マイ・フェイバリット


 この人はとてもスマートで、繊細で、取り繕うのがじょうずな人だ。顔立ちも話し方も穏やかで、脅威らしい気配を、そうそう表に出さない。背丈はあるけれども、威圧感はない。とにかく私が言いたいのは、この人が身綺麗な人だという話である。だが、そんなふうでも、この人からも男の子の匂いがする。
 私は広いベッドの上で目ざめて、そんなことを思った。厚い羽布団は厚さに比べて軽く、どっちかといえば私の上に乗せられているこの人の腕のほうが重い。大外さんの腕が私の横腹にあって、上半身が私の肩に触れていた。めちゃくちゃ熱い。人間と人間は皮膚が触れあっているとき、なぜだか発火現象を起こしているみたいに熱い。たぶん燃えている。なんで男の人って体温が高いんだろう。体内にエンジンみたいなものがあるに違いない。大外さんがすぐ爆発するみたいになるのもそのせいだ。それだけ大きな熱源をもっているなら、たくさんエネルギーが必要であるのも納得できる。この人は小食なので私の弟ほどではないけど、それなりの量を食べる。でも痩せぎすなので、燃費が悪いなと思っていた。この人の場合、エネルギーの大半が反社会的なことと、体温にまわっているんだろう。
 皮膚が溶けそうだし、何しろ暑い。でも、この腕を放り投げて、この人を蹴り飛ばしたらここで二度寝ができないのでそのままにした。大外さんがこうして熟睡する夜は、あまりない。私に比べたら。

 男の子の匂いというものを私が実感できるのは弟がいるからだ。大外さんは私と友達をやって一年以上経つのに私に弟がいるのを知らなくて、
――大外さんも男の子の匂いがするんですね。
 と私が言ったとき、殺人鬼のような顔をした。いや、ふつうの顔してる時点で殺人鬼の顔なんだけど。大外さんが殺人鬼だから。いや、話が逸れる。そうじゃない。
――誰の匂いと照合した上での発言だ、それは。
――いやですねえ、加齢臭とは言ってないじゃないですか。
――だから、誰だ。
 私はその殺人鬼の顔を真正面から見つめて、こんな面白いことってあるだろうか、なんて思っていた。対する大外さんは一秒ごとにイライラのボルテージが上がっていた。それが大外さんにとってしんどいことは分かっていたし、私はこの人を怒らせたいわけでもなかったので、
――弟です。
 とすぐに答えた。そのとき、大外さんは殺人鬼の顔をやめて医大生最高学年の顔に戻ったけれども、眉は跳ね上がった。
――弟なんかいたのか、きみ。
――いましたよ。言ってなかったですっけ。
 知らないよ、と大外さんは答えた。私と大外さんは友達をやって一年以上経つのに、たぶん、知っていることより知らないことのほうが多い。友達をやって、まだ一年とちょっとでしかないからだ。
 僕は知らない、ともう一度大外さんは言って、私の首のあたりに鼻を寄せる。そうすると、ただでさえ熱い体にさらに熱いエンジンをもった体が近づいてくるので、もうとにかく熱くて、私はわきの下を汗が流れていくのを感じていた。小さなライブハウスで、セロファンの色を透かせたライトを浴びるアイドルたちを応援していたときと同じくらい熱い。ステージのライトはめちゃくちゃ熱くて、みっきーもゆりりんも、カネコノも、みんな汗みずくだった。それを見上げる私たちもそうだった。あれを思い出す。酸欠になるのも似てるし。
――塚原さん。好きな色、なに?
――……はい? 色?
 あんまり突然の質問だったので、聞き返した。大外さんは「そう。色」と言った。私が聞き返したのは質問が聞き取れなかったからではなく、意図が分からなかったからなのだが、大外さんはただ繰り返すことしかしない。
――えー……色?
 私は実のところ会話にあまり神経を使っていられなくて、そんな曖昧なことを言った。この人は自分との会話にそういう、曖昧な態度を取られるのをよしとしないようなところがあって、「そうだよ。なんかないの?」ととげとげしく言った。私の首のあたりに顔を押しつけているので、首筋から声が聞こえる。外面がいいぶん、こうなったときの子供っぽさの振り幅がでかい。
 大外さんの首が私の目の前にあって、今しがた彼を不機嫌にさせたところの「男の子の匂い」がした。どんな匂いと言われても困るし、説明するときっと怒るので言えない。男性用石鹸と、たぶん汗と皮脂の匂いだ。絶対怒る。
――ビタミンカラーみたいなのより、ちょっとくすんだ感じののほうが好きかもしれないです。
――なんだ、適当だな。
――小学生のときは紫が好きとか、緑が好きとか言ってましたけど、この歳になると色よりバランスですよね。
――あんな服を選んで着てる女がよく言う。
 あんな服、と言うとき、大外さんは露骨にベッドの下を顎で指した。そのとき私の鎖骨をがりっとやったので、めちゃくちゃ痛かった。
 今日は何を着てきたか思い出そうとしたが、思い出す前にこの人は腰を押しつけた。たまらずぎゃっと言う。大外さんは私に呆れた目を向けた。そうしつつ、私の耳の下に押しつけていた額を離して、私のことを見下ろす。こうするとき、この人は目を細めている。私はまばゆい明かりを背にした大外さんを見上げることになるので、まぶしくて目を細めている。
 そして、
――動いていい?
 なんて聞く。私はどうぞ、と返す。
 この人は私とのこの行為を何とも名前をつけて呼ばないので、私も名前を言わない。基本的に拒否したことはない。そもそも、誘われたこともないし。お互いにあからさまにこの行為の話をしないのに、いつのまにか私は服を脱いだり脱がされたりしていて、この人は目を細めて私を見下ろしている。
 皮膚が触れあっている部分が燃えている。男の人は体温が高い。揺さぶられながら、私は短く息を吐く。空気を吸っている間に、内臓ごと吐き出しそうに揺すられるからだ。
 私が辛抱できなくなって脚をばたつかせようとしたとき、この人は的確に脚を押さえ込む。逃しきれない震えをどこかで発散しておきたいのに、この人は逃げることを許してくれない。暴れる人間相手に行為を進めるのに慣れているだけある。ちなみにぜんぜん褒めていない。おかげで私は酸欠だ。
 私がひときわふるえたあと、すんすん鼻を鳴らしながら大外さんへの悪態をついているとき、この人は喜ぶ。笑うので、それが分かる。この人が笑うので、私は悪態をつきながら、一緒になって笑いそうになるのをこらえている。
 そういえば、私もこの人の好きな色を知らない。

 さすがの私もそこまで世界が単純だとはまったく思っていないけれども、まあそれでもむりやり世界を「好き」と「嫌い」に分けるとしたなら、大外さんはたぶん、私のことを好きだ。私もそうだ。これは、目的語は私ではない。
 黄昏ホテルにいたとき、私のアイドルの話を大外さんが聞いていてくれたことがあった。懐かしむわけではないけど、たまに思い出す。大外さんは私の話の合間に茶々をいれておきながら、「続きは?」とうながしてくれていた。アイドルになんて興味ないし、モテる手段でしかない流行について、聞き流すわけでもなく、ちゃんと聞いていた。私の話がそれほどうまいわけはないから、あれは何だったんだろう、と思う。
 思い出すたび自惚れそうになるから、私はこの話をしちゃ駄目なんだった。忘れていた。
 この話はなかったことに。

 大きな音で音楽を聞いていると、音を拾う器官は耳のはずなのに、まるで皮膚で音楽を吸収しているみたいな気持ちになることがあって、そういう感じは好きだ。〇〇のはずなのに実際はこう、というのはどっちが本当か分からなくなるのでぜんぜん好きじゃない。
 今日は、この冬いちばんの雪だった。寒い日はみんな着込むし荷物が多いからその始末に気力を削がれるので、嫌だ。大外さんから連絡があったとき、私はそんなことを言って断ったが、大外さんは聞く耳をもたなかった。試験が近づいてくるからだろうか。あんまり余裕がないのかもしれない。試験が近づいているのは私も同じだ。私は一年浪人しているので、さすがにもう一浪はできない。もし今年もだめだったら就職かな、と考えているが、大外さんが教えてくれた手前、そんな簡単にあきらめきれない。
 私は、あの人がしたことをむだにしたくなかった。どんなことでもだ。
 改札の向こうがざわつく。電車が一本到着したらしく、ぞろぞろと改札を通ってくる人の中に、大外さんがいた。仕事終わりの時間だから、電車が一本到着するごとの乗降人数が多い。それでも、あの人は背が高いので目立つ。私は耳からイヤホンを抜いた。大外さんは、私の知っているコートを着ていた。表はなんてことないベージュなのだが、内側の裏地がチェック模様でしゃれている。イギリスのブランドのコートだった。私でも知っている。今日の大外さんはその上にモスグリーンのマフラーを巻いていた。殺人鬼だって寒い日は寒いのである。
 私が片手を挙げると、大外さんはそれに気付いて近づいてくる。
「店の中にいればよかったのに」
 挨拶もそこそこに、この人はそう言った。
「ここなら、改札が見えるんで。……で、どうすんですか、今日。私はマジで嫌なんですけど。寒いし」
「そのために呼んだんじゃない」
「じゃあなんですか? 電車止まるかもしれないのに」
 私が尋ねても、大外さんはろくな答えを寄越さないまま、歩き出した。この人にはそういうところがある。
 今日の待ち合わせ場所は都内のターミナル駅だから、なおさら人通りが多い。そのおかげで道に雪が積もっているということはないが、びちゃびちゃで歩きにくかった。大外さんに呼ばれたときはいつも捨ててもいい靴を履くようにしているが、今日こそ、どうでもいい靴を履いてきてよかったと思った。
 街はすっかり夜だ。真冬と呼べる季節のはじめごろ、あと少しで冬至になる。夜が長いときだった。街灯が煌々と明るく、そこに雪が舞っている。音楽のPV映像みたいだった。そんな街を、私は大外さんと歩いている。
 大外さんは背が高くて、すらっとしていて、顔に余分なものがない。目がふたつ、鼻と口がひとつずつ、パーツは私と変わらないのに、雲の上の誰かはよっぽどていねいに位置を決めたらしくて、私は隣を歩くたびにははあと思う。まあ、五股も可能なわけだ。今はどうなっているか知らない。聞いたことがなかった。いま聞いてもよかったが、私は聞かない。そういう「いま聞いてもいいけど聞かない」を繰り返して、今に至っている。
 私と大外さんのあいだには、知らないことがいっぱいある。知らないことがなくなってしまったときが怖い。
 大外さんは駅からすこしだけ歩いて、そばの百貨店に入った。百貨店の1階は化粧品と決まっている。デパートコスメが私を誘う。ただのバイト苦学生ではデパートコスメで揃えるのはむずかしいが、来月はここのリップ買おう、と思うだけでがんばれることはある。今年は、金色のリップがはやりだ。可愛いと思う。
 大外さんは化粧をしないから、ちらと見ただけでエスカレーターに足を乗せた。私も後を追う。この人は、取捨選択が早い。その一方で迷うときはとてつもない時間をかける。私はどんなことも、その平均くらいだ。
「どこまで上がるんですか?」
 というか、何しに行くんですか?
「5階」
 短い返答だった。こちらをろくに見ない。
 私はふーんとだけ言って、吊り下げられた広告を眺めた。催事場はいま、ハワイアンキルトの展覧会をやっている。へえ。
 私の前を行く大外さんは背中がすっきりと伸びて、きれいだ。この人、やっぱりベースがきれいなのだ。だが今は、それがわずかに強ばっている。それを隠そうとして背筋を張るから、私にはばれてしまう。やがてエスカレーターは目的階に着く。大外さんは一見涼しい顔でフロアに降りた。私はその人を見上げた。レディースのフロアだ。百貨店は街中の量販店に比べると人が少なくて、小さく流れる音楽ばかりがよく聞こえる。聞いたことはあるけど、タイトルが思い出せない。
「大外さん?」
 呼んだが、答えてもらえなかった。身体を傾けるように、こちらを振り返っただけだ。なんなんだか分からないまま歩かされているが、ブランドのショップ店員がみんなかわいいので悪い気分ではない。もしかしたら、この中の誰かを殺したいと言い出すかもしれないので気は抜けなかった。都心の百貨店に集まる人間の多くは、所属する社会的ステージが高い。
「塚原さん」
「はあい」
「あれ、覚えておいて」
「どれですか?」
 大外さんの指がさす先にとまどいながら、私は大外さんの顔を見上げる。その目が細くなって、ゆるく弧になった。あ、と私は息を呑む。
「あの、ショーケースの隣に並んでる、一番手前」
「え? はい」
「覚えたら行こう」
「はい?」
 なにも説明しない。自分で考えろということだろうか。私はすらりとした背中を追いかけた。
 大外さんがさしたのは、深緑のワンピースで、すそがレースになっているかわいいやつだった。覚えろと言われても何を覚えろと言われているのか分からなくて、私はそれだけの情報しか頭に入れていない。腰の切り替えがどの位置だったか、ボタンだったかチャックだったか、襟はどんな形だったか、なにも覚えてない。
 この人の意図を考えようとしたけど、自惚れそうになった。自惚れは嫌だ。
 もう店員の顔も見ていられなかった。やめたいと思うのに、何度も同じ思考を繰り返して自惚れた。この涼しい顔をした男が何を考えているかなんて、私は親より恋人よりよく分かっているはずだ。見た感じよりもずっと子供っぽくて、単純で、周囲とか社会とかのものに迎合しようと努力できてしまうことも分かっていた。頭が必死に自惚れをたたきだそうとする。けれどももう一人の私が、それを上回る早さで自惚れを流し込む。逃げたかったが、百貨店のフロアを失踪する二十代女にはなりたくなかった。
 早く楽になりたい、と思ったときにこの人はまた足を止めた。
「それと、あれ」
 また、店内を指さす。葡萄色のワンピースだった。すそがアシンメトリ。襟はビロード。それだけの情報を私は頭に入れた。そして、大外さんを見上げる。
「つまりこれ、何の会なんですか」
「どっちが好き?」
「え、あの」
 大外さんが店に足を踏み入れる。店員が笑顔でいらっしゃいませ、と言った。私はワンピースに視線を戻した。丈はひざ丈。裏地がしっかりとしているみたいで、薄くない。葡萄色一色に見えるけど、細かくチェックが入っている。スカート部分はたっぷりしたドレープ。
 私は息を継ごうとした。結局失敗して、胸が詰まる。死にそう。死ぬかも。
「私が、選ぶんですか」
「そうなるね」
「え、なんで」
 この人は、ただ笑ってみせた。ふたりきりでいるときの、意地が悪そうで気安い笑い方ではなくて、ひとりきりのときに笑うときのような笑い方だった。本当なら、誰もその顔を見るはずがなかったような感じがして、私はすぐに目を逸らした。
「着てみる?」
「いや。ええと、そうじゃなくて。……あ、そうだ、大外さんは、どっちが好きなんですか?」
 あ、そうだ、なんて言っている時点で、苦しまぎれの言葉だと分かる。だがもう口から出て行ってしまったので、取り消せない。
 大外さんは、私を見下ろした。やけに優柔不断だな、とその目が言っている。その目のまま、この人は私に、言う。
「僕は服じゃなくて、それを着てる君のほうが好きだ」
 いや、だから。

 私は、他人にあまり期待をかけないほうだ。それをドライだとか、冷たいだとか言われることもあるけど、他人がどう動くかなんて分からない。でも、こうなったらいいなあ、と思うことはある。その希望をそそのかされてしまえば、すっかりその気になる。乗せられやすいし、乗りやすい。むろん、調子にだ。
 一方のこの人は、今まで期待をかなえてもらった経験がそうそうないのに、すぐに持ち金すべてベットしてしまう。絶対に賭け事はやめたほうがいいと思うけど、計算できる範囲のことなら計算するから、ただの賭け事なら得意だろう。この人が苦手なのはそういうのじゃなくて、もっとシビアな人間関係の部分だ。
 私は、できるだけ自惚れたくない。それが勘違いだと気づいたときの恥ずかしさったらないし、自惚れているさいちゅうこそ最悪だ。もともと調子に乗りやすいのにもっと乗りやすくなる。身にしみているはずなのに、私は何度も繰り返してしまう。
 大外さんだって身にしみているはずなのに、人に期待をかけるのをやめない。私はそれを知ってる。だから自惚れてしまう。
 大外さんが、この身綺麗な人が、私に何かしらの期待を有り金はたいてベットしようとしているのかもしれないと思ってしまう。
 私は葡萄色のワンピースを着せられて、会計を済まされて、そのまま百貨店の通路を歩いている。これは何なんですか、と聞こうと思えばできたけど、聞かなかった。これは自惚れじゃなく、確実に、返ってくる回答は決まっているからだ。ここに来るまでのあいだに着ていたチープな服は、美人で可愛い店員がせっせとたたんで紙袋に入れて持たせてくれた。回答はその紙袋だった。
 紙袋には、Merry Christmas、と書いてある。
 私はその紙袋を腕に下げて、可愛いワンピースのうえに今年はやりのコートを着ている。ふさふさのファーがついた袖と襟のせいで、中のワンピースが見えないのがもったいなかった。もったいない。そんなふうに思ってしまいながら、私は大外さんの斜め後ろを歩く。大外さんの背中は、エスカレーターを上がっていたときよりゆるんでいる。それだけで、何に緊張していたか、分かってしまった。分かってしまったから、私はさらに息が詰まる。
 下りに、大外さんはエスカレーターではなくエレベーターを選んだ。エレベーターホールは誰もいない。二基あるエレベーターはどちらも最上階にいた。二人でぽつんと、売り場のにぎわいから離れたところに、並んで立った。
「大外さん」
「なに」
「ありがとうございました。これ好きです。私、たぶんこれと同じくらいのもの、返せる自信ないんですけど、でも考えるので、当日まで時間ください」
「期待してないよ、もとから。気にしなくていい」
 この人は、そう言いながら私と目を合わさなかった。私は、かばんからスマートフォンを取り出す。ホーム画面に、天気予報が出ている。大きな雪だるまのマークは、明日まで続いていた。
 エレベーターが到着した。最上階はレストランとカフェのフロアで、そこから下りてくる人でいっぱいだった。それでも、二人は入る。私と大外さんは隣り合って、隙間に入り込んだ。私はその隙間でスマートフォンを操作し続けた。大外さんが脇から、画面をのぞき見ているのが分かる。私たちは息を詰めて画面を見つめていた。時刻は8時になろうとしていた。外に出れば、きっと暗い都会の夜に、白いぼたん雪が散っている。私が検索バーにワードを入力しようとしたとき、途中階に止まる。エレベーターの箱は音をたてて静止し、いったん外に下りた。大外さんは私の入力しようとしたワードを、途中まで見ている。そんなこの人は、乗降がおさまるのを待ちながら、私に囁いた。
「電車、動いてる?」
 これは私たちのあいだで、きっと初めて交わされたあけすけな誘い文句に違いなかった。私は検索結果を見ていない。それでも答えた。
「止まっちゃいました」