎていやだ。何も具体的に説明しちゃいないのに、私は全部説明しましたよという顔をする。まるで、分からないお前が悪いのだという空気にする。僕は大嫌いである。いまの状況そのものは僕を苛立たせなかったが、嫌なことを思い出して不快になった。
 塚原が言葉を継いだ。僕は彼女がそうするだろうと分かっていたから、彼女に対して平静でいられる。塚原には信頼があった。感覚的なことを言ったとしても、その感覚の理由を、少なくとも塚原は自覚しているという信頼である。僕が腹を立てて塚原を殴らなかったのは、それだけ。
 彼女はぼんやりした顔で、ぼんやり言った。思わず、僕もぼんやり話を聞く。
「あんたは、私を刺したくて、私を殴りたくてやったわけじゃないですよ」でも今は、私を見てる。
 どういう意味? あまりにも詩みたいで、ぜんぜん、分からないんだけど。
 塚原は一度、目を閉じた。そしてもう一度開く。長いまばたきだった。眠いのかもしれない。
 僕と塚原はただでさえ、やることを済ませたあとのベッドの上にいて、塚原はふとんをひとりでからだに巻き付けていた。いもむしみたいになっているものだから、顔と肩しか見えない。僕はシャツだけ着ている。空気はけだるくて、まだそのあたりに、さっき僕が放り棄てた熱情があるに違いなかった。僕はこういうときのベッドの匂いが果てしなく嫌いだったが、彼女の話を聞かなければいけなかった。実際のところ、このベッドの上でしなければならないことなんて何もないし、このベッドの上にいなけりゃいけないことも何ひとつなかったが、僕はこのぐずぐずの空間にとどまることを選択した。その自覚はある。すぐそこにシャワールームがあって悪趣味なことにガラス張りなので、やろうと思えばシャワーを浴びながらでもこのいもむしを眺めることはできたが、声が聞こえない。この女とは、会話で距離がちぢまる。セックスなんて程度じゃ、この女には太刀打ちできない。
 思考だ。
 会話だ。
 なかったことにはできない言葉そのものだ。
 うやむやにできない、確固とした論理と、自分の中の思索。それらのうち、相手の前に広げていいと判断する、その取捨選択。
 それらをいっしょくたにしたものが、塚原と僕の間を作り上げてきたようなものだ。言葉遊びをしたいんじゃないし、推理ごっこをしたいのでもない。謎かけしたいわけでもない。
 会話だ。打てば響くやつ。
 ひとりじゃできない。
「大外さんは、私がたどりついてしまったから殴っただけだったし。私のことを分かってなかったんですよ、私を刺したとき。わざわざ日記にも書いてたのに、私だって分からなかったんですから」
 僕はまだ話を聞きたかったし、話をしていたかったのに、彼女はもう眠りかけだった。おかげで話の順番がばらばらで、僕は声を聞きながら、正しい順番に組み立ててやらないといけなくなった。
「日記?」
「はい。書いてるでしょ、大外さん……今もそうなのかは知んないですけど。あれ、やめたほうがいいですよ。私のときみたいに、見られたら一発アウトです」
 思い当たるふしはある。確かに、彼女の言うことを信じるなら、塚原を刺した僕はこの女のことを書き留めただろう。僕はかつて彼女を刺した。そういう「設定」が彼女にあることは知っているし、何度も聞いた。その設定のおかげで、僕はこの女とこんなことになっているから、忘れるはずもない。物語にありがちな、最初にだけ出てきてやがて忘れられるような、ちんけなやつじゃなかった。もっと根本的なところだ。
 かつての僕は、この女を世界から切り捨てようとしたことがあって、その話だった。この女じゃなくても、きっとよかったのだろう。殺す対象として意味をもつ人間はだれもいなかったからだ。彼女の「設定」を借りるなら、あのときは遥斗さんだけが、対象として意味をもっていた。塚原は塚原じゃなかったし、そもそも知らない女だった。
 あのとき。それは、過去をさす言葉だ。今じゃない。
「でも今はそうじゃないから、別にいいんですよ。殴ったり刺したりしたことなんてどうでも。今の私は、もう女子高生でもないですし、あなたは私の名前を呼ぶし」
 分かりました? と彼女は言った。言いながら目を閉じている。ここで僕が分かったと言えば、すぐに寝るだろうと思った。
「寝るの?」
 だから僕は、そう答えた。
「ううん、まだ起きててあげてもいいです」
 ぱちりと、塚原が目を開けた。むりやり開けているのがもろばれだった。僕は笑う。口元だけで。そうすると、ちょっとは優しく見える笑い方になると知っていた。
「寝たら?」そして声は、はっきりと出さないで、喉のおくをふるわせるだけで話すと、優しそうに聞こえる。
「そんなこと言われたら五秒で寝ます」
「もういいよ」
「それにしても、なんかあったんですか? 目が赤いです」
「このところ夜が遅いから」
 ふうん、と塚原は言った。次の瞬間には、もう寝ている。
「塚原」
 呼んでも、返事をしない。寝ているから。
 僕は枕に顔を押しつけて、電気を消した。大きな明かりを消したあとも、だいだい色の豆電球がぴかぴかしていて、僕は結局、頭を上げてそれを消すスイッチを探すはめになった。まっくらな中で、塚原がいるあたりを見つめる。そうしていると、彼女の輪郭が、闇の中に浮かび上がる。このとき、塚原の髪が黒じゃなくてよかったと思う。暗くしても見えるからだ。手を伸ばして、頭に手を乗せた。ぐしゃぐしゃになっているのを整えてやりたかったが、髪をつんと引っ張りそうで、できなかった。たかだかそれくらいのことでこの女が起きるとは思えないが、できない。
 そうやって、僕はしばらく塚原音子を眺めてから眠る。

 もう一度尋ねたら、もう一度答えてくれるだろうかと思った。きみの声で、もう一度聞きたい。そして、僕にも聞き返して欲しい。
 明日の朝、目ざめた君に、夢から目ざめた僕が、また同じ問答をしたい。
 さっきのことは夢みたいだったから、よく覚えていられなかったんだ。